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原点 2009年2月8日

世界の平和とか幸福とか
そういうことを本当に願うことはすばらしいけれど
それをエゴの道具にしてしまう
金持ちインテリが嫌いだ。
その前に自分の足元をごらんよ。
あなたの身近な人は幸せですか?

森も自然も大好きで
緑豊かな環境が何よりも大事だと信じていたし
そこにロマンを見出す科学の世界は輝かしいと思ったけど
それを資本主義の道具にしてしまう
似非エコロジストが嫌いだ。
土壌の研究に日夜費やす科学者のロマンを感じてごらんよ。
あなたは豊かな緑がもたらしてくれる贈り物を知っていますか?

            ***

私の故郷は、たくさんの山に囲まれている。
それぞれの山には、愉快な名前とそれにまつわるエピソードがある。
有名な白馬岳もその一つ、姥捨山にも、権現山にも、
どの山にもそれなりのお話がくっついていて
小さいころお布団の中でわたしたちは
何十回とそのお話を聞くのだ。

黒姫山、という山がある。
新潟との県境に位置するその山にも他と違わず、
そこに住む大蛇にその昔嫁いだ「黒姫」という姫君に由来する
というエピソードがあるが
私にとってはもっともっと思い出深い話が、
この黒姫には、ある。


           *


黒姫童話館という素敵な建物があって
私は毎年のように
その童話館で開催されていた童話コンクールに応募したり
朗読会に参加したりしていた。

そして小学校4年の夏、私は宮沢賢治に出会ったのだ。
宮沢賢治は教科書にも載っていたし読んだことがあったけど
その夏、私は本当に運命的に賢治に出会ったような気がする。

「なめとこ山の熊」
宮沢賢治

どこの国の言葉ともわからない
不思議なイントネーションで始まったその物語は
今でも私にとって特別な一冊になっている。
その本を読んでくれたのは
賢治の故郷であえる岩手出身の、ものすごくべっぴんな
だけど化粧っけがなくてつなぎのジーパンをはいて
よく食べよく飲むおねーちゃんだった。

彼女と私はたちまち仲良しになり
私たちは20歳年の離れた親友になった。

私は次の年の夏、彼女と宮沢賢治の故郷である岩手を訪れ、
生まれて初めて一人で新幹線に乗り、
生まれて初めて「喫茶店」とそのマスターというものを知り、
生まれて初めて植林をして
生まれて初めて夜通し星を眺めながら知らない人たちと語り明かし、
生まれて初めて飯盒で沸かしたお湯でコーヒーを飲んだ。
人生でこれ以上ないくらいあったかくて、
おいしいコーヒーだった。

そうして私は、宮沢賢治という人について、とても興味を持ち
今までにないいくらい感じ、動かされたのだ。
感動っていう漢字の意味を、はじめてちゃんと理解した。

勉強というものにまったく興味がなくて
高校に行くことにさえ意味を見いだせなくて
ばあちゃんの畑が何よりも面白いと信じて疑わなかった私にとって
この体験はとても大きな転換点となった。
欠かさずつけていた日記の文字がその年の夏を境に
明らかに変わっているのだ。
私は賢治と賢治を介した出会いを通して
物を考えるということを始めたのだろうと
今振り返ると思う。

黒姫で出会ったおねーさんとは
今でも20歳年の離れた友人としてつながっている。
そうして今自分が、彼女が当時在籍していた大学にいることが
とても不思議だと思う。

もしかしたら心の奥の奥のどこかで私は
彼女を追って、あるいは彼女という存在があったから
この大学に入ってみたかったのかもしれない。

森や自然ということにことさら興味を持ち
植林のロマンに引かれて本を読み漁ったのも
中学から親元を離れてみたいと思ったのも
実のところすべての原点はあの時の旅に
あるのかもしれない。
わからない。

ただ、結局のところ、私は当時の旅をも通り越して
やっぱりもっともっと根源的なところに立ち返ってきてしまったのだ
と、今思う。

私は、
今のあらゆる興味につながることとなった
その元である宮沢賢治とつながることとなった
そのまた元である20歳年上の彼女とつながることとなった
そのまた元である黒姫とつながることになった
「ことば」ということに戻っていきたいのだと思う。


             *


そんな中で取り出した、賢治の一節。
10代の頃は「雨ニモ負ケズ」が一番好きだったけれど
ときおり「春と修羅」が読みたくなり、
「告別」を引き出すようになったのは
いつからだろう。

    「告別」   
            宮沢賢治
 おまえのバスの三連音が
 どんなぐあいに鳴っていたかを
 おそらくおまえはわかっていまい
 その純朴さ希みに充ちたたのしさは
 ほとんどおれを草葉のようにふるわせた

 もしもおまえがそれらの音の特性や
 立派な無数の順列を
 はっきり知って自由にいつでも使えるならば
 おまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろう
 泰西著名の楽人たちが
 幼齢弦や鍵器をとって
 すでに一家をなしたがように

 おまえはそのころ
 この国にある皮革の鼓器と
 竹でつくった管とをとった
 けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
 おまえの素質と力をもっているものは
 町と村の一万人のなかになら
 おそらく五人はあるだろう

 それらのひとのどの人もまたどのひとも
 五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
 生活のためにけずられたり
 自分でそれをなくすのだ
 すべての才や材というものは
 ひとにとどまるものではない
 (ひとさえひとにとどまらぬ)

 云わなかったが、
 おれは四月にはもう学校に居ないのだ
 恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
 そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
 きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
 ふたたびかいふくできないならば
 おれはおまえをもう見ない

 なぜならおれは
 すこしぐらいの仕事ができて
 そいつに腰をかけているような
 そんな多数をいちばんいやに思うのだ

 もしもおまえが
 よくきいてくれ
 ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
 おまえに無数の影と光の像があらわれる
 おまえはそれを音にするのだ

 みんなが町で暮らしたり
 一日あそんでいるときに
 おまえはひとりで
 あの石原の草を刈る
 そのさびしさでおまえは音を作るのだ

 多くの侮辱や貧窮の 
 それらを噛んで歌うのだ
 もしも楽器がなかったら
 いいかおまえはおれの弟子なのだ
 ちからのかぎり
 そらいっぱいの
 光でできたパイプオルガンを弾くがいい

            ***

私が賢治を好きなのは
彼がどんなに崇高な思考をめぐらしたとしても
どんなにすばらしい研究や文章を生み出したとしても
いつもどんなときでも
地に足が着いていたということ
土との距離を忘れず
泥のにおいを大切にしていたということ

何を切り口にしてもいい、
何を自分のものにしてもいいから
土と泥の感覚を忘れないこと
土と泥の感覚を忘れないで
空と星を描くこと
それがわたしがやりたいことなんだと
今なら思う。

日本にはそれが
足りないような気がしてならない。
大学でいつも感じていた、
それがわたしの、違和感。

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※この記事は、2009年2月8日の日記を転載したものです

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