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SNSはサードプレイス

ときどき、異常なほどSNSに張り付いてしまうときがある。

家事の隙間に、仕事の隙間に、読書の隙間に、家族との会話の途中に、テレビの途中に割り込むようにSNSを見ている。

ほんの5分が30分、1時間と過ぎている。
この時間があれば、お菓子のひとつも作れたし、運動もできたはずなのに。

そういうときは、たいてい心が疲れている。
誰かに認めてもらいたかったり、さみしさに心が支配されているとき。

私にとって、SNSとは「サードプレイス」
家族とも職場の同僚とも違う人々との交流は、とても刺激があって心地よい。自分の好きな時に、好きなことを話せるのは、リアルで他人の感情や空気を読むこと、面倒やしがらみを忘れて、自分の表現したい面だけ出せる場所。

また、地方暮らしでは見えないものを見せてくれる、世界の窓でもある。
SNSがなければ知り合うことのできない遠くの人とも、まるで隣にいるように話せる。私の暮らす街とは違う習慣、生活スタイルを知り、いろんな考え方を見聞きして、自分の考えをアップデートできる場所。
最近では、オンラインイベントも増えてきて、都会でしか享受できなかった知識やサービスを地方にいながらしにして受けることができる。
世界は広いんだなってことを教えてくれる。
小さいコミュニティで、いがみ合ったり、小競り合いしたり、愚痴を言ったりしていることが、ばからしくなってくる。
好きなことを好きだと叫んでも、誰も笑ったり、けなしたりされない。むしろ「私も好き!」と共感してくれる人を見つけることもできる。
ああ、ひとりじゃないなと思える。
私にとっては、オアシスのような存在だ。

Twitterを始めたのは自分の書いたnoteをシェアするため。それまで使っていたリアルのアカウントは、ずっと放置した状態だった。
はじめたころは、自分の書いたnoteの紹介と、誰かのnoteを読みにいくためのツールでしかなかった。それが次第にnote仲間との交流の場となり、新しい情報源となった。いろんな人と出会えて、一緒に遊んで楽しくなった。
noteを読む時間より、Twitterでおしゃべりをする時間のほうが長くなった。家族の会話時間より、リアルの友人とのLINEより、Twitterにいる時間が長くなっていた。依存症だと家族に笑われた。それでもよかった。

だけど、一方で自分の発信に返事が欲しくて、何度も何度もSNSを見に行ったり、noteのスキやダッシュボードをチェックしてみたり。
どこかで誰かが自分の文章をほめてくれていないか、言及してくれていないか必死になって探していた。

しまいには、誰かが誰かを賞賛するのを見てモヤモヤしたり、必要以上にいい人のふりをしてみたり、何か語り続けなければ、自分の存在を忘れ去られるような不安になった。
楽しいはずのSNSが苦しい空間になっていることに気づいた。

オアシスに入り浸っているうちに、いつの間にか、それが世界のすべてであるような錯覚にとらわれていた。
サードプレイスが「ファーストプレイス」になっていた。
noteを書いていても、家族と過ごしていても、映画や読書を楽しんでいても、Twitterのタイムラインが気になる。四六時中スマホを手に持っていたら、スマホの形に手が荒れていた。指紋も消えている。

まいたけさんのこのnoteを拝読した。

ここに3本のYouTubeチャンネルが紹介されている。
どれも、生活を楽しんでいる方の暮らし動画。自分を心地よくさせるための暮らし方が紹介されている。
「自分の心地よさのために暮らすこと」私が見失っていたものはこれだ。
清潔な空間、おいしい食べ物、片付いた部屋、自分の好きなものを大事に扱うこと。心安らぐ時間。
自分にとってそれがどういうものか、もう一度考え直してみたいと思った。

家事、家族や友人との時間、読書や趣味の時間。
先日、久しぶりに友人主催の読書会に行った。人と顔を向かい合って話す楽しみを思い出した。
昨日は実家の母に会いに行った。春先に体調をくずしていたのに、もうすっかり元気になっていた。週末に実家の家業の手伝いをする約束をしてきた。
私がSNSの世界にどっぷりつかっている間に、忘れてしまっていたもの、なおざりにしていたことがたくさんあった。

これからは、自分のリアルな生活を大事にしながら、ネットの向こうにいるいる人とも穏やかに心を繋げていたい。

それが私の「サードプレイス」だから。

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