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とある理系の研究室8 卒論修論のテーマ決め
某国立大学の理系の研究室の話。
そこそこの大学のそこそこの研究室。国内外の学会にもコンスタントに出ていて、論文もそれなりに出している。活気もそこそこ。古き良き時代の雰囲気を残している研究室。
研究室生活が充実するかどうかにも大きく関わる研究テーマ決めの話。
なんとなく決まる人が多いのでは?
高い意識を持っている人達は、高い志を持って研究テーマを決めているのだろうが、大半の人はなんとなく流れで決まっているのではないだろうか。でも別に悪いことじゃないと私は思う。
どうやって決めた?
先生が持ってきた研究テーマ案を同期が取り合う感じで決めた。私は、やりたいテーマを明確に持っていて、公言していたので、他の同期に譲ってもらった格好だった。
同期たちはなんとなくフィーリングで選んでいたようだ。
結果、どうだった?
私が自身で選んだテーマでの研究室生活は充実した。が、テーマありきというわけでもなく、たとえ他のテーマでもそれなりに充実していたのだろうと今では思える。
結局のところ、わからないことを明らかにしていくプロセスは共通項が多いからだ。
研究テーマ選びって重要なの?
語弊を恐れずに言えば、卒論、修論はいっぱしの学術研究を行っていく過程・お作法を学ぶためにやっているだけなので、テーマは何でもよい。「そんなに重要ではない、高い志がない人にとっては。」と声をひそめて主張しよう。
「ハズレなテーマを引いてしまった」と一度は思うもの。(あくまで個人の見解)
自分がやりたいと言って決めたテーマでも、数ヶ月で一気にやる気がなくなる。テーマの深淵を覗いてしまう(難しすぎる)、闇に気づいてしまう(これって本当に社会的な意味ある?)、多数の先行研究を見つけて、自分がやる意義を見失う。(私がやらなくても、誰かが似たようなことやってるじゃん)
こんな感じで、どんなテーマを選んでも「このテーマハズレだわー」と一度は思ってしまう。私だけでなく、周りの同期も似たような愚痴をよく言っていた。
そんな時は、自分の研究室生活の目標として、価値のある研究をする、というのを忘れてみてはどうか。そんな実体験。
一線の研究者と、「局所的にでも対等な議論ができる」という目標設定。
一線の研究者とはすなわち、指導教官。自分が担当しているテーマについて、もしくはさらにそのテーマの特定の部分について、と言った「限定的、局所的にでもいいから、先生と対等に議論できるようになること」を目標にした。
元々は研究室生活序盤での先生からの助言がもとになっている。子曰く、専門性のピークを作るのだと。ある専門分野の能力値ピークをより高みに持っていくには裾野の広がり=周辺知識が絶対に必要になる。そうやって本当に使える力と自分の知識をつけていくのだと。
効果
学生は自分の浅はかさを知ることができる。局所的に注力して調べ考えたことも、まだまだ未熟だと気付かされ、謙虚な気持ちを保てる。周辺知識が必要不可欠になるので、能動的に勉強ができる。
先生からすると、学生が解っていること、解ってないことが明確になるので助言しやすい。学生が新しい知識、知見を持ってきてくれる可能性が高まる。
つまるところ、いかに先生と実りある議論ができる状態に持っていくか、言い方を変えれば自分の成長のために先生を利用できるかが大事。先生からしても、手足、目、耳になって自分の駒のように情報や知見、実験結果をせっせと集めてくる学生がいたら嬉しいだろう。
結果として、研究テーマがハズレとかアタリとか考えることも忘れ、研究に没頭してそれなりの卒論修論が出来上がった。
最先端の研究者と一緒に研究・議論する経験に学費を払っている。
学術論文を読むだけじゃ学費が勿体ない。講義を受けてもまだまだ。高い実験機器、ソフトウェア、施設の利用でトントン。最先端の研究者=先生と一緒に議論する経験を増やして研究室生活の費用対効果を最大限に高めてみてはどうだろう。
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