見出し画像

思うこと357

 図書館の南米文学が並ぶ書棚の前で立ち尽くしていた私が迷っていたのは、コルタサルの『石蹴り遊び』を借りるか否かであった。すでに数年前母が読み終わっているのを耳にしたり、時たま書評で目にしたりするまあまあ有名な南米界隈の1冊なのだけども、ページの指定に沿って読むとか、何通りも読み方があるとかで、とにかくトリッキーな読書になってしまうこと限り無し…という雰囲気が漂っているので、さて今の私に読む気力があるかな?と心底迷っていたのだ。
 だったら別のもうちょっと読みやすそうな本にしようかどうかとギリシャ悲劇のコーナーに行ってみたり(でもこれも気軽に読めない)している時、ふとイタロ・カルヴィーノのことを思い出した。随分前に『まっぷたつの子爵』、それから最近になって短編集『最後に鴉がやってくる』の二冊は読んだが、そういえばまだまだ読んでない作品は多い。(ちなみに南米の書棚とイタリアの書棚は近い。ほとんど混じり合っている。)
 そんなわけで急に思いついてとりあえずタイトルだけで決めてしまおう、と『冬の夜ひとりの旅人が』(イタリア叢書1/1981年)を何の前情報もなしに手に取った。
 余談だが、最近通っている図書館は表に出ている本がとても少ない。蔵書自体はたくさんあるので、端末で調べて書庫から出してもらえば大抵の本は借りることができるのだが、これには「いちいち借りる本を見当しておかなくてはならない」というリスク(?)があり、いわゆるジャケ買い…、いや、表紙・タイトル借り、みたいなのが難しいのだ。難しいとはいえ勝手にやればよかろう、という気もするが、外国文学の少ない棚の中から選ぶのはちょっと寂しい。そんな中、カルヴィーノの縛りを設けたとはいえ、タイトルだけで借りるのを決めたのは久し振りだった。
 私はその日、ともかくカルヴィーノの『冬の夜~』と残り数冊を手にして図書館を出た。そして家に着くなりその夜に本を開けた。読んだ。「えっ?!」、となった。単純明快なタイトルから、私が予想していた「冬の夜にひとりの旅人が何かするんだろうな」とか「そういう旅人と出会うのだろうな」という浅はかな期待は打ち砕かれた。コルタサルの『石蹴り遊び』はトリッキーだからやめておこう、と思って手にしたはずの『冬の夜~』は、
なんと、これまたトリッキーな本だったのだ!

 主人公の「男性読者」は、作中で同名の本を買い、家に帰って読む。しばらくはたしかに冬の夜にとある街に辿り着いた男の話が何十ページか続くが、ふと読書は中断される。本に乱丁があり、それ以上は読めなくなってしまったのだ。男性読者はその本を買った本屋に文句を言いに行く。すると、実はそれは別の小説が挟まっていたのです、とかなんとか。そうこうする間に同じ目にあった女性読者と男性読者。二人はお互いが尻切れとんぼになってしまった本の続きを探す。
 しかしいちいちその手がかりの本は期待を裏切り、中断させられる。翻訳が違うとかなんとかってことがあったり、その翻訳者が何かを画策してたり、せっかくの読みかけの本を奪われたりとか。そういうわけでそもそも『冬の夜ひとりの旅人が』という本そのものが一体どういう本だったのか謎なのだ。「読む」と「書く」ことの迷宮に立たされて、読者の私と男性読者は一緒になって途切れた小説をいくつも読みながらアタフタしてしまうわけ。何よこの本。
 簡単に言えば劇中劇でありメタフィクションであり…という感じなのだが、まさかトリッキーな読書を避けるために借りた本がこれまたトリッキーであったとは、本当にびっくり仰天。しかしながら複雑に見えてかなり読みやすい小説ではあったので、難なく最後まで読み終わった。私のようなとりあえず読む読者には丁度良い本なのかもしれない。これが作中やあとがきでも出てきた「ただ書かれていることだけを読む」というやつなのではないだろうか。でもそれが「理想の読者」なんて言われてしまうと、何か恐れ多い。(なんで?)

 てなわけで昨今は何でも深読みしがちになってしまうけども、とにもかくにも、こうやってぐいぐいただ引っ張られるだけの読書も良いものです。終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?