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わたしの中の「これ」というもの

15歳の時に、伯父に「るーちゃんの中で『これ』っていうものがあるとしたら、なんや?」と聞かれた。
そんなこと考えたことはなかったけれど、わたしは間髪入れず「書くこと」と答えた。
こういうことは反射で答えたことがすべてだと思う。そのときわたしは初めて「そうだったのか」と気づいて納得した。
伯父にわたしが何か書いていることは勿論教えていなかったので(一年に一度会うかどうかの人だったので、いったい何故そんな質問をしてきたのかも今となってはわからない)、わたしの返答を聞いた時は少し驚いたようだったがすぐに笑った。
「ほうか。ほんなら、本をようけ(沢山)読まなあかんな。なにかを書く人は、それはそれはようけ読んどる」
なるほど、と思った。

小説らしきものを書き始めたのは少し遡って中1の頃。理由は後の席に座っていた子がすごく絵がうまかったので、「じゃあわたしが文を書くから絵を描いてよ」という話になったというありがちな出会いだった。その友人とは今でもべったり仲良しというより、互いの作品を間にした付かず離れずの友人だ。わたしも彼女も、たぶんこのままの仲が一生続くんだろうと確信している。

伯父に言われずとも本は好きだったのでよく読んでいた。
好きな作家の一人が星新一先生。言わずと知れたショート・ショートの大家。
その星先生がエッセイの中で文章について「あなたはいかに暇だからといって判決文のような小難しい文章を読む気になれますか?」というようなことをおっしゃっていた(引用が正確でなくて申し訳ない)。
書き始めた頃から現在に至るまでのわたしの癖は、小説でもなんでも自分が書いたものを、翌朝着替えをしながら読み返すこと。これで何度遅刻したかわからない。
自分が書いたものを読み返すのは楽しいと思っていたのだが、おそらく逆だった。星先生の言葉が常に心のどこかにあり、わたしの文章は知らないうちに「自分が読んで楽しいと思う」方に変化していったのだ。
結果、いつの頃からか人に文章を読んでもらうとまず言われる感想が「読みやすい」になった。ありがたい(内容は?)。
エッセイを読むのが好きだから、わたしが書くものはだいたい旅行記とかなにかのレポが多い。毎週書いてるリトルハンズ感想もそれに当てはまると思う。
小説はだいたい何を書いても一万字前後になる。それ以上になるときは前後編あるいはナンバリングする。一万字あたりが、わたしが一気に読んで苦にならない程度だからだと思う。
どちらにしても会話を書くのが好き。会話だけえんえん書いていたい。

プロになろうと思ったことがないとは言わない。しかしそれはできなかった。それだけの根性がなかったこともあるけど、それ以上に「書くこと」はわたしにとっての日常だ。好きなことを好きなように、好きなだけ書いていたい。そして翌朝着替えをしながら読み返したい。
人に読んでもらいたい欲はあるし、面白いと言ってもらえればそれは勿論恋に落ちてしまうくらい嬉しい。
ただし、わたしが書いたものの一番の読者はやっぱりわたしで、わたしの中にある「これ」というものは15歳の時から変わっていないのだ。たぶん、これからもずっと。

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