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(ラグビー留学体験ルポ・後編)おっさんなのにニュージーランドにラグビー留学した

【ニュージーランドのクラブラグビー】編

 
 おっさんもラグビー留学したい!そんなときめきを抑えることができず、ラグビー王国ニュージーランド(NZ)に留学をした2015年春。

 現役引退から10年以上経っていた30代半ばの自分が、「ラグビー留学童貞」を捨てた街はニュージーランドの首都・ウェリントン。
 
 前編では鎖骨を痛めた初試合などについて書いたが、後編ではまず、3週間のラグビー留学で所属したチーム、ウェリントンのクラブチーム『タワ』(TAWA)をご紹介したい。

 『タワ』は多くのプロ選手を輩出している強豪で、なんとクラブ内のトップチームにはサモア代表歴のあるジェームズ・ソーイアロも所属していた。この事実には、もともと混乱している頭がさらに混乱した。

 なぜ国代表レベルの選手が、ウェリントンの“イチ”クラブに在籍しているのか? 現地の方からその理由を聞いた。

「なぜなら、ニュージーランドのクラブラグビー(最上位の「プレミア」リーグ)での活躍が認められれば州代表に選出され、さらに活躍すればスーパーラグビーチームから声が掛かり、さらに活躍すれば国代表になれるから」

 そうやってタナ・ウマガも、ジュリアン・サヴェアも、ウェリントンのクラブから州代表、スーパーラグビー、そして国代表(オールブラックス)へと羽ばたいていった。

 ラグビーを国技とするニュージーランドには、誰でも上を目指せるフェアなピラミッドがあり、クラブでの活躍には大きな意味がある。だからサモア生まれの若者も「ニュージーランド・ドリーム」を追いかけられるし、おっさんの僕にも平等にチャンスが与えられていた。

 僕は現地で「日本人初のオールブラックス」を目指すこともできた。しかし今回はその選択はしなかった。最初の試合でいきなり鎖骨を痛めてしまったので、まずは「生きて帰国する」ことを目標にしていたためだ。

 そんな僕が所属した強豪チーム『TAWA』で一番驚いたのは、強豪なのに「楽しそう」だったこと。

 当時の『TAWA』の全体練習は週2日(火、木)で、その他の平日3日は自主性に任されていた。日本の部活のような強制力がないのだ。雰囲気はアットホーム。日本の軍隊由来の「部活」に慣れていた僕はショックを受けた。

 ここには「1年は食堂の出入り禁止」もないし、「先輩を見かけたら100m離れてても挨拶」もない。

 きっと「先輩が同じ車両にいたら、別の車両に移動する」もないはずだ。

 そして選手たちの「楽しむ姿」も印象的だった。これまでずっとラグビーボールで遊んできたからなのだろう。『TAWA』の選手達は隙あらばボールで戯れようとしていたし、じゃれあっていた。

 楽しいからクラブに集う。楽しいからラグビーを続ける。

 ニュージーランドでラグビーは人生を謳歌する為の手段のようだった。オールブラックスの強さの根本に触れた気がした。

在籍したクラブ『TAWA』の美しいグラウンド
留学最終週に2試合目を経験。今回の留学では計2試合に出場し、鎖骨を痛めて終わった

【留学先のウェリントンについて】編


 今回ラグビー留学をしたウェリントンについても触れておきたい。

 港湾都市のウェリントンが別名「風の街」ということは聞いていたが、実際に行ってみたら「強風の街」だった。全員の髪型を同じにするくらいの強風がいつも吹いているのだ。

 ただ荒れているのは風だけで、市内の治安は良く、道のゴミも少なかった(風が吹き飛ばしているだけという話もある)。マナーの悪い市民は、ウェリントンを巨大なトイレにしているカモメくらいだった。

 そんな強風やカモメのフンから逃れたい場合は、観光スポットでもある国立博物館『Te papa』を避難先としてオススメしたい。

 日本において博物館といえばアクビの一大産地。しかし『Te papa』は恐竜の骨格本あり、巨大な渡航船あり、無料WIFIありで退屈することはない。あらゆる展示が体感的で楽しく、僕は毎日のように足を運んでいた。

 と、ここまで書いてきて、謝罪しなければならないことがある。

 まるで博物館に興味があったかのように書いてしまったが、僕は知的好奇心から博物館に行っていたのではなかった。

 選手でも何でもない30代後半のおじさんが海外にラグビー留学をすると、どうなるか。

 留学プログラムの一環に組み込まれている語学学校で、大多数を占めているティーンエイジャーに馴染めず、孤独を味わうのである。

 語学学校には英語習得のためにやってきたヨーロッパや南米、インドなどのティーンが多くいた。もちろん関係構築の努力はしたのだが、そもそも共通語(英語)が未熟なのでどうしても関係が深まらない。

 つまり僕は強風でもなくカモメのフンでもなく、語学学校から避難するために授業をサボって博物館に行っていた。インテリ風を装ってしまったことを謝罪したい。

 おじさんがラグビー留学をすると、グラウンド外でもこうした意外な壁にぶちあたるので、おじさんは注意してほしい。

語学学校から見下ろしたウェリントンの街並み。この写真を撮った僕の背後でティーン達が戯れている
国立博物館『Te papa』の一画。楽しいのは本当

【現地でプロリーグ観戦】編

 日々疲れていた僕が楽しみにしていたイベントが、留学10 日目にあったスーパーラグビー観戦だった。

 スーパーラグビーとは、南半球最高峰のプロラグビーリーグ。当時は参加チームが南半球の4カ国(NZ、豪州、南アフリカ、アルゼンチン)を転戦していた。とにかくレベルが高く、弱いチームにとっては「南半球引き回しの刑」と言ってもよいリーグだ。

 ただ「かわいい子にはスーパーラグビーをさせろ」とはよく言ったもので、日本ラグビーはジャパン強化のためにプロチーム「サンウルブズ」を組織し、日本代表候補たちをスーパーラグビーに放り込んだ。

 すると、チームは南半球引き回しの刑に処せられたものの、ジャパン候補たちは類を見ないほどタフに成長した。そして19年のラグビーW杯で初の8強入りを成し遂げたのである。

 そんな過酷なスーパーラグビーに参加するウェリントンの地元チームは「ハリケーンズ」。強風の街にふさわしいチーム名だ。

 僕は2015年シーズンの12節チーフス戦をウエストパックスタジアム(ウェリントン)で観戦した。

ウエストパック・スタジアムへ向かう陸橋の上から。待望のスーパーラグビー現地観戦

 スタジアムというものは電気の無駄遣いと思えるほど神々しくなければならない――もしもそうならウエストパック・スタジアムは120点だ。スタジアム入口まで架かる巨大陸橋からみたウエストパックは、夜空を逆に照らしてしまうほどの光輝だった。巨大なパルック蛍光灯と言ってもよかった。

 さながら明るいものに群がる虫となった僕は、正面入口の手荷物検査のレーンに吸い寄せられ、そこで白人の検査員に「バッグの中身をみせろ」と命じられた。中身をすべて見せ、すべて問題なかったが、彼はどこか不満げだった。最後に「ほかに何か持っているか」と尋ねてきたので、私は「ラグビーへの愛情を持っている」と申告した。

 スタジアムの外通路を歩きながら、観客を観察した。

 かなり乱暴な言い方になってしまうが、外国人の方々にざっくりとあだ名を付けるなら「薄着人」である。

 こちらが寒くて凍えそうなのに、彼らは薄着で平然としている。この日のスタジアムも左右から寒風が吹き(風向きが右に左にとすぐに変わる)、途中寒くて震えていたが現地の皆さんは平気の様子。

 ラグビーは冬のスポーツであることを考えれば、寒さに対する耐性はうらやましい限りだ。その人種の耐寒能力と冬のスポーツの観客数は絶対に相関関係があるはずだ。

 相手チームのチーフスには、日本代表キャプテン(当時)のリーチ マイケルがいた。高校時代から日本で育ったフォワードはNo.8(ナンバーエイト)で先発し、この日も輝いていた。

日本代表リーチマイケルは当時チーフスで活動。ハリケーンズが勝利した試合の後、引き上げていくところを一枚

 おじさんのラグビー留学の活動報告は以上だ。
 
 3週間にしては記述が少ないと思われるかもしれないが、ニュージーランドで現役選手と同じトレーニングをしたおじさんは、その夜は寝ること以外は考えられなくなる。毎日疲労困憊だったのだ。

 もしもラグビー留学中の日記を書ける人がいたら、影武者がいるか、法人として組織的に活動しているのに違いない。振り返るにも当時の記憶は曖昧で、無理に書いてしまうとファンタジーになってしまう。

 しかしこれで終わりではなく、3週間のラグビー留学を終えた僕はすぐには帰国しなかった。

 そのままニュージーランドの北島に2週間ほど滞在し、最安レンタカーでラグビーグラウンドを巡ったのだ。

 お金はないので基本的には車中泊。それでなんとかなるだろう――そうタカをくくっていたら、車内で凍死しそうになり、意外なところで「生きて帰国する」という目標を叶えられなくなるところだった。(「車中泊をしながら冬のラグビー場を巡ったら凍えた」記事へ)

最安レンタカーを借りてウェリントンからオークランドへ。NZ北島のラグビー場を巡った

 

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