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最後一人旅②:雑記(カラフル)

この記事は息子とふたり旅のスピンオフ記事の、さらにメモ書き的な付け足し記事である。

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3週間の日本滞在で、これまでにないほど沢山の魅力的な人に会ってお話を聴くことができた。自分が考えていたことを肯定したり、整理したりできたこともたくさんあった。まだ処理しきれないけれど、記録しておきたい話、どうやらキーワードなんじゃないか、と思う言葉もいくつか浮かび上がってきたので、雑記的にこの記事にまとめておこうと思う。

浮き上がったキーワード

本当に”どうやら”、くらいであって、全く処理できていないのだけれど、忘備録としてここに記録する。

1.「小屋」

いわきの回廊美術館にも、たくさんの小屋が点在していた。Solo unnnoも小屋だったし、ツリーハウスもたくさんあった。小諸の読書の森でも、小屋はとても重要なアイテムとして存在していた。息子は小屋での宿泊をとても楽しみ、小屋を秘密基地のようにして一生懸命薪ストーブを焚いていた。川内さんにお会いした川内さんのギャラリーも、「山小屋」という名前だった。小屋、というのは、どうやら人との距離や濃度を上手に保つためにとても重要な役割を果たしているのではないだろうか。はたして小屋とアート、健康との関係は。

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2.「お金を介さない/価値をつけない」

お金を介さずに何かをやる、という方法には、これから先の未来を生きていく上での様々なヒントが隠されている気がする。私が2014年と2015年に運営したTEDxSakuも、人とつながるという部分に置いて、お金を介さずにやったというところがとても大事だったと思っている。(もちろん、イベントそのものへの金銭的支援や物品的支援はたくさんいただいた)

ボランティアで集まってくれた人たちと、どのように信頼関係を作ったりイベントやトークを作り上げるのか、、、その点に一番苦労し、自分自身が本当に理解するのに手間取った点ではあるのだけれど、できる限りお金をかけない、協力者を増やす形で実現していく、というのは、ある意味でそのプロジェクトをとても洗練させるような気がしている。

いわきの志賀さんも、万本桜プロジェクトを完全にボランティアで運営している。ボランティアにもかかわらず、私が訪れた時にも後から後からボランティアの人が訪れては勝手に草刈りにでかけていっていた。一体何がそうさせるのか。

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お金をかけない、ということは蔡國強さんのアートを作るプロセスにも見て取れるエッセンスのように感じた。お金をかけないことは決して妥協ではなく、ではないなりにやりたいことをどう貫き通すのか。

憲一さんも、アートは「評価できるものではない」と繰り返しのように言っていた。

少なくともお金を介さない・価値をつけないことにより、よりそのものが洗練され、より自由になるということはおおいに考えられる。

お金をかけないこと/価値をつけないこととアートには、どのような関係はあるのだろうか。そして健康はそれとどう関わるのだろう。

3.「継続」

明治神宮の杜は100年前に計画され、その意志を受け継いで神社の神主や森そのものが作り上げてきた森だった。それはとてもドラマティックで、重厚で、なおかつ未来を想像させる森だった。私が9歳のときにつながった今泉さんとの関係が、25年の時を経て、息子へと続いた。そしてそれは、いつか息子の子供へ続いていくのかもしれない。雲の上のトマトを作る憲一さんは、アートとは継続・継承ということではないかと言った。使い捨てられる何かではなく、未来に続くもの、過去から受け継いできてくれたものこそがアートなのではないかと。

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そうして東京都現代美術館でみた皆川明さんの企画展は「つづく」というタイトルだった。100年続くブランドにしよう、と設立し、常に今から100年後を見据えているというミナペルホネンの継続性を表したタイトルだという。

健康科学の研究者の先輩は、「変化を見ること」が健康を見ることなのではないかと言った。

この「継続」ということと、健康やアートとはどのような関係があるのだろうか?



最後のキーワード

東京で宿泊した浅草周辺は、街中にたい焼きの匂いがぷぅ〜んと漂っていて、少し歩けば魅力的な建物やものづくりの場所が点在している素敵な場所だった。

ギャラリー山小屋で出会ったオシャレ帽子の女性が、蔵前や浅草一体は今、ものづくりの町としてとてもホットな場所なんですよ、と教えてくれた。そう思って町を歩いてみると、セルフビルド用の材料が置いてある場所があったり、地元の人達が朝早くからコーヒーをオーダーして腰掛けているバーガー屋さんがあったり、「うたとギター、満員御礼」と札が貼られた古風なお茶屋さんがあったり、なにやら面白そうな場所がそこここに目についた。

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学生のときに住んだときは、東京は情報量が多くて疲れる、と思っていたけれど、東京は東京で、私が愛してやまない佐久と同じ様に時間が流れていて、それぞれにコミュニティが出来上がっていて、ちゃんとそういう場所なんだなあ、不思議だけど、そうなんだなあ、と感じた。

ただ、地下鉄に乗ると、真っ黒い人たちの真っ黒い目にちょっと大げさじゃなくびっくりしてしまった。インドは、身にまとっている服がみんなとてもカラフルだ。ピンクやグリーン、真っ赤なワンピースやイエローのレギンス、鮮やかなスカイブルーのストールなど、実に自由に美しい服をまとっている。そして良くも悪くも、皆とてもギラギラしていて、忙しそうにおしゃべりをしていたり、ぎょろりと目を光らせていたりする。

ところがどうだ、東京の地下鉄に乗っている日本人の、黒いこと!なぜみんな揃いも揃って黒い服を来ているのか、不思議に思ってしまった。そして皆一様に下を向いている。忙しそうに大声でおしゃべりをする人もいないし、騙してやろうと頭を働かせている人もいない、ただ皆一様に、目を閉じているか、スマホを見つめているかの静かな光景は、久しぶりに東京で地下鉄に乗った私の目には異様に映った。

空港で買ったSIMのデータ通信量が足りなくなって待ち合わせのカフェにたどり着けなかった時、東京ではどうしても道行く人に話しかけられなかった。皆忙しそうに歩き、目を合わせようとしても誰も彼もそれを避けているようで、私はいたたまれなくなった。デリーならいつでもそこらへんの人に電話借りよう、と思えるし実際にそういう時まったく困らないのに、この差は何なのだろう。

インドは確かに混沌としているけれど、そこには人の感情がうずまいていて、カラーがある。カラーを感じる。

無機質な東京の電子音やネオンやタバコの煙よりは、感情剥き出しのカラフルな人の波の方が何故かほっとする。

この、カラフルな人の感情、というのは、もしかしたら最後のキーワードなのかもしれない、、、と思いながら一人でチーズの盛合せをオーダーした最後の夜は、大雨だった。大雨の中をざぶざぶと傘もささずに大きなリュックを背負って歩いた。

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チーズの盛り合わせが800円で、コーヒーが1杯500円。これにひよってほとんど東京ではまともに一人で食事ができなかった。インドならいくらだろう、村でいただく、採れたての野菜で料理をしたらどうだろう、この値段で一体何人食べられるだろう。

私の感情は、カラフルだろうか?

人生をカラフルに

東京滞在中に泊めてもらった、同じ学部出身の親友(ジマ)にも、健康について聞いてみた。

「健康って何だと思う?」

すると彼女は口をすぼめて考えるような目つきをして(真面目な話を考えながらするときのジマの癖だ)

「体を意識しないことなんじゃないかな」

と言った。

なるほどと思った。体を意識しないことは、でも多分、意識する時間がないと得られないのかもしれない。つまり、時々風邪を引いたり怪我をしたりして体の自由が効かなくなって強く体を意識する時間があってこそ、普段の意識しないでいられる体の状態というのが初めてかけがえのないものだと認識される。

幸福が幸福だけでは存在し得ないように、健康もまた、健康だけでは存在し得ないのかもしれない。

なんだろう、うまく言えないのだけれど、これもやっぱりカラフルなことが重要なんじゃない?という気になってくる。同じカラーばかりでは気が付かないことがたくさんある。カラフルであって初めて分かることがきっとたくさんあるのではないか。

抽象的にしか今はまだ語れないけれど。

多分きっと、そうだと思う。

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カラフルに生きることが、たぶん、アートを自覚/意識して生きることと、同義に近いと、思う。痛みも悲しみも、喜びも温かさも思い切り。

デリーの空港についたら、カラフルなサインを掲げて家族が出迎えてくれた。ただいまマイファミリー、只今カラフルなインディア。

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