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親の心、子知らず

難しいなあと思うことが多くなった。

娘とのことだ。
高校生の娘は、難しいお年頃。理想と現実の間で葛藤があるようで、たまにものすごく機嫌の悪い時がある。というか、最近は年中機嫌が悪い。

高校に入ったばかりのころは「学校も部活もたのしい!!」と意気揚々としていたのに、最近はすっかり「やる気なし子」
宿題もいや、塾もいや、勉強もいや、部活もいや。
最近では「こんな学校に来るんじゃなかった」とまで言う。

娘は、2学期になってから胃腸の調子を悪くして、食事のあとに吐き気がすると、授業中に保健室にいくことになることも度々ある。今も、保健室に行くほどではないが、食事のたびに胸焼けが治らないと訴える。本人はもちろんだが、親としては心配で仕方がない。
胃腸科の病院に通ったりしてみたが、どうもあまりすっきりしない。
本人も病院の先生も「ストレスかも」というし、こればっかりはどうしてやればいいものか。
私たち親もできるだけ、「勉強しろ!」とか「遊んでばっかりでどうするの!」とか、小言は言わないようにしている。
だけど、娘のイライラ怒りスイッチは、突然些細なことで入るのだ。
髪の毛のセットがうまくいかなかった。シャツにアイロンが当たってなかった。通学途中の坂道が辛くていやだ。水筒のお茶が熱い。朝ごはんが出るのが遅い。ママは車通勤でずるい。
親としては、たまったもんじゃないというのが本音。

娘は、今朝もブツブツ文句をいいながら、学校に出かけていった。

はあ、嵐が過ぎた。
静かになったのはいいけれど、娘の怒りをサンドバックのように受け止めた私たち夫婦の消耗も激しい。
つい、後から起きてきた息子に「今朝も嵐だったわー」と愚痴る。
「ふふふ、また妹が荒れてたん?」と優しく受け止めてくれる息子、ありがとよ。
(そういう息子も時々、言い方を間違えると怒りスイッチが入るので注意が必要)

怒りたいときって、どんなことでも怒りのタネになるものだ。
誰かのほんのちょっとしたミスも、車の渋滞も、自分の言動も、着ようと思ったシャツにアイロンが当たっていないことも、数学の先生の教え方がイマイチなことも、弁当の量が多いことも少ないことも、電信柱が高いのも、ポストが赤いのだって、怒りのタネになる。
要は、怒る理由はなんでもいいのだ。
怒りたいと思う根っこに、怒る理由とは全く関係ないイライラや不安や不満がある。

娘の場合は、体調がよくないこと、学校での勉強が思うようにうまくいかないこと、部活も好きで入ったのに指導方針との折り合いが悪くて続けられないこと、学校での人間関係、将来の不安、先生や親の目。
娘の理想は、やりたいことを見つけて、勉強に邁進し成績を上げて、希望の大学に入り、学校生活を謳歌し、好きな仕事につくことのようだ。
だけど、現実はそううまくいかなくて、希望していた大学に入れる可能性も低くなって、体調もよくないし、勉強ではつまづいて、部活も楽しくなくなって、それでも頑張れと学校や家族からいわれる。自分ももっとできるはずだと信じていたのに、全然できない。
現在、自己肯定感が急降下中なんだろう。

私たち親はどうしたらいいんだろうか。
冷たい言い方だけど、彼女の悩みは彼女のものなのだ。
悩みを聞いてあげること、アドバイスすることができても、彼女が行動を起こさなければ、何も解決しないのだ。
未成年、学生、被扶養者という枠の中で、自分が楽しく生きられる方法を見つけ出すこと、やりたいことの裏には「努力」や「がんばり」が隠れていて、それを無視して、やりたいことを成し遂げることはできないこと。
努力やがんばり、やらねばならないことの中にいかに「好き」を見つけ出すのか、楽しいを生み出すのかは、もう本人次第でしかない。

何をどうしても「楽しさ」や「好き」が見つけられないなら、やめてしまうこともひとつの選択肢だと思う。
夫は「嫌ならやめればいい」といつも娘に言い聞かせている。
だけど、娘も15歳にして、すでに「世間の常識」に囚われていて、文句を言いながらも学校へ行くのだ。

私だって、高校、大学、就職、結婚、出産、育児と、世間の常識のレールに乗っかった人生しか送ってきていない。それ以外の人生を知らないのだ。だから、「進学をやめてこんな風に生きればいい」なんていうことができない。

私たち親の知らない人生を歩むなら、申し訳ないけれど、彼女が自分で考えて、彼女の生きたいように生きてもらうしかないのだ。
私たちは、それをはらはらしながら、見守り応援し続けることしかできない。

他人の人生を、見守ることは難しい。
つい転ばぬ前に手を差し伸べたくなるし、自分の知っているレールに戻そうとしたくなる。そこをぐっとがまんして、言いたい言葉を飲み込んで、娘に笑いかけ続けることが、親の役目で、親であることの試練なのかも。

赤ちゃんのころはよかった。
ミルクを飲んだか、オムツがぬれていないか、お友達と保育園で仲良くできていたのか、風邪ひかいないか、縄跳びができたか、算数の宿題ができたか、そんな目の前のことをできたかできてなかったかを気にしていればよかったし、親の私が手をかければなんとかなることのほうが多かった。(それはそれで命に関わるので心配だったけれど)

でも、今は、子供の心のこと、私たちがいなくなっても一人で生きていけるのか、この先、今の心の持ちようで辛い思いをしていかないのか、一人の人間としてどう成長するのかが心配でしかたないのに、親にはどうにもできないところにあることが難しい。
思春期の子供は、身近な親の言葉にこそ、聞く耳を持たないし、かといって、人生のメンターを見つけているわけでもなく、一人で悶々としている姿が、本当に痛々しくて、代わってやれるものなら、代わってやりたい。

こんな話を娘にしてやりたいが、怒りスイッチを親に向けがちな今の娘には、きっと伝わらないので、言わないけれど、いつか話せるチャンスがくるかもしれないので、ここに下書きしておく。

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