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『平気でうそをつく人たち:虚偽と邪悪の心理学』を読んで。

『平気でうそをつく人たち:虚偽と邪悪の心理学』(M・スコット・ペック, 森 英明 著)を読了。

アメリカの精神医科医師スコット・ペックが1983年に書いた本だ。

2020年で41歳を迎える、僕はこれまで、いろんな人を見て来た。その中で「この人は邪悪だな・・」と思う人が沢山いて、そういう人に限って、集団の中では、かなり力を持っている人間だったり、カリスマ性のある人間だったりした。

そういう経験を、裏付ける書として、本書は有効だった。
少しネタバレにもなるが、引用を含みつつ、自身の経験を語ってみたい。


①邪悪性=他人をスケープゴートにする人間

スケープゴートとは、生贄だ。本来、力のある立場の人間(親、先輩、司祭、宗教団体の幹部)であるなら、自身が矢面に立ち、弱いモノを守るべきだろう。しかし邪悪な人間はそれをしない。

邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、と定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い相手である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。犠牲となる相手にたいしてなんらかの支配力を持っていなければならない。

のような一文があり、まさに、後輩が成長しようと頑張っている最中に、裏で思い切り足を引っ張る先輩。自分が追い越される事が我慢がならない幼稚な人間。これらは邪悪な人間だと感じる。

②邪悪性=我が子を生贄にする毒親

先輩なら、まだ見切りをつけたり、別の職場や環境に行けばよいが、親となるとやっかいだ。

親の務めをうまく果たすには、親が自分の孤独に耐え、最終的には子供が自分から離れていくことを許し、それを励ましてやることすら絶対的に必要なことである。その反対に、こうした分離を妨害するということは、親としての務めに背くことになるばかりでなく、親自身の未成熟な自己中心的欲求のために子供の成長を犠牲にすることになる。これは破壊的なことである。というより、彼の考えでは、これは邪悪なことである。

子離れできない親。
支配欲が常に子を蹂躙している親。
子を人間扱いしていない親。

あなたの周りにも沢山いるんじゃないだろうか?

③邪悪性=政治力のある人間

政治家が邪悪なんていうのは、今更使い古された言い回しだが、政治家が邪悪なのではなく、邪悪な人間が、政治家(権力者)に憧れるという一面があるだろう。

私は、邪悪な人たちのほうが普通の人よりも政治的な力を得る可能性が高いのではないかと疑っている。その横暴ぶりがあまりにも常軌を逸しているために──また、つねに力にたいする渇望を伴ったものであるために、彼らにはそのチャンスが多く訪れるのではなかろうか。しかし、それと同時に、彼らの極端な専横さは、それを抑えるものがないために、政治的転落へと彼らを導きがちとなる。

との一文から、力に対する渇望が、ものすごいのだと思う。
それは、本来非力な自分へのコンプレックスの裏返しとなり、小さな自我を見つめる事や、それを乗り越える労苦を避けて、集団の中で権力を持ちたがる人間は、やはり沢山いる。そういう人間が、上司や先輩や親の場合は本当につらい。

④邪悪性=専門性を宿した集団

会社組織や、何か大きな組織にいるときに、自身の良心よりも、集団の方向性に身をゆだねて、真実を押し殺すことは、日本人なら誰しも経験しているはずだ。

集団のなかの個人の役割が専門化しているときには、つねに、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。そうしたかたちで個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態となる。いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団──組織──全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道はない。われわれはまだ、そうした段階に到達する道を歩みはじめてすらいない。

第二次世界大戦時の日本が、玉砕の名のもとに、大量虐殺を繰り返していたのに対し、退役軍人がその後のインタビューで、穏やかな好々爺になっている姿を見ると、本当に集団・組織というのは怖いと感じる。
その中で、本当に自身の良心を見失わない勇気を持つべきである。

⑤邪悪性=集団内の個人の退行依存

隊長はグループ内で選ばれるわけでなく、上層部から指名され、意識的に権威の象徴を身にまとうものである。服従が軍の規律の第一のものとされている。隊長にたいする兵隊の依存は、単に奨励されるというだけでなく、絶対的命令となっている。軍隊というものは、その使命の性格からして、集団内の個人の自然発生的退行依存を意図的に助長し、おそらくは現実にこれを育てているものと思われる。

これは④とも通じる内容だが、あらゆる大集団においては、隊長や、リーダー、指揮官の命令が絶対であるため、個人の自己判断など全く許さない傾向性を持っている。自衛隊、軍隊、宗教団体、大企業、エンジニア集団、学校の集団いじめも、ある種の暴力性を身にまとった権威者が振りかざした金科玉条に、物事の良し悪しもなく、従ってしまうのではないだろうか。

⑥邪悪性=科学者

これは、知識や博学な人間に、自身の良心の領域を明け渡してはならないという事だと思う。

"われわれ一般大衆は、自分の身の安全のためにも、科学者や科学者の断定することに疑念をいだくべきであり、また、そうすべき責任を負っている。別の言い方をするならば、われわれは、けっして、自分自身の個人的リーダーシップを放棄してはならないのである。これは厳しい要求かもしれないが、すくなくとも善悪の問題について自分自身の判断を下しうる程度には、だれもが科学者となるべく努めるべきである。善悪の問題は、科学的考察の対象から除外するにはあまりにも重要な問題であるが、これを全面的に科学者の手にゆだねるには、やはり、あまりにも大きな問題である"

不動産屋に相談するかのように、自身の方向性や、良心的な内容をだれかに相談し、その人間の意志で動いてしまう人が多すぎる。
科学者や政治家、占い師、中途半端なカリスマタレント、インフルエンサーの言う事など、自分の人生には全く関係がないのだ。
自分にとっての善悪は自分で決めろという事だろう。


最後に、自身の中の邪悪性を叩き出すためには?

以下のような結びの一節があり、言いえて妙と感じた。

"ものの考え方を変えることには相当の努力と苦しみが伴う。これにはまず、自己不信と自己批判の姿勢を絶えず維持しつづけることが必要であり、あるいは、自分がこれまで正しいと信じてきたことが結局は正しくなかった、という苦痛を伴った認識を持つことを要求される。そのあとには混乱が生じる。これは実に不快な混乱である。もはや、正しいことと間違ったことの判断、いずれの方向に進むべきかの判断が自分にはつかないように思われる。しかし、そうした状態こそ、偏見のない開かれた心の状態であり、したがって、学習と成長のときである。混乱と困惑の流砂のなかからこそ、新たな、より優れたものの見方へと飛躍することができるのである。

ポイントは4点

・自己不信と自己批判の姿勢を絶えず維持しつづける
・自分が正しいと信じてきたことが結局は正しくなかったという認識を持つ
・開かれた心の状態を保つ
・混乱と困惑の流砂のなかからこそ、より優れたものの見方へと飛躍することができる

上記は、常に自己批判をしながら進むので、巷で話題の自己肯定感とは真逆の在り方だ。
しかし、そのくらいの精神性がなければ、あっという間に邪悪性の海に溺れてしまうという事でもある。

そして、本当に邪悪な人間というのは、
この本を読んだり、このnoteを読んでも、他人事だと、へらへら笑っている貴方かもしれない。

そして、これを書いている、僕自身の中にも、邪悪性があるのだと思う。

2020年8月20日 ルル・バル