選択肢があるということ

どうも皆様ごきげんよう。
ままならない話だよね。
嵩音ルイです。

人生における選択肢って、広い方がいいとは思うんですよね。
何が出来て何が出来ない、何が選べて何が選べない。
そういうものが明文化されていた方がいいなと思うこともあれば、思わないこともある。

わりと僕がSFとかで好きなのは適性検査の極みみたいなやつなんですね。
ガンダムSEEDのデスティニープランとかそういうやつ、って言ってどんだけ伝わるかどうかなんですけど。

要は自分自身というものが明確にステータス化されて、得意不得意がはっきりわかるようになったら嬉しいよねってやつです。

得意なことで食べていけるならそれに越したことはないでしょうし、自身が何者になれるかもわからないまま生きるという漠然たる不安とはオサラバ出来そうというか。

よくなろう系の作品なんかでも、神からの啓示という形で得意な職業が教えてもらえたりスキルとして得意技がアウトプット出来るようになってたりもしますよね。
あれもいいですよね。
例えば剣の才能を秘めてる人がそれに気付かないまま、魔法を使うことに明け暮れて埋もれてしまうみたいなものが避けられる。

けど、それって本当に幸せなことなんでしょうか?

得意なこととやりたいことが、本当に一致すると思いますか?

明文化「される」場合の明確なデメリットってここだと思ってまして。

例えばこんな感じ。
得意なこと:遠距離攻撃スキル。どんな距離からでも百発百中。
やりたいこと:大剣持って前線で戦士として大暴れしたい

この場合、どちらを選ぶのが当人にとってメリットだと思いますか?

傍からは「遠距離から百発百中!?お前弓とか銃とか持った方がいいよ!」となるでしょう。僕だってそう勧めると思います。

けど本人は遠距離攻撃なんてナンセンス、戦士として前線で敵を蹴散らしたい。それ以外は嫌だ。と譲らない。

さて、この子は果たして戦士になれるのかどうか。

ファンタジーに寄せてしまうとしっくりこないなという人のために、現実的な話で例えましょうか。

得意なこと:音楽。特にピアノの才能が世界トップクラスになれる程度。
苦手なこと:運動全般
本人がやりたいこと:サッカー選手

……つまり何が言いたいかというと、選択肢が与えられたとして、それで本当に思うがままの選択ができるんだろうか。ということ。

選択肢は広い方がいい。それは変わらないです。択は多い方が世界は広いでしょうから。

ただ、その選択肢が本当に必要かどうかってのは考えなくちゃいけないのかなと。

何でこんな話をしたかと言いますと、カナダの現状の話を見たからですね。

向こうの国では、安楽死が合法化されてる。
人権を尊びなんとしてでも(本当に何でもやる)生かすべきだとされた命を、本人の意思で終わらせることが出来るようになった。
「どうにもならない人」を、終わらせてあげられる優しい制度が今もなお続いてる。

素晴らしい話ですね。

これでどうなったと思います?

「どうにもならない人」の範囲がどんどん広がってるんですって。

最初は「医療的に重篤で、もう手の尽しようがなく回復の見込みがない人」くらいの範囲だったのが、どんどん広がっている。
障がいを持って生まれてしまった子ども。
社会的に弱い立場にある人たち。
老人。

人々が「安楽死」という選択肢を得てしまったがばっかりに「そうすべきである」という同調圧力すら生んでしまったわけですね。

あの人まだ安楽死決意しないのかしら。
生きてたってもうどうしようもないのにね。
隣のご夫婦は決断して昨日処置してもらったらしいわよ。
そんなにしてまで生きて何がしたいのかしらね。

これを散々囁かれ続けて、参ってしまって安楽死を決意したとして。

それって「本人が選んだ」ことになるんですかね?
みんなして決めさせたくせに、本人がサインをするその瞬間だけは「当人の意思」を尊重する。

命に関わることって本当に難しいなと改めて思いましたね。
死刑撤廃の流れが世界的に巻き起こってたりしますが、安楽死も含めてどうなることやらと思いながらぼんやりと生きております。

広がらないからいいことも、広がるからこそいいものもある。
ままならないですね。

ともあれ、そんなもん関係なくない?と言える社会も理想だとは思いますよ。

僕に書き物の適性がなくとも、この先花開くことなどなかったとしても。
こうやって文字を書いて楽しむことを選んだのは、少なくとも僕自身の選択であるはずで。
それで楽しんでくれる人が一人でもいるならば、意味はあるのでね。

なんかわけわからん話になってしましましたが。
「話をまとめる」スキル、誰か持ってません?譲ってほしいなぁ。

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