noteにおける「人を惹きつける文章」について

最近どうにもあらゆる『生産的な』趣味が進まないというか、後述するがその事実を加味してもかなり退廃的で消極的な日常を送っていると痛感したので、試しにとある有名な匿名掲示板でスレを立てて聞いてみた。いわゆる「なんJ」と言われる場所だ。

なんJでは最後の書き込みから10分ほど経過すると、すぐにスレが倉庫へと放り込まれて書き込めなくなる高い回転率を誇った、まさに実況と呼ぶにふさわしい場所なので、こういった他愛もない相談もできるのだ
(もちろん真面目に回答してくれる人が多いかと言われたら、そうではないのだが)

そこで、前述した「私が多方面のベクトルにおいて『病弱』であること」、その上で何らかの趣味を探していることを聞いた。
そうしたら(最初は境遇に対するツッコミやからかい等は多かったにせよ)、終盤辺りで「お前は文章を書くのが上手いから、それを趣味にしてみてもいいと思う」と言われた。実は父親にも文章云々のことは言われていたのだが、それを父以外に言われたのはこれが初めてだった。

言われてみればというか、私の文章や文体がかなり独特であるという自覚は強くて、そういったものやそれに関係する趣味の一つであるエッセイなどにも「以前は」興味があった。
(それは私の病弱さがあまりにも強すぎるせいで、当時しぶしぶ諦めることにしたという流れなのである)

一応病弱の内容について、おおまかに箇条書きとして書きなぐっておくと、
「①視覚過敏・聴覚過敏・触覚過敏など五感全てが過敏である」
「②コリン性蕁麻疹(寒い場所や湿度の低い場所のように、汗腺が閉まった状況で体温が上がるとじんましんを発症し、全身という全身がまるで剣山に刺されたかのように痛くなりその場でうずくまってしまうほど)」
「③視覚過敏→ブルーライトを感じやすい→不眠症を誘発する(ブルーライトに関しては画面のRGBのうちBのみを2割とか極端に落としたりしても、数時間で発症してしまうレベル)→不眠症で2〜3ヶ月」以上は『睡眠薬を飲んだ上で1日3時間睡眠』を強制される」

これがメインといった感じだ。この3種類だけで寝たきり人生を送ることすらも難しくなっている。

この中でも色々な行動において②のじんましんは脅威ではあるが、今回の「趣への行動」としてあげたエッセイの挫折における観点は③である。
私は十数年前からうつ病を発症していて、それから すぐに不眠症も併発してしまったせいで、ありとあらゆる薬を長期間飲んでいた。しかしそのせいで、それらの薬に対する耐性がどんどんついていく。
一般的には「ベンゾ系」の睡眠薬と言って(不眠症になった時に処方される、ありふれた睡眠薬の種類のこと)、これらの全種類が全く効かない…という異常事態に陥っている。

いわゆる新薬と呼ばれる睡眠薬のタイプであれば少しは効くのだが(デエビゴ等の非ベンゾジアゼピン系)、それも上限量まで飲んでもたまに効かない事がある程度には薬の耐性を獲得しやすい体質である、といった感じだ。

(うつ病患者であれば禁忌に近いというか、それくらい医師から口を酸っぱくされているものであるとは思うのだが、実は私はお酒がかなり好きである。それも人生から一時的に逃げるような目的ではなく、純粋にお酒の味や種類の豊富さ、そして父や祖父からの遺伝などによって純粋に趣味だと言える程度には、成人後すぐにどっぷりはまったのだ。うつ病の薬であるベンゾ系やSSRIは普通の薬以上に酒と相性が悪く、しかも「副作用が強調されて嫌な感じになる」タイプではなく「メインとなる効能が強まって」、いわゆる気持ちよくなってしまい『生きるのが楽しくなってしまう』という形で現れるものだ。当時の私は一人暮らしかつ寂しがり屋の大学生であり、生きるのがあまりにも苦しくて愚かにもそれを止めることができなかった。今、その薬の耐性として不眠症でここまで苦しむことになるとは思いもせずに。)

…というわけで、まあざっくりまとめると「私は不眠症で今苦しんでいるので、不眠症を悪化させたりするような『PCやスマホ』を使うエッセイを書く行為を非常に避けたい」といった感じであり、それゆえに今の今まで手を出さなかった…という大分シンプルな話だ。
しかしここまで文章を読んでいただけた方なら既に私の文章の特異性について直感的に分かっていただけたのではないかと思う。
これまた自己分析も交えてシンプルに書くと、要するにカギカッコやカッコを使う頻度があまりにも多いのだ。
(ただしこれは処世術というか、Twitterのサービス開始時である2016年頃のようにSNSが大普及し始めていた時に、「読点である『、』をあまりにも多く使う人は変な性格だったり関わらない人が良い人格をしている割合が高い」という、裏付けとなる医学的データがない代わりに何故か信憑性や事実が高いものではある…のだが、それを回避するためにこうして読点の代用を「乱用とも言える頻度」で使ってきたのだ。なので今さらながらこの文体は簡単に変えられない)

さて、ここまで書くのは不眠症に影響がないのではないかと心配してくださった方もいると思うので、ネタばらしをしよう。
この文章の9割はスマホの『音声入力機能』を使っている。あなたに読んで頂いたこれらの文章の殆どは私が声を出して直接読み上げながら記載したものなのだ。

なぜ今更スマホの音声入力機能を使ってエッセイを書き始めようとしたのかについては「不思議な夢を見たから」という、これまた突拍子もないきっかけではある。
(その夢の内容はほとんど忘れてしまっているので一旦置いておくが)、どのみち私は長文を書くことについて、価値観の共有の可視化という点で何らかの憧れや理想なるものを描いていた節がある…のだと思う。まあ要は、いつかいずれは始める予定ではあったのだろう。内心では。

さて、ここまでだらだらと長文を書いていてなんだが、改めてこの文章を公開している【note】という場所ではあまりにも多種多様な人物やインフルエンサーが、(それこそありとあらゆる物事を言語化したり、もしくは考えをつらつらと連ねたりして)文章を投稿している。
それについて、とても読みやすくて良くまとまっている内容だなぁと思うのに対していいねが全くついていないものもあれば、大変失礼ながらもそこそこありふれた内容と書き方でいいねを100とか500とか獲得している文章も見かけないわけではない。
そこで気になったのが、

「noteにおける『文才』、はたまたいわゆる『バズるnoteの条件』とはなんだ?」

と疑問に感じたのだ。
実は、これこそが私がnoteを初めて公開しようと思い立った真の理由である。
文章というのはどうしてもその性質上、優劣というものを少なからずつけることが可能になってしまうものである…と思っているので、私の文章がこの世界(※文字通りの意味ではなく、note内での世界)において、どこまで通用するのかがふと気になり、楽しみになったのだ。好奇心を掻き立てるには十分すぎる疑問であった。

この文章を喋りながら入力している今も、内心ウキウキではある。
それは「この投稿がSNSによる共有機能で本人から発信せずとも、1つや2つのいいねがつくかどうか」という『期待によるもの』もあれば、純粋に今こうして私の脳内でいつも流れているような内容を改めて言語化してアウトプットすることそのものが楽しいという『思考の文章化の楽しさそのもの』もある。感覚的には割合はどちらも同じぐらいで半々だろう。
(音声入力による突発的かつ読みづらい部分もあること等を考慮し、一度文章を推敲してからこのnoteは投稿されている)

はたまたこの投稿自体が、ある種の日記のように「当時の自分はこんな感じのことを考えながらこんなことを書いていたのだな」と振り返るデータになるのかもしれない…というものもあり、
そして(ありふれた自己啓発的な内容にはなってしまうが)、やはりどうしても「最初の一歩というものを踏み出してみないことには、人生何も変わらないものなのかもしれない」と感じたので、こうして投稿してみた次第だ。

…正直、面白みがある文章が書けているかどうかと聞かれると、自分でも自信が持てているか疑問ではある。
しかし、この文章を読んで、少なからず何かしら良いと思った方はいいねボタンを押していただけると、文字通り布団の上で1日中横たわっているような生活をしている私の人生に少なからず彩りが加わる。

そしてこの投稿を境に、他の『noteについてのことをnoteに書いた文章』も漁ろうと思う。というかもう既に漁っている。

最後に、改めて文章というものは、その人の「人となり」を表すというか、色々な人の長文を読んでいて「内容は一旦置いておくにしても、書き方や言い回しについては人生の集大成みたいで面白いな」と、我ながら長文を書いていてそう感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?