大人になるということ
大人になれば、コンビニのおにぎりの袋をうまく開けられるし、エスカレーターには躓かずに乗れるんだと思っていた。
四月、街に溢れる新社会人らしき人々を見かけては、社会人生活がどうか穏やかなものであってほしい、と想いを馳せる。
なんて先輩風を吹かせているが、専門卒の私にとって今年の大卒は同級生。
それはつまり、私も正真正銘、大人として見られる年齢になったことを意味している。
そして就活生もまた、春の風物詩だと思う。
(新社会人とか就活生ってなんで見た目とか仕草でそうだと分かるんだろう)
就活生を見かける度に、自分の就職活動のことを思い出す。
縁あって結果的に希望の職種に就くことができた私だが、その就活はとても苦しいものだった。
2年制の専門学校に通っていた私は、一年生の冬から就活を開始した。
技術的にも就活そのものへの準備という意味でも不利ではあるのだが、自分で選んだ道だから時間の少なさを言い訳にするつもりはなかった。
高校までにその分野の基礎をちゃんと学んでこなかったため最初こそ遅れをとったものの、自分なりの戦い方を見つけることで、校内では高い評価を得ていたと思う。
これは勉強に集中できる環境づくりに協力してくれた両親に感謝している。ありがとね☺︎
(ここで自慢。卒業時、学校を代表して県の受賞式に行かせてもらった! 滅多に学生を褒めないおじ様に褒めてもらった!)
(それほど成長できたということ)
しかしやはり、他校の学生に比べて技術的に、そして大人としても劣っていることを痛感しながらの一年間が、精神衛生上よくないのは明らかだった。
自分ではどうしようもない問題もある。
嘘が巧い人のほうが社会的成功を掴めるし、セクハラ•モラハラまがいの面接官は実際にいる。
なにより、社会から必要とされていないことに気付いてしまう。
社会に必要とされなくても、必要としてくれる人が誰か一人でもいればいいと、今は思う。
どんな悪意に打ちのめされても、自分だけは善意の人であってほしい。
日本の就活って、言葉を選ばずに言えば、気持ち悪い。
じゃあどうしてほしかったのかと訊かれても答えられないのでこのへんにしておく。
批判をするときは代案を持ってくるのが大人だと思うから。
でも通俗道徳について引用だけしておく。
自分が美徳としている、または当たり前だと思っている価値観は、誰かにとって都合のいい洗脳かもしれない。
大人になると自分の頭で考える時間も体力も奪われていくから、考える習慣をつくるなり体力をつけるなりしておくべきだと思う。
こんな自分が年下や後輩に対してできることがあるのかは分からないけれど、あのときの自分の感情は忘れないでいたいと思う。
自分が大人にされて嫌だったことは自分の世代で断ち切りたいし、嬉しかったことは繋いでいきたい。
この春、働き始めて2年が経つ。
生き方も趣味も多様化していく時代において、能動的に続けているものがあるということはそれだけで価値になるんだと思う。
大人になるとはどういうことか、そうもがいているうちは、自分にとって“大丈夫なほう”にいる気がする。
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