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憧れ


 デジタル時計の最後の一桁の上の部分が点滅している。そのせいで4か9か分からなくなってくるし、そもそも3分くらいは進んでいるように思える。最近読んだエッセイ集は、一度に読むとぜんぶ忘れてしまう気がして、ひとつづつ日を置いて読んだ。質より量が重要であることは大抵重要じゃないのに、完璧より7割の仕事がそこそこのスピードでできる人が重宝される。
 そうゆうことを永遠と考えていたら、また一日が終わってしまった。何もしていないのに、もう寝ないと、なんて思っている。このころの僕は、高円寺から徒歩20分の、友達を呼ぶには少し不便な立地のワンルームで、毎日死んだように生きていた。

 新卒で入った会社は全く興味のない仕事だったけれど、内定をもらえたのがそこだけだった。ただその内定も、辞退者が出たことによる繰上げ合格のようなものだったらしく、入社して3ヶ月ほど経った頃の飲み会で、上司の相手に疲れた僕の上司が、鬱憤を晴らすように僕の無能さを語っていた。特に会社に不満があったわけでもないし、何かを期待していた訳でもないけれど、なんだか腑に落ちた気がした。自分の居場所はここではないということだけが、全身の血管を通って、沁みた。気付いていたのに知らなかったみたいだった。
 そこからは、とにかく早く行動に移さないとという焦りが、キャラに似合わない力を発揮させ、飲み会の幹事をしていた総務課の先輩を捕まえて、会社を辞めるにはどうしたらいいかと熱心に聞き、本気で心配された。
 2週間後、無事に正規の手続きを踏み、退職した。寂しくはなかった。ただやることも無かった。学生の時はやりたいことはいくらでもあったけれど、それは時間があったからで、卒業してたった3ヶ月で、僕はすっかり社会人になってしまったようだった。


 そんな僕を見かねて、大学時代の先輩の会社が運営している吉祥寺のビアガーデンで、夏の間バイトをさせてもらうことになった。吉祥寺という街は、本当になんでもあった。服も雑貨も家電も飯も、どんな小さい出版社から出ている本でも、2、3軒探せば見つかった。街全体がモノで溢れているような、個性的なイオンみたいだった。
 バイト初日は38度の猛暑日だった。家から出るのも躊躇われるはずなのに、わざわざ外で飲もうなんて若いな、と思っていたら、意外と社会人も多かった。任されたのはドリンクコーナーの中で、基本的にはセルフなので、返却口に返されたグラスを引き上げる、という単純な仕事だった。会社終わりであろう団体を遠目に、この暑さで会社の嫌な上司とかいたらキレるな、と思った。
 中央の簡易ステージでは、普段地下で活動するアイドルが、暑さを感じさせない笑顔で5曲ほど披露していた。あの白い体には、僕よりもよほど体力が備わっているように見えた。1番ステージに近い席では、何も食べず、水だけをテーブルの中央に置いて、アイドルと同じ振り付けを手だけこなす男がいた。やけに指先まで伸ばしたその手の動きが、暑さと中和して愛しく思えた。

 8月に入り、世間はお盆休み前の気怠い空気を纏っていた。その日、バイトの総括をしている女性社員の指名で、明日から夏休み限定で入ってくる学生バイトの女の子の面倒を見ることになった。なぜ僕なのか聞くと、バイトの中で1番まともだから、と返ってきたが、そのあまりに適当な返しに少しだけ好感が持てた。それでも、相変わらずグラスを下げる仕事しかしていない僕が、一体何を教えればいいのか、程よく忙しそうにして面倒な客に捕まらない方法とかだろうか、と明日が少しだけ憂鬱になった。

 翌日、いつもより少し早めに出勤すると、すでに彼女はいた。初対面で、初対面であることが分かるくらいに、彼女は他のバイトとも社員とも、なんなら僕が今まで出会ってきたような人間とは何かが違っていた。みんなとお揃いのTシャツを着た彼女は、アイドルが立つステージのど真ん中で寝そべっていた。声を掛けようかと思ったが、何か大事な儀式の最中だったら申し訳ないと思い、数メートル離れたところで彼女が動くのを待つという、第三者から何か勘違いされそうな状況が、5分ほど続いた。そろそろ生きているか心配になった頃、彼女はおもむろに両手を空にかざし、手のひらを握ったり、広げたりし始めた。思ったより長い腕は、その背の高さを想像させた。
 急に起き上がり、ここに僕がいることが当たり前かのように、彼女はこっちを見て言った。どこからか飛行機の音がしていた気がするが、その声は鮮明に聞こえた。

「1人の時間って、1人にもなれるし1人じゃなくなることもできて、いいですよね」

 状況と文脈が噛み合わず全く分からなかったが、その佇まいも掛かる影も、声も言葉も何もかも、羨ましくなった_________続

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