日常の中の非日常か、非日常の中の日常を描くか

小学校高学年ぐらいから、よくテレビドラマを観ていた。自分の知らない世界が出てきて、ワクワクと好奇心が湧いてきたり、大人ってこんな感じなんだと憧れたりしていた。

その中には当然、とんでもない設定のものもあった。主人公が決して真似できない特別な能力を持っていて活躍するものだ。それはそれで面白かった。

しかし、最近のテレビドラマは非日常の設定の中に非日常を題材にしたものが多いような気がする。主人公がとんでもない能力を持っていたり、特殊な部隊に配属されていたり、周りが優れていたりといった具合だ。挙げればキリがない。

個性が爆発している時代と言われているからこそ(誰が言っているかは定かではないが)、このような内容のテレビドラマが放送されているのか分からないが、このような設定ばかりのドラマでは、視聴者は疲れてしまうのではないかと考える。

ドラマが放送されるのは21:00〜23:00という時間帯が多い。ドラマを見て就寝という人も多いのではないだろうか。私の場合もそうだ。非日常な設定で非日常的な出来事が起こっていては、ハラハラドキドキするかもしれないが、心の安定にはならないのではないかと考える。

非日常の設定であっても、その中に自分が経験したことのある場面が描かれたり、自分が抱いたことのある感情が想起されたりしたときに、私は安心する。落ち着くと言ったほうがいいかもしれない。もしくは、日常(経験したことのあること)の中に非日常があっても同じだ。

「半沢直樹」、「逃げるは恥だけど役に立つ」は視聴率の高かったドラマであるが、設定自体は経験できる人は数少ないが、家族と過ごす場面、仕事帰りに居酒屋で会社のゴシップを話す場面、新婚生活や相手がどう思っているか考え過ぎてモヤモヤする様子などこれらの場面に経験できたり、共感したりする人が多くいたと考えられる。

出てくる人物たちが、物凄く優れた能力を持ち、それを使って問題解決に当たっていたら、人間的心情の葛藤は抱かずに、物語は進んでいくだろう。

しかし、私が生きている世界は違う。人と人が関わり、そこには認識のずれが必ずある。だから、相手のことを考えたり、どんな行動を取ろうと悩んだり、葛藤したりするのである。その葛藤、悩みにこそ私は、共感するのである。共感できるということは、身体的は距離が遠くても、心理的距離は近くなるはずだ。

葛藤、悩みが生じるということは、それだけ生きている社会が複雑であり、特殊能力を持っている、特殊なチームに所属しているというようなことで、簡単に解決できることはほとんどないのである。複雑なことを複雑なままで終わったり、複雑なことがたまたまラーメンを食べているだけで解決したり(よくHEROとかに見られるが・・・・・・)することに私は安心感を感じることとができる。

さらに、その複雑さについて、家族、学校の友達、職場の同僚と話すこともできる。そうやって同じもの見て、ああだこうだと話すことが、共同性を生み出し、次も見ようと意欲を掻き立てるのではないだろうか。また見てみようという好奇心を煽るのではないだろうか。

非日常の中に非日常を描けば、問題は解決できるか解決できないかの二分化になり、解決できないのであれば、そのファクターは何なのかが問題となる。その問題が解決できれば、大元の問題も解決でき、ハッピーエンドだ。だから私の関心は、問題解決に向かってしまう。わかりやすく、見通しは立つのだから、安心感がありそうだが、感情への共感が一切ないため、特殊な能力に感心するだけ、問題が解決してよかったと思うだけである。

そうではなく、悩みや葛藤を登場する人物たちが抱き、それが生活する中のふとした瞬間に解決していくドラマを観たい。共感しながらドラマを観たい。ただ、そんな思いでこんな長い記事を書いてしまった。この記事の内容は、私の主観で書いただけなので気になさらないでください。スッと通りすぎてください。


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