見出し画像

歌がうまれる理由、良くも悪くも

歌や詩などというものは、感情の振れが大きい時には自然にわいてくる。
なにを隠そう押入れの段ボール箱には、10代の頃に書いたノートがいまだに何冊も残っている(いつ捨てる?)。常に恋をしていた少女時代、ノートはどんどん増えていった。
それが社会に出て仕事を始め、結婚をし子供を育てるというようにステージが変わるにつれ、自分の心の動きが最優先ではなくなっていく。さびしいとか残念だとか思っているわけではない。私たちはヒトという動物で、子を守り育てることに注力するのは当たり前なのだから。ただそんなことで自然とノートは要らなくなった。

でも10年前に突然母を亡くした時、言葉がどんどんわいて出るという感覚を、はからずも再体験することに!
note 2回目の今日は、当時勢いあまってまとめた歌集(全50首)からいくつかを紹介したい。

乱さない泣き崩れないそう決めた  けれど涙は涸れないと知る
「大丈夫?」聞かれたらただうなずこう  自分でもよくわからないけど

この2首は亡くなった直後のもの。
持病もなく、元気に孫の世話やらボランティアやらに精を出していた母が突然亡くなり、家族は全員とてつもなく大きな衝撃を受けた。でも周知のとおり、亡くなった人を小さな壺に納めてしまうまで、家族が静かに悲しみにひたる間はない。喪主である父の話を聞いて「それでいいよ」と答えるのが私の役目だった。

問題は 同じ記憶を持つ人が するっと消えて戻らないこと
もう二度と祝ってくれるはずのない あなたから今日生まれたわたし

母の死は、ただかなしかった。
それ以外のものが混じることのない純粋なかなしみが、大きくなったり小さくなったりしながら、常に私を包んでいた。長いこと。
この二つは、葬儀も終わり職場に復帰し1か月ほど経って書いたもの。
誕生日には、私が生まれたのではなく母が産んだ日だと思って涙が出た。

動けない  人の思いが絡まって  とは言え切って捨てられもせず
望んだら自分の「今」は棄てられる?  持たされたものも選んだものも

私の父は少し難しい人で、母の生前は母を介して父と接していたようなところがあった。よくある話かもしれないが。その母が亡くなり、いやでも父と対峙することになる。葬儀を終えてもすべきことはたくさんあって、休みのたびに実家に出向くような日々だったと思う。
当時、夫と私の関係も今ほどスムーズではなくてー夫婦の話は改めて書くとしてー、そんなこんなのストレスから書いた二首。

寝坊した朝に卵を焦がしたり  負のスイッチは簡単なこと
すれちがう人に違和感  風景が色を失い壊れる予感

はりつめていたものが緩んで、疲れが出てきたころ。
なんだこのやろー!と言いたくて、どこに言えばよいのかわからなくて。

元気ないじゃないだなんて言われないように  今夜はゴーヤチャンプルー
十三の息子が自転車旅に出た  ありがたいのは健全な生

大人が時間を止めていようと、子供はすくすく成長する。
元気ないねと労わってくれた次男。自転車で長距離旅に出られるほどたくましくなっていた長男。

◇ ◇ ◇

こんなふうに歌を綴っていたのは、母の死後1年間くらいだったか。少女の頃のノートは携帯電話のメモ機能に姿を変え、言葉が浮かぶたび立ち止まって書き留めた。悲しくてもつらくても歌はうまれてくることを、身をもって知った貴重な体験だった。
ただ悲しみというのは、徐々に濃さが減っていき、いつしか日常に溶けてしまうようで、それにつれて歌が勝手に生まれることもなくなった。
もしこの先も歌を書こうと思うなら、自分なりのスイッチというか、手法を持つ必要があるのだろうなあ。私の場合。

ひとまず今日は10年前の歌集より。
写真は三浦の河津桜。母の命日は2月なので、お墓参りにはたいてい満開♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?