小説「よりそう~手帳と万年筆のちょっといいはなし~」第78話
早朝のカフェ「キムン」。北海道アイヌの言葉で山を意味する名前のカフェで、本当であれば開店準備で忙しい時間、おれとマスターの二人はちょっと顔をうつむきながら話をしていた。 俺が一方的にする報告をマスターが黙って聞いているというのが正確ではあるが。
「息子さんは今も、元奥さんの旧制の若林隆史でずっと通しているそうです。元奥さんが再婚された姓にもう一度変えたくなかったそうです。」
説明を始めた俺の声をマスターは黙って少し顔をうつむきながら聞いている。
「自分も言われて気づきましたが、たしかにある日突然自分の苗字が変わってしまったら、すごく戸惑うだろうなって、しかもそれが自分がしたいと思ってしたわけじゃないのであればなおさら。」
そこまで言って、マスターを攻めているような言い方になってしまったことに気づき、慌てて
「あ、う、す、すいません。」
「いや、お前の感情は間違っていないし、おれもそこまで考えが回ってなかった。いろいろ事情はあったが、あいつを守りたくてこっそりいなくなったんだがな。結果的に何よりあいつを苦しめてしまったんだな。」
何て言っていいのかわからなくなるほど、重くなった雰囲気。もちろんそのいろいろな事情を聴いていいとは思えないし、今は対して重要でもない気がする。なぜか流れているジャズもスローテンポになっている気がする。
「そういえば、彼、マスターと同じタイプのペリカンのボールペン持っていましたけど、あれ、マスターからのプレゼントなのではと思ったんですけど。」
話を変えたくて、全然関係ない話をした。
「よく気づいたな。あいつが二十歳の時、あいつの母親を通して渡してもらった。いやそうだったけどな。だから、お前からのプレゼントってことにしてくれって、元かみさんには言ったよ。ちゃんと渡してくれていたんだな。」少し乾いたようにふっと笑う。
「それで、隆史さんにはなんとか前に進んでもらいたいなと思って、一緒に手帳買いに行くことにしました。」
「はい?」 マスターらしからぬ声が聞こえる。
やっぱりそうなるよな。
「いいペンは持っているから、やっぱり手帳かなと思いまして。」
「手帳で人生を変えるっていうやつか」
「そういうのよくわかんないんですけど、結城さんに手帳を買って最初にすることとして、しっかり自分の名前を書くっていのがあったんですよ。それがすごく気に入っていて、自分を手帳に刻む作業。少なくとも手帳の中ではしっかり自分を規定できる儀式かなと思って勧めました。」
「なるほどな。」
「彼に聞いたんです、だれでもない自分に対して、あなたは何て名乗るんですかと。そしたら、迷うことなく言いました。
おれは、 新田隆史です って」
その言葉を聞き終わるか終わらないかのタイミングで、マスターはカフェのカウンターの後ろに回りコーヒー豆を確認し始めた。
どういう表情なのか見えないけど、怒ってはいないと思う。そして、いつもより小さい声で一言、
「竜馬、ありがとな」、初めて名前で、そう言ってくれた。
また、過去の内容を取りまとめ加筆修正したフルバージョンを作りました。ご興味があればちょっと覗いてみてください。(大分本編と開いてしまったけど、不思議な手帳と万年筆の出会いがわかります)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?