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天才児?たちとのロシアンリバー下り(2/2) 手製ポテトサラダとテント・サウナ 究極のセラピー?

(後編)

3.手製ポテトサラダとテント・サウナ

ひとつ訂正。前編で、下流でカヌーを借りてひたすら押して上流をめざしたと書いたが、たぶん、最初の方はオールを漕いで上流を目指していたように思う。記憶違い。このWebでみつけたタイトル写真のロシアン・リバーの川幅が広い辺りは、水深も深そうだし、オールで漕いで川上を目指したはず。だんだん川幅も狭くなって流れも急になったあたりから、じゃぶんと川に浸かってみんなでカヌーを押したんだと思う。

休憩をいれながら、数時間あるいは4・5時間かけて上流を目指した。たしか、交代で1人が先頭でカヌーについたロープを引張り、みんなでひたすら押した。

多動症?ということなのか、Aは止まることなく、ずっとなにか喋っていた。悪気はないんだろうが、関心・議論の矛先がいろいろ変わって、当然、外国人の僕にも及んでくる。

「Japというのは日本人への差別語だけど、一部では Nip という言葉も使われていたんだよね。それはNipponの略だよね。」とA。

それを聞いていたJとかSが、「おい、A。そういう話題は not nice 。他のこと話そうよ」と軌道修正してくれるが、Aは続ける。

「第二次大戦中に多くの日系アメリカ人がここカリフォルニアでも強制収容所に隔離された。理由は、敵国の日本とつながっていて密かに支援するんじゃないかという点と、逆に日本人だからといって暴力を受けたりすることから保護するためだったという説もある。どう思う、Ken?」

差別語にむっとしながら、こいつ殴ってやろうかと思いながらも、無視もできないので仕方なく応える。「当時はドイツだって敵国だったし、ドイツ系アメリカ人もたくさんいたはずだが収容はされなかった」

「日本は真珠湾攻撃をしたし、ここカルフォルニアまで気球爆弾とか、米国本土への攻撃を起こしていた点が違う」とAが知識を披露しながら反論する。

すると、それを遮るように、大きな明るい声でロブが叫ぶ。「みんな、あと10分くらいで今晩のテント設営の川辺だ!あと少し、やっと到着!」

その川に面した木が生えていない平地で、荷物をおろして、テントを設営する。別にキャンプ場ということではなくて、我々以外は誰もいなかった。テントをいくつか設置して、焚き火を起こす場所を決めて、そして、ちょっと離れたところをトイレと決める。

ロブがみなに言う。「みんな、燃えそうな乾いた木と、このくらいの(両手で抱えるくらい)石を一人1つ拾ってきてくれ」。焚き火のかまどみたいにするのかなと、川端から大きめの石をみつくろって持っていく。みなが持ってきたいくつかの大きい石を敷いて、さらにかまどのように石を組んで、それで火を起こした。

食事はなにを食べたか、すっかり忘れてしまった。40年以上前の記憶。たぶん、ソーセージ焼いてホットドックとか、ハンバーガーパテ焼いてハンバーガーとか、そんなアメリカンな食事。ひとつ、鮮明に覚えているのが、シャロンが作ったポテトサラダ。

焚き火の火でジャガイモを煮て、それをスマッシュして、セロリだったか玉ねぎだったかいれて、マヨネーズかけて、大量につくってくれた。「そうか、ポテトサラダって作れるものなんだ」と変に関心したのを覚えている。給食ででてきたり、家ででてきたり、どこかで誰かが作った冷たいものを食べるものだと思っていたものを、目の前で一からつくっている人がいる。40年たってもまだ覚えているということは、それで何か初めて学んだものがあったのかもしれない。そして、そのサラダは生暖かった。でもおいしかった。

食事が終わると、木の枝をナイフで削った先にマシュマロをつけて、みんなそれぞれ焼いて、とろりとなったところを食べた。そとはカリッとなかはトロトロ、おいしくないはずはない。もう暗くなった森の中は、近くで川のせせらぎが聞こえた。遠くでは、コヨーテなのか野犬なのか、犬の遠吠えのような声も聞こえた。

「では、このキャンプ最大のイベント、夜の川へのダイブをやります」とロブが宣言する。

「え、冷たい川にはいったら、心臓麻痺で死ぬよ」とホストブラザーのPが反論する。

「僕は祖先が北欧なんだが、その地域で伝わる、伝統の儀式でやるから大丈夫」、ロブはそういって、小さなテントを指差す。

そういえば、寝袋や荷物を運び込んだ大きめのテントの他に、木の枝を3本くらい組んだのにシートをかぶせた、粗末なインディアンのテントみたいなものをロブとシャロンが設営していて、なにに使うのかなと思っていたそれだった。

「さあ、準備をしておくから、みんな泳げるようにベージングスーツに着替えてきて」とシャロンが言う。

海水パンツにはきかえて、涼しくなってきたのでTシャツは来たままで、火の前に戻ると、かまど?だった石のいくつかはそこになかった。

「説明します。これは北欧で「サウナ」というもの」

「知ってる知ってる。熱い蒸気で体をあたためる健康法」とAが言う。

「そのとおり。熱い石があのテントの中にあるので、やけどしないように気をつけながら、バケツにはいった水をかける、そしてわっとでてくるその蒸気で温まる」「じゅうぶん温まったら、テントをでて、川へとダイブする」

焚き火に照らされた皆の顔が、不安とワクワク感で、きらきらとする

「大事なのは、テントからでて川へと行く間の儀式。北欧古代の儀式で、みなで一列に並んで、聖なる枝につけた聖水をダイブする人に、ぴしゃぴしゃかける」ロブがそう言うと、皆がワハっと笑う。

一番手のJは、ヒッヒャーとか甲高い声で奇声をあげながらテントからでてくる。色素のすくない白人の肌が真っ赤になっている。冷水のついた小枝を、彼の背中とかにパシャパシャやると、やめてくれーとか笑いながら、川へと走っていって、じゃぶんと飛び込む。水深は浅いのですぐに立つが、また、ヒヤー!とか奇声をあげて、楽しそうであった。

僕もピシャピシャたたかれながら、川へダイブ。今思うと、サウナで「整った」人生最初の体験だった。川の冷水が全身に強烈な衝撃でしみてきて、圧倒されると同時に、なんともいえない快感。ある意味、大自然での、とても神秘的な体験だった。体が感じた強烈な感覚。言葉で論理的に説明されるよりも、何倍も強烈な体験。

女性のSにはお手柔らかにピシャピシャ。Aの番になると、皆、日頃から、また昼間からの不満?もあって、冷水をたっぷりかけて、枝でわきをくすぐったりしてやった。Aは、やめてくれーとか叫びながらも、楽しそうだった。

4.川下り・帰還

その夜は熟睡した。翌朝聞くと、Jも、日頃はよく寝れないので、ときどき睡眠導入薬を飲むそうだが、昨晩は熟睡できたという。

朝食を済ませて、テント設営を片付けてカヌーにつんで、いざ、ひたすら下流へ。川の流れがはやいところとか、段になっているところもあり、なかなかスリリングだった。

ある、段になったような流れの早いところで、Aがカヌーから落ちる。それなりに深いところだったが、ライフジャケットをつけたAはすぐに浮かんでくる。Aも皆も、大笑い。おいおい、喋ってばかりいると、そうなるんだぞと。

そして下流の出発地点に無事戻って、カヌーを返して待つと、家族が車で迎えにきてくれた。

あのキャンプ旅行はなんだったんだろう、その後の人生で、時々なつかしく思い出しては、考えた。

普段、気難しい顔したり、頭の良さに偉そうにしたり、あるいは人類が背負った原罪みたいな重たいものを抱えて憂鬱な顔をしている天才児たち。それが、大自然のなかでひたすら体を動かして、大きな笑顔をみせた体験。それを支えるシャペロンの2人は、天使のようにほほえみ、けっして叱ることなく、すべてを受け入れてくれた。そして、自分たちの出会いの話とか、とても人生の教訓のようないい話を静かに語ってくれた。手作りのポテトサラダはおいしく、手製のサウナと川での「整い」は、体のなかの思春期の苦悩をリセットしてくれるかのように、強烈に気持ちよかった。

あるとき、ふと思った。もしかしたら、あれは巧妙に計算されてつくられた、「発達障害の天才児用のセラピー」だったのではないか?奇人変人的な行為もすべて無条件にやさしく受け入れながら、大自然のなかで強烈な体感をともなう楽しい想い出を持ってもらう。アメリカの精神分析の学問の発達・応用はすごい。ちょっと関係ないが、クワンティコのFBI本部は70年代に既に犯罪者のプロファイリングをはじめていた(この間Netflixでマインド・ハンターというドラマで知った)。80年代に州予算で、発達障害天才児のセラピーを実施しててもおかしくはない。

もう記憶が不鮮明になってしまったが、たしか、Aは、親の離婚もあり、精神的に不安定で、自殺未遂の過去もあったと聞いた。人並みはずれた記憶力があったり数学が得意だったりの天才児たちは、その能力がゆえにマイノリティであり、こころのバランスの問題を抱えがちなのだろう。

数年前だったか、卒業後に疎遠になっていた学生時代のジャズサークルでサックスを吹いていた同級生の顔写真をあるウェブサイトで偶然見かけた。精神科医になって発達障害の子供をずっとみてきて、何冊か本を書いているという。学生の頃から、にこにこ笑顔がいいやつで、写真も笑顔だった。この笑顔なら子供も心を開くのでは、というような笑顔。キンドルで買えたのでダウンロードして読む(ここで個別名称避けたいので、具体的にこの本に関心有る方は、個別にNoteのWeb版下方の「クリエーターへのお問い合わせ」でご連絡いただければ書名を答えます)。たしか、「発達障害は、社会生活に支障があるなら病気として診断、支障がなければそれは「個性」にすぎない」というようなことを書いていて、自分の特殊なこだわりと社会生活との折り合いをつけていい人生をおくるのをみなで支えましょうというようなことを書いていた。それを読んで、このキャンプのこと、2人のシャペロンのことを思い出した。

天才くんたちはその後どうしたんだろう。辛いこともあっただろうが、このキャンプを思い出して、それを支えに生きてるということだと、いいが。

と、書いてみて、ふと、あることに気がついた。映画ファイト・クラブで、主人公のエドワード・ノートンが暴力的なブラット・ピットが実は自分自身のことであったと気づくような衝撃の結末(おおげさな比喩。それに映画みてない人にはネタバレで失礼)

気づき:「自分こそ、この短い旅の想い出に、これまで何度も勇気づけられ、救われ、支えられている」

生きている意味に疑問を持ったり、抑えがたいある感情に突き動かされそうになったり、わかってもらえないというような絶望があったり。そんなときに、あの大自然の体験をふと思い出す。そして、ロブの、釣りしてたらシャロンと出会えたというような話、手作りのポテトサラダの味、人生の指針のような逸話、そんなことが思い出されて、もしかしたら自分が今まだ生きらえているのは、あの記憶のおかげなのかもしれない。

おそらく、こんな昔ばなしの文章を記憶を掘り起こして書くことで、自分のバランスをとろうとしている今現在も、僕がどこか心の奥深くに抱えてしまっているある種の発達の障害をバランスさせようとしているのかもしれない。

ロシアン・リバーの川下りの想い出のおかげで、今でも、生きながらえている。

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