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【連載小説?】てなもんや投資顧問 (1) [pilot version]

 時は、メガバンクがまだ合併前で、主要銀行が都市銀行13行・長信銀と呼ばれていた、平成の時代の最初の10年くらいのお話。

 西暦でいうと1990年代から21世紀にかけての時代。

 日本経済にとっては、80年代のバブル経済の狂騒の二日酔いのような余韻がまだ少し残っていた数年が過ぎて、様々な不吉な行き詰まりの予兆が出始めていた頃であった。

 バブル経済を絵に書いたような無理なリゾート開発や、字の通り「水もの」にすぎなかった東京のウォーターフロント開発計画など80年代のプロジェクトの行き詰まりが顕在化して、事業の破綻が明らかになってきていた。

 バブル期の行き過ぎの後遺症の最初の社会問題としての顕在化は、いわゆる住専問題であった。銀行傘下の住宅専門の貸し手のはずだったはずの住専が、バブル期にリゾート開発融資に手を出していて、それが焦げ付いた。経済関連以外のニュースでも、時を同じくして、阪神大震災やオウム事件など、とても不幸で暗く重苦しい出来事が続いた。

 この頃になってくると、市井の普通の人々も、有頂天に浮かれたバブルの10年が本当に終わりを迎えてしまって、その後の日本経済の冬の時代の到来を感じ始めていた頃であった。


 1990年代前半に米国から帰国した、手成門真人(てなりもん・まさと) は、米国で手にした元手で、地場証券が売りに出していた投資一任免許のある子会社、茅場グローバル投資顧問の株式を全部買い取った。

 そして、社名を「手成門投資顧問会社」と改称した。

 1995年には、欧州の海外投資家の資金をプールして元英連邦系のオフショアに設定したファンドで、日本株の売り持ちポジションも持てる、買い持ちと売り持ち両方の株式ロング・ショート運用を開始していた。

 これが、1990年代後半に和製ヘッジファンドとして、しばしば経済雑誌にとりあげられた、「テナリモン・ファンド」の始まりであった。

 この風変わりな創業者の苗字がつけられた会社は、しばしば言い間違われ、あるいはやっかみをもって揶揄(やゆ)されて、「てなもんや投資顧問」と、相場関係者の間では通称されていた。


 当時40才過ぎであった手成門は、20年近く前の昭和50年代に関西の私大の経済学部を卒業したあと、最初は大阪の総合電機大手に総合職として入社した。

 国際部配属で、新たに設立された米国現法で米国南部の家電の工場の現地サプライヤーからの調達の交渉担当となり、年の半分は米国長期出張で過ごす日々を送っていた。

 工場は翌年立ち上がったが、部品調達のトラブル続きで、手成門の米国工場通いは更に頻度を増していたが、持ち前の度胸と根気良さと愛嬌で、問題処理していった。もぐら叩きのように、叩いたと思ったらまた別のところから問題発生とエンドレスな日々だったが、それなりに勉強になり、面白くもある仕事ではあった。


 5年ほどした頃、ちょっとした転機が訪れる。文系の電機屋としてのキャリアを積み始めた彼にとっては考えてもみなかった転職のチャンスであったが、何故かとても興味をそそられた。

 ボストンの老舗のアセット・マネジメント会社が、日本株の電機セクターのアナリストを募集しているという。アセット・マネジメント会社がなにをする会社かもよくわかっていなかった手成門だったが、ボストンという場所と、日本人の電機セクターの専門家をアメリカの企業が探しているというのに、心惹かれた。給与も電機会社より格段よかった。

 応募してみると、何度かの電話面談の後、ぜひ米国出張の際にボストンに一度来いと言われる。電機会社の上司に無理を言って休暇をとって米国出張時にボストンを訪れると、驚くことに、背が2m近くあって体重も150キロくらいありそうな初老の白人の投資顧問のアメリカ人の創業社長がじきじき出迎えてくれる。


   持ってきた英語の履歴書を出そうとすると、その巨漢の社長はそれを制して言う。

 「マサト、そう呼んでいいかな?君のことはもうわかっている。正確に言うとけっこうわかっていて、いくつかわからないことがあったので今日来ていただいた。そのわかっていないことについての質問の時間とさせてもらっていいですか?」

 奇妙な面接だった。

 「週末とか余暇は何をする?

 手成門は正直に答える。

 「プラモデル作り」

 「理由は?」

 「細かい作業に集中していると、仕事のこととか、嫌なことを忘れられるからです。プラモデルってそういうものですよね?」

 社長は笑う。

 「次の質問。原理原則と、臨機応変の対応、どちらが正しい?

 「優等生的な答えだと、ケースバイケースでどちらも正しい、でしょうけれど、私は原理原則が最後は勝つと思っています。1時間くらいいただければ、これまでの人生でそうであったことを説明できます」

 社長はまた笑って、詳細説明の申し出には首を振ると、次の質問へと移る。

 「バリュー投資と仏教の諸行無常の諦観との関係について論じてみよ
突然、意味不明な質問へと飛躍する。

 手成門は予期せぬ質問に一瞬焦るが、ひとつひとつ自問自答しながら回答を試みる。金融市場での投資については、一応、本を一冊買って読んできたので基本的な用語はわかっていた。もちろん、日本人として諸行無常の理解もあった。

 「バリュー投資は、1930年代にベン・グラハムが提唱したもので、オリジナルな考え方は、たしか、企業の持つ資産とか持続的な収益力からくる価値に注目して、それが株価よりも安全マージンを持って上回るときに投資するといった哲学ですね。そこには、企業の成長という将来への期待は排除されている。もともと債券アナリストだったグラハムの、手堅くコンサバなアプローチが反映されている。ある意味、株式投資の一番の醍醐味である「企業成長」について懐疑的なのが、とても面白いと思います。

 ある企業が成長しているとして、その成功をみて参入してくる競合がでてくるだろうし、その成長を支えている企業の持つ強みも、いつか脅かされる。成長のために外部資金調達して発行株数が増えて1株あたり利益が減少したり、無理な銀行借入で大きすぎる工場を持ったり、成長そのものから様々なリスクも発生する。

 仏教の諦観、日本の禅の諦観といったほうが正確かもしれませんが「奢れるものは久しからず、栄えるものはいずれ滅びる」という人生観は、この成長への期待を極力排除しているオリジナルのバリュー投資の哲学にも通じるところがあると言ってもいいかもしれません」

 どうにかまとめあげて、切り返す。

 すかさず、社長は聞く。

 「ウォーレン・バフェットはこの点については?

 手成門はちょっと焦る。たしかにバフェットもバリュー投資家として有名だが、コカコーラとか世界的に成長している優良企業に積極的に投資してきている。バリュー投資なのに、企業の成長を追っている?なぜだ?バフェットはコーラとか、シーズだったかキャンデーの会社に投資していたな。

「。。。バフェットは、キャンデーとかクッキーとかコーラとか、美味しいものを造る企業が好きなので、粗食に甘んじる禅法師とは違いますね」

 社長は巨漢を揺らして、笑う。手成門はこの軽口で時間稼ぎしながら考える。

 「でも、彼も「成長」というともすれば麻薬のような響きの誘い文句には、とても慎重に向き合って来ていると思うんです。成長なんて、誰でも、どの企業でもできるもんじゃない。その点で、禅哲学に通ずる諦観のような見方があると思います。

 数年伸びるとか、環境がいい時に伸びるという企業はけっこうあったとしても、環境が悪くてもしっかりと持続的に伸びていく企業は、めったにない。

 そういう数少ない特別な力を持った企業には、自らを競争から守ってくれる、なにか特別な優位性があるはずだ、そう彼は考えているはずです。そして、さらにはその優位性に甘んじず常に緊張して経営している経営者がいるはずだ。この組み合わせはありそうで、なかなか無い。バリュー投資家なんですが、かなり厳しい条件付きで、成長を認めている見方でしょうか」

 そんな禅問答のようなやりとりが30分続いた。

 そして、社長はニタっと笑うと、立ち上がってついてこいという素振りを示す。

 会議室は社長室に直結していて、さらにその向こうには運用チームのいるオフィスがあった。

 そこに居たメンバーに手成門を紹介していく。「新たな日本株のアナリストのマサトだ

 あれ?まだ転職するかどうかの返事をしていないんだが、と手成門は思うが、そこは腹をくくって、笑って皆と握手していく。

 直感的に、これは自分の人生でめったにない大チャンスだと察した。

 こんな人生もあってもいいかなと直感で判断して行動に移してしまう、大胆さと大雑把さが自分にあるのを知っていた。そして、これまでの人生でも、こうした「えいやっ」と決めた大胆な動きが、新たな人生の活路を開いてきてくれた。


 手成門投資顧問は、三軒茶屋の5室からなる高級マンションを事務所とすることにした。敢えて、取引所のある兜町や証券会社がひしめく茅場町は避けた。

 株を売らんがための証券会社の情報に踊らされず、ちょっと距離を置いて企業情報を冷静に見極めたいという思いもあったが、単に、兜町でオフィスを借りるよりも居住性があって高級感があるわりに家賃が安かったというのが本当の理由だった。

 投資顧問を買収したときに条件として2年の継続雇用を約束した70歳近い元証券会社の場立ちのディーラーだった高本と、派遣会社を通じて雇用した秘書ひとり、そして手成門、会社たちあげの初日はたった3人での門出であった。高本には、役所への届けや総務的なこと全般を担当してもらった。

 まもなく半年ほどして、手成門の伝手で欧州の投資家の資金がまとまり、海外で専用ファンドがたちあがる。投資顧問会社の経営と、企業訪問でのリサーチ、投資判断で忙殺される手成門に代わって、株式の売買発注を担当するトレーダーが必要になり、こちらも知己を頼って元証券会社のトレーダーを1人雇う。


 手成門は、企業リサーチのアナリストを数名雇いたいと思う一方で、ファンドの投資家である欧州や米国の機関投資家への窓口となってくれる、いずれ自分の分身のように動いてくれる人間も必要としていた。

 それなら、英語しゃべるやつでアナリストもやれる、融通効くやつを雇えばいいと思っていたところ、米国の田舎の州立大学併設のビジネス・スクールをもうすぐ卒業するという34歳の男の紹介を受けた。

 ちょっと年がいっているなとは思ったが、その一風変わった経歴をおもしろいと思った。

 佐藤という手成門の大学のサークルの同級生で食料商社にはいった友人による紹介だった。その中堅商社の米国拠点たちあげに奔走したおもしろい元部下がいて、アメリカに2年送り込んだらそれで会社辞めてしまって大学院にいってこの夏に卒業だという。職探しをしているようだという。

 佐藤は顔をくしゃくしゃにして笑いながら言う。

「こいつさ、毎年きまって7月頃の忙しいときに休暇とってさ、タコス作りを習いにメキシコに行ってたんだよ。職場の忘年会でこいつのタコス食べたけど、あれは本場の味、一流の再現力だった。凝り性だね。へんなヤツでさ、なんだか、メキシコ人の彼女がいたようなんだけど、それで振られちゃったのか、30すぎて婚期遅れちゃってるなと思ってたら、アメリカで日本人と電撃結婚して、何故か会社辞めたと思ったら、大学院で勉強しなおすとか言ってさ。

 まあ、人物的には俺が保証する。へんなヤツだけど根はいいやつだよ。仕事ぶりについては、うちのなかでは鬼軍曹で通ってる吉田さんっていうのがアメリカの駐在員事務所初代所長でさ、俺が鍛え上げたのにって言って、そいつが辞めたのをとても残念がっていた。

 語学もぺらぺら喋るほうではないが、耳がとてもいいらしい。耳なのか、相手の言わんとしていることを想像する能力なのか、英語以外にもスペイン語とか大丈夫で、外人とのコミュニケーション能力は高いと、吉田さんが褒めてた」

 こうして、90年代半ばに米国の片田舎のビジネススクールを卒業したばかりの森甚一が、東京に舞い戻って、食品とはまったく畑違いの資産運用業界での道を歩むことになる。

 平成不況、混乱の時代、魑魅魍魎(ちみもうりょう)がうごめく株式市場、ジンイチの運命は果たしていかに。。。 

(続く、かな?)

この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとはこれっぽっちも関係ありません。

(約5000字)

ストーリーに並行させて、Jazzのリンクを貼っておきます。単に好きな曲というだけですが。

"Maiden Voyage" 処女航海 by Harbie Hancock 






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