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大好きだった祖父が亡くなっても涙が出ないほど不自由だった私が自由を取り戻した話

夢を見た。もう死んでしまった、祖父と祖母の。

祖父母は慈愛にあふれる人たちだった。私が私であるというだけで価値を認め、どんな時も何も聞かずに私の味方をしてくれた。

祖母が死んで、葬儀の準備をしていたら後を追うように祖父が死んだ。私はこらえきれずに泣いた。私の村では、人が亡くなると翌朝の早朝に道祖神に集まってお神酒を飲みながら燃やすのが風習だ。朝7:00に道祖神に来いと父に言われて、あれ、でも祖父も今家の中で息を引き取ったのだけれどどうしたらいいんだろう、とふんわりと困惑して目が覚めた。

現実には、祖父が先に亡くなって、その10年ほど後に、祖母がなくなった。そして実際の私は、祖父の葬儀のとき、涙を流さなかった。流せなかった。火葬の風習の話が夢に登場したのは多分、今年のはじめにバラナシで見た火葬場の影響だろう。

バラナシで見た火葬場の風景が印象的だったのは、そこで営まれる死の受け止め方があまりにも美しかったからだ。運ばれてきたご遺体は聖なるガンガーの水でたっぷりと清められ、長い時間をかけて儀式を行い、最後は喪主のように見える近親者が火をつける。こうした儀式を通じて、人の死を受け入れ、死者に敬意と感謝をこめるやり方は、日本の火葬場からは想像がつかないけれど、とても理にかなっていて美しいと思った。

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まだ夜が明けきらぬ朝、布団の中で目が覚めて夢を反芻し、とりとめもなく考えながらふと横を見ると、うっすらと目を開けた末っ子が私の姿を確認してあからさまに安心し、小さなその両腕で私の片手をぎゅっと抱きしめてまた目を閉じた。反対側をふりむくと、長女が私と共有していた毛布をひっぱってむにゃむにゃと寝言を言っている。しばらくすると早起きの長男が自分のベッドから移動してきて、私に覆いかぶさった。次女で脳性麻痺のハルは小児用車椅子の上で一度背伸びをしてからまた寝息を立て始める。

私は随分な力を持ったものだ、と思う。ウェイトの方ではなく、能力の方である。私の腕を握りしめて幸せそうな顔をしている子どもがいる。私が微笑むだけで、子どもたちが笑顔になる。綺麗事じゃなく、事実として文字通り笑顔になる。私がしかめつらをすると、子どもが泣く。私の表情一つで、腕一本で、こどもたちの心はいとも簡単に動く。なんて力を持ってしまったんだろう、私は。

4人の子どもたちのむこうに、分厚い胸を上下しながら大の字で眠る夫の姿が見えた。

15年前、今にも息の根が止まりそうだった私が、現在の私を想像できただろうか。当時の私は、一刻も早くこの世を去ることだけが、苦しい人生からの唯一の逃げ道だと信じていて、未来を生きる自分などまったく想像できなかった。

自由をまとった彼

最初に彼に出会った時、私は12歳だった。

周囲の反対を押し切って受験した全寮制中学の入学式で、ひときわ老け顔で日本人離れした顔つきの男子在校生が校旗を持って先頭を歩いていた。在校生代表ということだったのだけれど、彼は優秀とか真面目とか、そういう言葉では言い表せない独特の空気をまとっていた。私はその独特の空気の正体に興味を持った。

その独特の空気が予言したかのように、中学を卒業すると同時に彼は休学し、旅に出た。最初は日本国内を自転車で野宿して歩き、しばらくするとコンビニでバイトして貯めたお金を持ってインドに旅立った。

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私はというと、自分の意志で周囲と違う決断を下した責任を背負い、緊張しながら新しい中学校生活をスタートしていた。のどかな地元で愛に包まれてのほほんと暮らしていた小学生時代とは打って変わって、周囲の目、周囲の期待を気にして少しずつ私の内面はこわばり、ひたすら勉強することで自分の価値を見出そうとするようになった。

彼は旅先から、なぜか時々私に手紙を送ってくれた。旅先での風景や出来事はもちろん、突如として休学した理由から、数学や宇宙のことまで、ありとあらゆることについて、私たちは(少なくとも私は)夢中で手紙を書いた。

彼がまとっていた独特の空気は、「自由」だったのだ、と気がつくのにそう時間はかからなかった。彼は紛れもなく自由だった。見たいものを見て、会いたい人に会って、行きたいところに行き、知りたいことを追求していた。

1年の休学を終えると、彼は1学年下に復学し、私と同じクラスになった。酒もタバコも命の危険も、その1年であらゆるアウトローな経験してきた彼と、優等生でガリ勉でガチガチの私とは、どう見ても人種が違ったけれど、どういうわけか私達はお互いにお互いの言葉がとてもよく理解できて、話をするのが心地よかった。

私はもちろん彼のまとった自由を尊敬していたけれど、それがあまりに軽やかで、ガチガチだった私にとっては時々疎ましく、そして時々、どうしようもなく嫉妬した。彼をあんなふうに自由に歩ませているのは、一体何なんだろう。私はどうやったらあんなふうになれるのか、なれないのか。複雑な気持ちで私はいつも彼の隣にいた。

高校を卒業して、彼は九州の大学に、私は東京の大学にそれぞれ進学した。彼は自分の生きる道を決め、美しい海で美味しい魚とたわむれながら、一層自由の羽を広げていた。一方の私は、自由に生きたいのにいつまでたっても自由になれず、それどころかいつも自分で自分をしばりつけて、不自由に拍車がかかっていた。

不自由だった私

癌で祖父が亡くなったのは、そんな時だった。けれど正直なところ、当時の記憶がほとんどない。祖父が亡くなってどう感じたのか、いつどうやって実家に帰ったのか、何も覚えていない。亡くなる直前の祖父が、戦時中のことを思い出してうわ言を言っていたことと、葬儀で姉はぐちゃぐちゃに泣き崩れているのに私は涙が出ないな、と思ったことだけが、記憶に残っている。

私は自分の感情さえ不自由になっていたことに焦りを覚え、自由に生き続けていた彼に連絡をした。自由になる方法が知りたかった。

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連絡をすると、彼はすぐに会いに来てくれて、しばらくして私達は恋人同士になった。ところが当時の私はとても不安定で、自分の心の領域に他人が入ってくるのが許せなかった。彼がせっかくノックしてくれた心のドアを、私はより一層固く閉ざして殻に閉じこもり、彼を遠ざけた。

不本意に彼を傷つけてしまったこと、本当は一人になりたくないのに、いつもひとりぼっちになってしまうこと、もっともっと自由に生きたいのに、どこにも踏み出せない自分の不自由さ。彼との関係が壊れたことで、私はさらに深い闇に落ちていった。

私は心の病気だった。最初はなんとかしたいと自分でもがいた。けれど、絡まった糸はもがけばもがくほど自分をしばりつけ、がんじがらめになるだけで、私はどんどん絶望し、孤独になり、まるで出口のないトンネルをひたすら一人で歩き続けているかのような錯覚に陥った。光の見えない暗闇を歩き続ける当時の苦痛は筆舌に尽くしがたい。体は鉛のように重く、自分は化物のように醜い生き物に見えた。とにかく一刻も早くこの暗くて辛い孤独な歩みを終わりにしたい、この醜い化け物を消し去ってしまいたいと、いつも願っていた。狭いベッドで布団をかぶり、朝が来なければいいのにと、得体の知れない何かに怯えていた。

私が当時命をつなぐことができたのは、ひとえに友人や大学の恩師、そして家族おかげだ。やがて私は入院治療をして、ようやく自分の認知に歪みがあることに気がついた。同時に他人との関係性の歪みにも気がついて、とてつもない後悔の念に襲われた。

入院治療の最終日、私は病室のベッドの上でわんわん泣いた。あとにも先にもないくらい、あとからあとから涙が溢れて止まらなかった。なんてことだ、私はいったいどれだけの人に愛されてきて、にもかかわらず、どれだけの人たちを傷つけてきたのだろう。

この時、あの「彼」の顔を一番思い浮かべていたことをよく覚えている。

彼に会いに行かなくちゃ。彼に、ちゃんと自分の言葉で説明しなくちゃ。傷つけてごめんなさいと。今すぐには無理かもしれないし、伝えたところで今更罵倒されるだけかもしれない。それでも構わない。いつかきっと会いにいかなくちゃ。

なんとか大学を卒業し、かろうじて就職した私は、ようやく少しだけ自分を取り戻し、それでもまだまだ不自由なまま、「彼」に会いに行くことにした。病室のベッドの上で一生分の涙を流したあの日から、3年が経っていた。

暖かな日差しが窓から差し込んでいた5月の朝、ベッドの上で目覚め、もう朝日が怖くない事に気がついて、そしてふいに思い立ったのだ。

「彼」に会いに行こう、と。

今なら会いに行ける。むしろ今会いに行かなかったら、きっともう会いに行けないんじゃないか。身支度を済ませた私はすぐに彼に連絡を取り、彼が就職した地に向かって新幹線に飛び乗った。あのときのことを罵倒されても、一生会えなくなってもかまわない、今はとにかくちゃんと彼に話をして、傷つけたことをちゃんと謝りたい。

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こうして私は、一生一緒に生きていくか、一生会えなくなるかのどちらかになるだろうとなぜだか確信しながら、長年後悔していた想いを晴らすためについに彼に会いに行った。

自由を取り戻して

今、彼は私の隣、4人のこどもたちの向こうで、分厚い胸を上下に動かして大の字で寝ている。

出会って約24年。結婚してまもなく11年が経つ。気がついたら、夫が16歳のときに彼の生き方を決定づけることになったインドの地に、家族6人で暮らしている。

夫は結婚しても自由に生きることをやめなかった。次々に授かった4人の子どもたちも、負けず劣らず自由で予測不能な生き物だった。私はただひたすら、自由に世界中を駆け巡りたい夫と、自由に野山を駆け巡るこどもたちについていった。もちろん時々息切れがして、時々休憩をしたり、時々ぶつかって、時々子供に八つ当たりしたりしながら、でも次第に私は自分の中に持っていた巨大で強固だったはずの壁がサラサラと砂のように崩れ去っていくのを実感した。

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私が守りたかったものは、そして必死にしがみついていたのは、自分が思い描く理想の自分に、きっといつかなれるだろうというほんの僅かな自尊心。それが自尊心であるということもわからず、ひたすらその小さなカケラがなくなってしまうことを恐れて、一歩を踏み出すことも行動に移すこともできなかった、パラドクスの塊。

夫と、そして子どもたちと暮らしていくうちに、考えるよりも先に足を動かし、手をのばすようになった。自分の中のこだわりの塊にしがみつく暇もなく、私はどんどん新しい人やモノと出会い、新しいものに手を伸ばした。そうしてまた、休む間もなく子どもたちと夫と、家族に関わるあらゆる人に愛を注いた。それまで自分ができなかった分を取り戻すかのように。

そんな日常を過ごすうちに、私のなかで存在感を放っていた大きな壁はすっかりなくなり、私がいままで躓いていたものは一体なんだったのだろう、というくらい、自分の心の中の見晴らしが良くなっていくのを感じた。

自由だ、と思った。

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皮肉なことに、結婚して子供をもつことで、初めて自由になれた気がしたのだ。ずっとずっと昔、祖父母にただ私が私であるというだけで価値を認めてもらっていた頃、赤いぶーぶー車に乗って自分はどこまでも行けると信じていた私の中の自由が、長い長い時を経てようやく開放されたような、そんな気分だった。

自由を取り戻した私は、その変化に戸惑った夫と最初はぶつかったけれど、もともと私の自由を望んでいた夫は、次第にそれを受け入れ、私が自由を求めて舵をとることをそっと後押ししてくれるようになった。

かつて不自由だった私は、自由な夫の船にのって、ともに大家族の舵をとり、いつのまにか自由な生き方を家族の誰よりも楽しむようになったのだ。

きっと今なら、祖父の死に、涙が流せる。

バラナシの火葬場は、16歳だった夫が当時1ヶ月滞在した場所でもある。夫が16のときに見たものを、私はようやく同じように見ることが出来るようになったのかもしれない。

運命という言葉は普段はあまり使わないし、物事にすべて意味付けをするのはナンセンスだと思っているけど、それでも夫に出会えたことは、私にとって必然で、そして夫が私と結婚してくれたことは、奇跡だったと今でも思う。

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だから大丈夫、じいちゃんもばあちゃんも、そんなに心配しなくていいよ。私はもう、自由でとんでもない力持ちだから。

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お題企画にのっかって、もうすぐお誕生日なのにあらゆるお店がコロナ騒ぎで閉鎖されてプレゼントらしいプレゼントがもらえなそうな夫に捧ぐ。ハッピーバースデー。ついでにちょうどお彼岸だったので、この世に里帰りしてるはずのじいちゃんとばあちゃんにも捧げる。ナンマンダブ。




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