明治生まれ女の着物スタイル*鏑木清方『築地明石町』から思うこと
Facebookの広告で紹介されてきた「没後50年 鏑木清方展」。
この絵を見た途端に思い出したことがあって、これは必ず見たいと思いました。
それは30代の頃出席した幼馴染の結婚式で、お相手の新郎のおばあさまがお召しになっていた着物の感じに、この絵の女性の着物があまりにそっくりだったから。
そして私は、その結婚式があった1999年の夏、着物を着ようと決心しました。
鏑木清方《築地明石町》1927(昭和2)年
東京国立近代美術館 (c)Nemoto Akio
鏑木清方が描いたこの女性は地模様のある緑青色の単の着物に、袷の黒の長羽織を羽織っています。この長羽織が長くストンとしている様子が、そのおばあさまのご様子とよく似ているのです。
そのおばあさまは、ほとんど裾まで届く長い紫の道行の仕立ての着物姿で、少女のようでした。襟元には房がついていて、七五三の三歳の女の子が着る「被布(ひふ)」に似ていますが、袖がありましたので、この絵の真ん中の女の子の着物のような感じです。それが紫色のちりめんの色無地で、披露宴が始まる前の待合室でちょこんと座っていらして、集まった大勢の孫たちに囲まれてにこやかにされていました。
楊洲周延「見立十二支 未」(1893年)
その着物姿があまりに素敵だったので、
「おばあちゃんになった時、着物を普段に着れているようになりたい。」
とはっきり思ったのです。
「そのためには、今から着なくちゃ!」
と決心したのです。
「だから、着ていても大げさでないところに住まなくちゃ」
と大阪から京都へ引越ししたのです。
そして、初めて着物を買った京都のお店で、
「昔のおばあちゃんは、着付け教室で習って着ていたわけではないから大丈夫」
と言われ、
「そういえば、その通り!」
と思って、1時間だけ教えてもらって、あとは自分でなんとかかんとか。
わたしの祖母も明治生まれで「昔のおばあちゃん」に入りますので、確かにちゃちゃっと自然に着ていましたし、習った風ではありませんでした。
この絵は1927年(昭和2年)のものですので、この絵の女性と祖母は同い年ぐらいかもしれません。そして、この女性も現在のいわゆる着物のルールとは全く関係ない感じ。
羽織を着ているので、寒い時候かと思っていましたら、よく見たら裸足です。そして、緑青色の着物の裾に裏生地の色がみえませんので単(ひとえ)のようです。そういえば、後ろの垣根に朝顔が咲いていて枯れている葉がありますので、夏の終わりから秋へ向かう頃なのですね。
そうか、単(ひとえ)では少し肌寒い初秋の日の朝に羽織を羽織っているのかも。
一方、襟は半襟がみえないので、襦袢はなく着物一枚のようです。ちょうど浴衣みたいな着方でしょうか。
そして全体に黒と緑青の2色だけの都会っぽいコーディネイトで、足元の下駄の鼻緒が赤色でアクセントになっていて可愛いです。そして羽織のほうにもチラチラ赤があります。もちろん口紅もピンク系ではなくオレンジ系の朱赤をしっかり。
羽織の襟元の赤は、胴裏の紅絹(もみ)かな。ということは、羽織は袷(あわせ)です。ちょうど今の感覚でいうとサマードレスに厚手のジャケットを羽織る感じ。
それからもう一箇所、右脇からちらちと見える赤は、何の色でしょう。羽織の袖で前を合わせていますので帯が全く見えませんが、もしかしたら背中の帯の色が見えているのかもしれません。でもこの緑青色の単の夏の着物に赤い帯?はちょっとどうだろう。。
もしそうなら、腕を抱えて前が見えないようにしているのは、とりあえず締めてきた帯を隠しているのかもしれません。なにか急ぐことがあったのでしょうか。
さらに袖口からは左手が少し見えますが、よく見ると薬指に金色の太い指輪をしています。左薬指の指輪だなんて、さすが銀座の隣の築地の女。
それで、この絵の表題となっている「築地明石町」ってどこだろうと調べましたら、
旧外国人居留地の明石町(現・東京都中央区明石町)
とありました。
築地本願寺の東隣、隅田川に面した今の聖路加国際病院があるところなのですね。
外国人居留地ということは、横浜や神戸と同じく外国の文化がいち早くやってくるハイカラな場所だったのでしょう。
Google Mapより(東京都中央区明石町で検索)
さらにWikipediaによると、江戸時代には『忠臣蔵』の赤穂藩(兵庫県)浅野家の藩邸や中津藩(大分県)奥平家の中屋敷があり、中津藩の藩医で蘭学者の前野良沢らがこの中屋敷で解体新書を完成させたことから「蘭学事始の地」とされたり、同じく中津藩出身の福澤諭吉が1858年(安政5年)に慶應義塾の前身となる蘭学塾を開いた地でもありました。
また明石町という名は、播磨国(兵庫県)明石の漁師が移住してきたからとも、当地を明石浦に見立てたものともいわれ、いずれにしても、現在の兵庫県明石が由来のようで、ここも兵庫県に縁のあるところでした。
さらに彼女の着物に戻ると、黒の長羽織は、袖口と袂(たもと)に緑青色が見えていて柄が同じです。なんと単の着物と同じ生地を羽織の袖裏にしているのです。
うーん。かなり上級お洒落さん。
それをちゃんと見逃さず数ミリの線や面で描く鏑木清方すごい。
ちょっとひんやりとしだした晩夏から初秋にかけての朝霧の立ち込める朝だけ。この極々限られた時だけに、これ以上ないぐらいぴったりくるスタイル。
「なんでもない一瞬が、なによりも美しい」
《没後50年 鏑木清方展》テーマ
という展覧会の言葉に唸ってしまいます。(やっぱりこの展覧会は必ず見に行かなくては)
とりあえずあるものを着て来たように見えて、とりあえず化粧して髪を結って来たように見えて、化粧も着物も手の込んだものだけを選んでいるではありませんか。
キリリとした視線と口元に、彼女の自立した気概とお洒落心を感じて、嬉しくなります。(この心意気は確かに今も日本の女の子に受け継がれていると思う。)
後ろには霧にけぶった外国の船らしきものが見えますし、視線の先は異人さんなのでしょうか。。
それにしても、袂で隠している帯が気になります。イケてないから隠しているのではなくて、「ほら、こんな帯よ」といって彼に自慢してほしいなぁ。
それでね。
彼女がこんなに魅力的で現代的に見えるのは間違いなく、ボトムとコートのバランスや目元のオレンジ系ぼかしメークが、今現在流行のものとそっくりだからだと思うのです。
鏑木清方《築地明石町》1927(昭和2)年
東京国立近代美術館 (c)Nemoto Akio
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