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結局、今しかないのよ

仕事を終えて、オフィスのある建物を出ると、冷たい風がびゅうと顔をなでる。思わず体をすくめて「さむっ!」と声を上げてしまった。

気がつけばもう12月。
ついこの間、ハロウィンやお月見の話をしていたよね?
コロナ自粛で桜が見られないと言っていたのは、もう8か月も前なの?
紅白歌合戦をnote界隈のお友達とTwitterごしに楽しんだのは11か月前で、岡山や大阪のnoteオフ会に行ったり、noteの企画をやったりしていたのは、もう1年前。つい昨日のように感じるのに。

光陰矢の如し。時間のたつのは早いものだ。

よく、人生は線に例えられる。
私たちは生まれてから死ぬまでの一本の線の上を歩いているという考え。
経験や感情はその線上に付ける足跡のようなもので、振り返ると昨日、1年前、10年前と過去の記憶が刻まれているらしい。

毎夜、たった一人で歩いていると、いろんな記憶が浮かんでは消える。
数時間前、昨日、1か月前、1年前、10年前……
そんなとき、私の頭の中に大きなスクリーンがあって、まるでそこに動画が再生されているように、10年前のあのことも昨日のこのことも、映し出されては消えていく。
だけど不思議なことに、10年前でも鮮明に映し出されるものもあれば、昨日のことでもあやふやにしか見えないものもある。

もし私が、人生という一本の線の上を歩いているのなら、近くにある昨日の記憶はもっとはっきり見えるはず、遠くにある10年前の記憶はもっと不鮮明になるはず。
そうならないのはどうして?
本当に人生は1本の線なの?

今、私はパソコンに前でキーを打っている。
どんなに世界中を探しても、1秒前の私はいないし、1秒後の私もいない。

今この瞬間にしか、私はいない。

あ、点だ。

人生は、点なんだ。

私は、人生の線上に経験という足跡をつけているではなくて、ただ、今、この瞬間に「いる」だけなんだ。
経験や感情を、脳みそのハードディスクに録画しているだけで、その記憶のハードディスクを大事に抱えて、たまに記憶を再生しながら、ただ「今」を生きているだけなんだ。
だから、1年前も10年前も、全部、昨日のことのように思うのか。
まあ、私のハードディスクはポンコツだから、容量が小さくて、画質もよくないから、繰り返し再生しない記憶を消して、すぐに新しい記憶を上書きしちゃうみたいだけど。

最近、先のことを考えるとすごく不安になるようになった。
収束しない流行病のことも、家族のことも、自分の将来も、考えれば考えるほど悪い結末しか思い浮かばない。

人生は1本の線だと思ってた。私は死ぬまでその線の上を歩いていて、結末が決まっているはずなのだと思ってた。なのに、目の前から先が真っ黒に隠されている。答えがあるはずなのに、見せてもらえないからイライラする。不安になる。占いに頼ったり、私より人生の少し先を歩いているあの人の人生を、自分の将来に重ねてみたりして、必死で明日の自分を知ろうとしていた。

でも、人生が点ならば、1秒先もないわけで、1秒先のことを思い煩うことは、何もない空間に、念力で何かを出すようなもの。もはや何の意味もないじゃないか。

それに気づいたら、不思議と先のことが怖くなくなってきた。 
先のことを考えなくなって、自分がいかに今に目を向けていないのかが分かった。
過去の失敗と未来への不安に縛られて、今を楽しもうとしていなかった。

美味しいご飯、元気な家族、優しい仲間、豊かな暮らし。必要なものは今全部ここにある。
それなのに、過去に失ったことを後悔し、明日のことを悩んでばかりいた。 

「今を生きる」ということはこういうことか。
この瞬間の自分に意識をフォーカスすること。
過去は、ただ見るもの。
未来は、今の積み重ねだと知ること。
ただ、ここにいると感じること。

結局、私には今しかないということだ。

点の集合体が線になると、小学校の算数の時間に教わった。
この瞬間の私という点を集めていけば、私が死ぬ時、線になっているのかもしれない。
その時を人生は一本の線だと言うのだろう。

今年一番の大発見の話。

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