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つわものどもの夢のあと 1

1話

 くねくねと曲がるヘアピンカーブがどこまでも続く道を、藤村誠司はハーレーダビッドソンに跨って走っていた。亜熱帯植物が生い茂る林からは、蝉時雨と鳥の囀りが入り混ざって聞こえてジャングルさながらのようだ。その声を雷のようなエンジン音が次々と掻き消していった。

 愛媛県最果ての地、高茂岬へと誠司は向かっていた。

 岬には太平洋戦争中に海軍の衛所があり、戦時中には40名の兵士たちがそこで勤務していた。海軍は高茂沖から九州にかけての海底に磁場を作り、海に補音器を敷設した。兵士たちは補音器から音を聴取して、豊後水道へ侵入する敵艦を探知していたのだ。

 誠司の兄総一郎は、ここで衛所長として兵士たちの指揮命令を行なっていたが、終戦間際に消息を絶った。兄は一体、何処へ行ってしまったのか。何故、指揮官である兄が消息を絶ったのか。散々調べ尽くしたが、何一つ記録には残されていなかった。謎は解明しないまま年月だけが経過して誠司も老境に入った。

 去年の夏、四国へ上陸した大型台風は、愛南町に甚大な被害をもたらせた。崖崩れが起こり町の道路は閉鎖され、交通路は遮断された。通勤や通学にも影響を及ぼし、町は孤立した状態に陥った。悪天は二十日間にも及び、年間の雨量を遥かに上回る水害に見舞われて家屋の崩壊も相次いだ。

 町長の津山真司は、このままでは町の存続が危ういと察して、四国八十八ヶ所霊場の観自在寺で祈祷を行った。するとその夜、津山は高茂岬にある戦没者の慰霊碑が倒壊した夢を見た。

 翌朝、施工業者を手配してドローンで高茂岬上空を撮影すると、夢で見た通り慰霊碑が落石により倒壊していた。直ちに慰霊碑を新設し、戦没者の供養を行うと、ザーザーと降り続いていた雨が止み、雲の間に光が差してきた。
 やがて快晴の青空が広がり、次第に町は活気を取り戻した。

 知られざる高茂岬。

 津山は慰霊碑の新設を機に、戦争史に埋もれた事実を多くの人々へ伝えるために慰霊祭を計画した。町のホームページで掲載されると、かつての海軍秘密基地で年端も行かぬ少年兵たちが海を護っていたことが世に知らしめられて反響を呼んだ。 
 誠司もその一人だった。いても立ってもいられずに、バイクで東京を出発したのだった。

 誠司は定年後、富士登山のガイドを務める傍らで、災害ボランティアとして愛車ハーレーで日本中を移動していた。82歳になる誠司は、十年前に妻に先立たれ一人で暮らしていた。外務省に務める一人息子は、イギリスでの海外勤務を終えて昨年帰国した。向こうで結婚もして、双子の男の子にも恵まれた。8歳になる孫たちは誠司によく懐いていた。

「I love you, Grandpa!」おじいちゃん大好き!

 孫たちは大きなバイクに乗る誠司のことをまるでスーパーヒーローのように思っていた。誠司は息子夫婦に内緒で、孫たちを交代でバイクの後ろに乗せてはツーリングへ出掛けていた。孫たちは父親の運転するメルセデスよりも、誠司のハーレーに興味を持っていた。自分たちも16歳になったらオートバイの免許を取るのだと決めていた。誠司も孫たちの成長が待ち遠しかった。一緒にツーリングへ行こうと計画も立てていた。

 だが誠司の思いとは裏腹に、息子夫婦からは誠司を心配するあまり、危ないからやめてくれと再三止められていた。息子とはその事でよく口論になった。

「こんな重たいもの自分で起こせないだろ?」

「重いからこそ安定感があるんだ」

「年寄りなんだから自覚しろよ!」
「うるさい!」
「父さんは畳の上じゃ死ねないよ」
 息子の皮肉めいた言葉さえ誠司には届かなかった。

 車体重量が重たいハーレーは、取り回しもひと苦労だった。誠司の乗るタイプは500キロを超えていて転んだら一人で起こすのは至難の業だ。それでも誠司は自分の体の一部のようなバイクを降りることができなかった。バイクは渋滞も回避できるしどこへ行くにも便利だった。

 誠司はハーレー独特の三拍子タカタッ、タカタッ、タカタッ、テケテッ、テケテッ、テケテッという音が大好きだった。乾式クラッチから聴こえる、カラカラカラカラカラカラと戦闘機のような不思議な音にも魅力を感じていたし、何よりもハーレーに乗る自分が大好だった。ハーレーにドッカリと跨る自分の姿が傍目にどう映っていようがお構い無しに乗り続けていた。

 兄の手掛りが掴めるかもしれない。そう思い高茂岬へ向けて出発したものの、予想に反して苦しい旅となった。



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