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雨の、真ん中 2009年3月19日

泳いで、
泳いで泳いで泳いで、
泳ぎ疲れて、顔を上げて息を吸い込む。
そしてふと振り返ると
ああ一番心休まる場所は
最初に海に飛び込んだあの海岸にあったのか、
そう思うようなことがある。


心頭滅却という言葉がある。
意味は、ものすごーく簡単に言うと、心の雑念を取り払うってこと。
「無」になる、とも言う。
十字や卍の中心にたたずむと、そんな気分になることがある。
なにもない、何も感じない、静かで、穏やかで、
あぐらをかいて、いつまでもあぐらをかいたまま、目を瞑っている。

わたしは心の静寂がほしくてほしくて、
寺に座禅を組みに行ったり
修行まがいの苦行をやってみたり
もがいて泳いで、いろいろなことをやってきたけれど
あのころ、あの雨の中で訪れた静寂ほど、
おだやかな「無」の境地はなかったんじゃないかと
雨の多かった先週の東京で
台形のいびつな部屋の中で、ふと思い出した。

                 *

それは、四隅がきっちりと直角な
几帳面な長方形の大きな箱。
高い天井。
大きな照明と、それを守る鉄の網。
いくつもの競技に使えるように、
これでもかというくらい交わってカラフルに引かれたライン。
大きな大きな、長方形のその箱は、小学校の体育館。

その中で私が、なによりも好きだったもの。
それは、沢山のラインが交わる、長方形の中心。
その一点。
そこに立って、高い天井を見上げる、
そこに座って、目を閉じてみる、
そこは、この世界の中心であるかのような気がした。

でもあるとき気づいたのだ。
何よりもどこよりも、その世界の中心が
もっともっと特別な世界の中心に、
中心の真ん中がぽっかり違うまあるい空気ができるような
そんな瞬間が、この世に存在するということを!
体育館の中で何よりも好きだったものが、
この世の何よりも好きなものになった。


それは、雨の日の早朝。
ドッジボールの練習を始める前、一番乗りで学校に来たときの、
一人でたたずむ雨の体育館。
几帳面な長方形の箱で雨に守られながら、
私はその箱の中心に一人、あぐらをかく。
高い天井に雨がはじけるザーザーという音。
その土のにおいがする水のザーザーという音が
騒ぎ立つわたしの毛ばだった心を静かに静かに平らにしてくれる。

誰もいない。
朝一番の広い体育館はシンと冷えた空気がぴたりと動きをとめ
息をするのさえとても慎重になる。
私という存在だけが、その静かな冷たい几帳面な箱の中で
うねうねとしている。

目を瞑る。

息を殺す。

そして、それはやってくる。
私はその大きな箱の中心で、雨の力を借りて世界と一体になる。
シンと冷えた箱の一点が、ふわりとまあるくなって
私は私ではなく、世界は私になる。

小学生だった私は
その感覚をなんて言うのか知らなかったけど
それは、ほんとうに特別な、特別なものだった。

                    *

最近、雨が多いと、いやだな、と思うことが多い。
でもそうだ、昔は雨が好きだったんだな。
雨のにおいも、雨の音も、土を平らに固めるようなその水滴も。

今も小学生の誰かが、雨の日の朝の体育館で
まだ知らぬ、得体の知れない特別な感情に出会ってるといいな、と思う。
もしそうなら、なんだか安心だ。


私はそして、また海にもぐる。
振り返った先を背に泳ぐ。

きっとその先にある、
雨の日の体育館の真ん中を探して。

そう、振り返らない。
きっとそれは、その先にあるんだて、思うから
だから今日も泳ぐのだ。

そう信じて、死んだじいちゃんに手を合わす。
こみ上げるものを飲み込んで、手を合わして
そして誓って、だから今日も明日もあさっても、
それを手にするまではいつまでだって
泳ぐのだ。

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※この記事は、2009年3月19日に書いた日記を転載したものです。

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