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思うこと229

 約四ヶ月もかけて、やっとヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』を読み終わった。主人公の中年男性のハリーが抱える人生全体の苦悩や精神的自殺願望等々、半分を越えるあたりまでは所々共感さえしつつ読んでいたものだが、後半になり少女たちとの煌びやかな日々に没入していくにつれ、何だか『絶望先生』(作・久米田康治の漫画。『絶望した!』が口癖の"糸色 望" 先生は太宰治がモデル)を想起するようになった。

だが、ラストに畳み掛けるように展開される「狂人のための『魔術劇場』」の情景で、やはり何だかもっととてつもない小説だった、と痛感した。痛感すると同時に、最後まで読んでしまうと、ますます「どんな話だったか」と説明しづらい小説になった。

 しかしながら生きている人間の何割かは男女に限らずとも必ず「荒野のおおかみ」に共感するのではないかと思う。「自殺」というワードはあくまでいくつかある主題の中の一つでしかないが、せっかくなので印象的な部分を切り抜いてみた。

 ハリーは作中で「荒野のおおかみについての論文」を読む。まるで彼自身のことを探られているような二重体験を通し、また読者もそれを通して自己を省みる合わせ鏡のような論文である。

以下その抜粋

「(前文略)ここで自殺者について述べたことはすべて、もちろん表面にだけ関することである。それは心理学であり、つまり物理学の一片である。形而上学的に見れば、事態は別で、ずっとはっきりしてくる。そういう観察によれば、『自殺者』は、個体化は罪であるという感情に襲われた人間なのである。人生の目的は自己の完成や表現ではなくて、自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰だと思っているような人間である。こういう性質の人の非常に多くは、いつか実際に自殺をおかすということは、まったく不可能である。彼らはその罪を深く認識しているから。ーーだが、われわれにとってはやはり彼らは自殺者である。彼らは、生の中にではなく、死の中に救済者を見るのだから。自己を投げ出し、捨て去り、消えうせて、はじめに帰る用意ができているのだから。」
(「荒野のおおかみについての論文」狂人だけのために より)

 本来の自殺と趣が異なることを実に気を配って書いていることに感心しつつ(当たり前)、読み始めた瞬間からそうであったように、どうしても「荒野のおおかみ」に親近感を持ってしまうのは果たして私だけなのだろうか。そして、この読後の希望も絶望も持てない、再び荒野に帰ったような気持ち。…きっとそれを感じるのは私だけではないと信じたい。




やや蛇足。
ハリーの心を奪ったヘルミーネ。これは個人的に、「罪と罰」のソーニャや、「初恋」のジナイーダなどの純文学特有の何かこうストーリー上で巧みに主人公を絡め取るヒロイン(と言う表現が正しいかどうか…)の中でも屈指の女性だと感じた。知性と悪戯、愛と危うさ、時に男子のような表情を見せる…等々、かなりの強者だと思われる。拍手。


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