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清風徐来水波不興と キリスト教ネストリウス派と

(タイトル画像は「みんなのフォトギャラリー」より写真を使わせていただきました。美しい作品をありがとうございます)

北宋の蘇軾(蘇東坡)の「赤壁賦」は恐ろしく美しい。
長江を舟で下りながら、三国志の赤壁の戦いを思う。世の無常を嘆く旅客に、それとは違った思想を提示して魂を緩ませるのです。
蘇軾は左遷や流罪を経験しながらも、その作品は恨み節や感傷や憐憫を寄せ付けない、軽やかな妙があります。私はかねてより蘇軾を大変尊敬しています。

赤壁賦はまるで短編小説のような長さと展開ですが、この作品のうち、強く印象に残る

清風徐来 水波不興
せいふうおもむろにきたりて すいはおこらず

というこの有名な一節だけでも(私は)心が震えます。そして後半の

客亦知夫水與月乎  
逝者如斯      
而未嘗往也     
盈虚者如彼     
而卒莫消長也    

かくもまたそのみずとつきとをしれるや
ゆくものはかくのごとくなれも
いまだかつてゆかざるなり
えいきょするものかのごとくなれども
ついにしょうちょうなきなり

という、この世は無常と見せかけて、何も変わらないのだよと。
この展開が比類なき美しさだと感じます。
水(長江の流れ)も月も、変わり続けるが、変わらない。嘆くことはないと。
この哲学が私にはとてもしっくりくるのです。(ここらは孔子の「ゆくものはかくのごときか昼夜もおかず」を踏まえてのくだりでもあります。)

で。ここからは相当驚いた展開なんですが、

且夫天地之間    
物各有主      
苟非吾之所有    
雖一毫而莫取    
惟江上之清風    
與山間之明月    
耳得之而為聲    
目遇之而成色    
取之無禁      
用之不竭      
是造物者之無盡藏也 
而吾與子之所共適  

かつそのてんちのあいだ
ものおのおのあり
いやしくもわれのしょゆうにあらざれば
いちごうといえどもとるなかれ
ただこうじょうのせいふうと
さんかんのめいげつ
みみこれをえてこえをなし
めこれにあいていろをなす
これをとるもきんずるなく
これをもちうれどもつきず
これ造物主のむじんぞうなり
われとしとともにてきするところなり

天地の間のものは何一つ自分のものではないが、いくらそれを享受しても咎められず、低減もせず、(あなたとも)共有してゆくこともできる。というくだりはもちろん良いとして。・・・この大自然にはまるで創造主がいるような、この「主」「造物主」って用語の使い方がものすごくキリスト教的で、何回読んでも頭がくらっとします。蘇軾は太秦寺という、キリスト教ネストリウス派(景教)の影響の強い寺とも縁があるし、やはりそういう信仰や哲学と無縁ではないのだろう・・(太秦寺=taiqingsi =たーちーす(に発音はちかい)=CHURCHsi(寺がsi)と昔聞いた話がなんかしっくりきてしまう。)

いわゆる「寺社」の形をしていても実態はchurchと思われる「寺社」っていくつもある気がするんですよ。そして洋の東西はや感性は、現代の国境で線引きできるものではないかと。

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