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終わるものと始まるもの

「今年は、餅もつかんし、おせちもせんから」
先日、母から電話で告げられた。
年末になれば実家の母が餅をついて分けてくれて、大晦日にはおせちを一緒に作るものだと思い込んでいた。

当たり前だったものが、突然終わりを迎えた。

「餅はあんたがスーパーで買いな。おせちも、適当に自分で作りなよ」
お母さんももう年だし、作るのめんどくさくなったんよ。
母はそう続けた。

「分かった、今年からは自分でなんとかするよ」
何の問題もないふうに言って電話を切ったが、本当は胸の奥で強い風が吹いていた。

気が付けば、母ももう70歳を超えた。父はもう80歳。
母は、今も共働きで忙しくしている私たち家族の夕食を作ってくれるし、家事や畑仕事もしゃんしゃんこなせる。父親も血液検査の結果はオールA、血圧も糖尿も腰痛もなく、自分の歯で食事をとるし、おしゃれにも気を遣う。
まだまだ元気。

「野菜の出荷が忙しいから」と母は、餅をつかない理由を述べていた。もちろんそれも理由の一つだろう。でも、今までの母なら、どんなに農作業が忙しくても、餅つきを休むなんてことは考えもしなかったはずだ。むしろ、「この忙しいのに、餅までついた」と武勇伝のように語ったに違いない。

それができないと白旗をあげるほどに、両親に精神的な老いが、確実に来ている。盆暮れのようなハレの日の準備が面倒になったのは、きっとそういうこうとだ。

親も、できなくなる年齢になったのか。
親の老いが、現実のものだと知ってショックを受けた。いや、親の老いを見たくなかったのに見てしまって、自分が目を背けていたという事実に気づいて、落ち込んだのだ。

今日より明日、明日より明後日。少しずつ、じわじわとにじり寄って来る「いつか」の姿を見たくなかった。なのになんの心の準備もせずに見てしまって、苦しくなった。

幸い、両親は日常生活に支障をきたしていない。とりあえずは、まだ大丈夫だと思いたい。

さて、年末年始の準備、これからどうしよう。

餅は、どこで買うべきか。スーパーかネットか、それとも餅つき機を買ってつくべきか。でも、もち米ってどうやって炊くんだろう。やっぱり味気ないけど買うべきか。

おせちはどうしよう。オンラインで、栗きんとんと田作りは教わることになっているし、黒豆と数の子、エビの塩焼きは今まで私の担当だったのだから、そのまま作ればいい。
あとは、母が作っていたブリの照り焼きと、お煮しめ。母と毎年作っていたのに、煮しめの作り方が全然分からない。いままで、私は何を見てきたのか。ネットで検索した煮しめの味が、母の味と似るのだろうか。
もういっそ、うちもおせちをやめようか。でも、お正月におせちを囲むのを楽しみにしている一人暮らしの義父にそれもちょっと申し訳ない。
ああ、どうしたらいいんだろう!

「ただいま」
一人悶々と、正月準備のあれこれを考えていたら、娘が学校から帰ってきた。
「ばあばがね、今年からお餅も作らないし、おせちも一緒に作らないっていうのよ。なんか、さみしいなあ」
そう言うと、
「じゃあ、私と一緒に作る?」
と、思わぬ返事が返ってきた。
「しょうがないよねー」とか「そんなん知らん」と言われると思っていたのに。

そうか、その手があったか。
母ができなくなったからといって、私一人がすべてを背負わなくていいのだ。新しい世代がここにいる。
それに、別に、母と同じものを作らなくてもいいではないか。
時代は変わる。煮しめやブリがハレの食べ物だった時代はとっくに過ぎた。今は、かたまり肉のローストビーフや焼き豚のほうが令和のハレの日にふさわしいかもしれない。
煮しめの味が変わっても、筑前煮になってもいいし、ブリを焼かなくたっていい。鏡餅や丸餅はスーパーで買ってくればいい。清潔で綺麗でおいしいものがいくらでも手に入る。調べたら、ホームベーカリーで餅をつく方法を見つけた。それもいいかも。

私たち親子が食べたいもの、作りたいものを作ればいいのだ。
義父だって、孫が作ったものなら文句を言うまい。
受け継いでいくべきなのは、料理そのものではなく、正月を迎える心なのだから。それは、母から私、私から子供たちに確実に受け継がれていく。
それでいいのだ。

「おお、そうしよう!!」
これから娘とおせち料理の献立を考える日々が始まると思うと、心が沸いた。




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