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あの山の向こうの、東の方へ(ここが”むさし”と呼ばれる前に)

関東平野は広い。

関西から初めてやって来た時に、果てしなくどこまでも町が続いていて、山がない。東も西も北も南もわからない。これが樹海で方位磁石が効かなくなるということかも。

そんな印象を持ちました。

関西人は東西南北の碁盤の目が身体感覚になっていて、道を曲がるたびに今どの方角を向いているかが頭の中で自動修正されるので、道を曲がっていないのに方角が変わっていると混乱するのです。(私だけ?)

そして、関東は縄文が近い。

そんな印象も持ちました。

やがて、東京の道がぐるぐるしているのも、神社があちこちを向いているのも、この地が、かつて(縄文の頃に)リアス式海岸のように海が入り込んでいて、古代の人は岬の突端で海に向かって祈りをしていたために、神社の方向がバラバラになっているのだと知りました。

今では都心の真ん中にある「青山墓地」は、土器のような形をしていて、海が入り込んで奥まったところにあって、まるで「吾子」を守るような姿をしています。

ここは縄文時代からずっと常世とつながっていた場所なんですね。

そんなことを思うと、縄文の人々が、この地の風景をどんな風にみていたのか、海風と潮の香りとともに追体験できるような気がします。

国土地理院の地図に追記

青山墓地

今から6000年ぐらい前は、縄文海進といって海面が今よりも25mぐらい高かったそうで、グレーの場所まで海が入り込んでいたのでしょう。縄文人が陸伝いに歩いたのか、船で入り江を行き来したのか、または泳いだのかは、わからないけれど、そんな様子を想像すると、ワクワクして楽しい。潜水も上手だったのかも。

太陽も月も、草より出で来て、草に身を沈めたことでしょう。

そして、地名が地形から名付けられていることも、なんとなく垣間見れそうなのです。

下北沢のもとの「北沢」という名は、海が後退していく過程で沢となったところなのでしょうし、渋谷の北の「富ヶ谷」という名前も渋谷と並ぶと「ああそうか」と思います。

なにかを囲むように「麻布」がたくさんあるのも、三田が「御田」といわれていたのも、弥生時代になって水に恵まれたいい場所だったことが、その地形から自然に想像できます。

東京と埼玉の東端は、長い間、ほとんど海でした。現在の関東平野の陸がある部分は「毛野(けの、けぬ)」とひとまとまりで呼ばれていて、武蔵(むさし)の名はまだありませんでした。

海面の高さが低くなって「むさし」と呼ばれるようになった頃も当然、現在のようにビルや建物はなく、ただただ広い薄野がひろがっていたのでしょう。そんなところでは、きっと遠くの山もよく見えたのだと思います。

とても、印象的に。

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rukaiノート No.8 (2020.10.26)

『常陸風土記』には富士筑波伝説といわれる話があります。富士山を訪ねた神様が次に筑波山を訪ねるお話しです。どうしてその順番なのだろうと思っていたのですが、理由がやっとわかりました。

「富士山」に連なる山を越えると、遥か遠く東にみえるのが「筑波山」なのですね。もう筑波山しかない。

富士筑波伝説

国土地理院の地図より

延々と広がる草原や湿地の中にぽっかりと山が見える。

こんな景色は、日本のどこにもなかったのではないでしょうか。古代から人々が筑波山に、並々ならぬ思いを寄せていたことがわかる気がします。江戸時代の浮世絵にも、隅田川から見える筑波山の姿があります。

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歌川広重 名所江戸百景『隅田川水神の森真崎』

そして、武蔵国の国府や国分寺がある「府中」は多摩川の上流にあって、両方の山の真ん中に位置しているのです。(国土地理院の地図、すごい!)

面白くなって、古代からの大きな神社を調べたら、こんな風になりました。

出雲系と大和系

西や南から海や山を越えて東を目指して来た人たちは、富士山や伊豆大島の向こうに「これまでに見たことのない場所がある」と思ったことでしょう。

そんな人々の足跡を残すように、埼玉県大宮に氷川神社が、東京の府中には大國魂神社があり、どちらも出雲の神様を祀っています。大國魂神社は武蔵国の国分寺跡のすぐそばです。

氷川神社のあたりは、富士山と筑波山のちょうど真ん中あたり。

出雲の人々は神奈備となる山を求める人たちなので(奈良の三輪山のように)、もしかしたら、ここにたどり着いた人々は、富士山を背に筑波山を神奈備と据えようとしたのではないでしょうか。

日本海から山深い安曇野に分け入った人々が穂高岳を神奈備として、縦方向の想像空間サイズを一気に拡げたように、生まれたての地面がひろがる関東平野に来た人々は、水平方向の想像空間サイズを拡げたのかもしれない。

もしかしたら日本列島にやってきた人々は、安曇野を経て、関東に入って、はじめて日本列島の大きさを実感したのかもしれない。

関東平野は広い。

実際に目にする空間サイズが、想像の広がる心の空間サイズもひろげてゆく。だから、遠くの景色を見たり、空を見上げると心が軽くなるんですね。

【氷川神社】武蔵国一ノ宮
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)

【大國御魂神社】武蔵国守り神
大國魂大神(おおくにたまのおおかみ) *出雲の大国主神と御同神

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rukaiノート No.10 (2020.11.20)

そして、その後に天孫の神々の命を受けて、出雲の大国主命に国譲りを迫った武甕槌神と経津主神は、さらに東の常陸国と下総国に太平洋を間近に感じながら鎮座しているのです。

【鹿嶋神宮】常陸国一ノ宮
武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

【香取神宮】下総国一之宮
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)


この国土地理院のデジタル標高地形図のおかげで、こうしてその土地のリアルな古代の様子がうかがい知ることができました。この地図を見るようになって、古代と現在が、歴史となって重なって見えることが増えたのです。

このデジタル標高地形図情報は2019年に全国の都道府県全部の更新がされています。1816年の伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』から、途切れることなくどんどん更新されているのですね。

「未来に向かいたい分だけ、古代にも遡らないといけない」と常々思うのですが、改めて思い出すのが、中学の地理の先生が、「最初に[位置]、そして[地形]。そこから[気候]が生まれ、そこだからこその[生活]が営まれて[歴史]になる。」とおっしゃっていたこと。
いまさらながら、ことのほか、かけがいなく、ありがたいです。

大阪も全然違って見えそうです。




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