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屈折

 「私、あなたと不幸になりたい。幸せになんてならなくていい。貴方と一緒にいることができればそれだけでいいのよ。」
 雨の中で抱き合いながら、彼の鼓膜だけを震わせる声で言った。彼がうなずいたのを肩に感じた。夕方の肌寒い潮風の中であたたかいのは私たちだけだった。
 私は彼と抱き合って、身体をぴったりくっつけて首筋に顔を埋めるのが好き。セックスよりもこういう身体の触れ合いに喜びを感じる。ジグソーパズルの曲線がぴったりとはまるように、私たちは元々合わさるために生まれてきたんじゃないかといつも思ってしまう。

 僕はここまで入力してパソコンを閉じた。ブラインドタッチもできない人間には原稿用紙四枚ほどの文字を入力することさえ一苦労だ。一年ぐらいは定期的に行っている作業なので多少は早くなったが、未だに両手の指はほぼ2本しか使えない。僕は惚れた弱みにつけ込まれてこんなことしている。
 その女性は僕の中学時代の同級生だった。彼女は僕にだけ自分の世界を見せてくれた。
 彼女は端正な女性だった。それは見た目だけでなく内面もだった。勉強もスポーツも平均以上にこなしていた。男女問わず慕う友人も多かっただろう。
 彼女の小説は普段の彼女からは想像がつかないくらいぐちゃぐちゃだった。文章がぐちゃぐちゃなのではない。清く正しい彼女のイメージとは真逆の世界だった。破滅の一途を辿る男女の物語だった。未曾有の大災害に巻き込まれて生き残った最後の二人のような、不運にもエレベーターに閉じ込められてしまった二人のような、トロッコに乗ったダニエルとメロディのような二人だった。とにかくどうしようもない、救われない二人しかいない世界だった。
 そして僕は十年経って彼女の小説をまた読んでいる。読んでいるだけではなく書いている。
 半年前に彼女に再会した。
 彼女と再開したあの日は、喫茶店にいた。全席喫煙の店全体の空気が煙で霞んでいた。それぞれのテーブルから吐き出された煙が大きなひとつの塊になって天井に留まっている。僕は仕事を探すつもりで転職サイトを見ているふりをしつつ何もしないでいた。その店で彼女とばったり出会い、話をすることになった。彼女は一年前に結婚していた。

 お互いに他愛も無い近況報告のあと僕らは寝た。どちらともなく近くのホテルに入ることになった。予定がない僕はともかく、彼女は家に帰らなくてもいいのだろうかと思ったが、僕の心配することではないので黙っていた。
「私、また小説を書きたいと思っているの。でも今の私にはあのときみたいに読んでもらう人がいないの。読んでもらう人がいなければ書くことができないの。」
 こんな自分勝手なことを言う人だったんだなと初めて知った。僕は彼女のことをほとんど知らないのだ。
「今の時代SNSにのせたり、不特定多数の人間に読んでもらう方法はあるんじゃないかな。」
 ひとまず当たり前のことを言ってみた。
「それはできないの。私が小説を書いていることも、ましてやそれを発表していることが家族に気づかれるわけにはいかないの。だから、あなたにお願いがあるの。」
 嫌な予感がする。
「お願い?」
「私の代わりに小説を書いてほしいの。」
 なんと。
「代わりに?間違えた解釈のゴーストライターみたいだね。なんで僕なのかな。」
 なんとなく予想はできていた、彼女が話し始めたときから。
「中学の頃私の小説を読んでくれていたでしょ。私の小説を読んでくれる人にじゃないと頼めないの。卒業以来読んでくれる人もいなかったし、読んでほしいと思える人もいなかった。だから、今日あなたと久しぶりに再開できたのは運命かと思った。ここ数日、偶然あなたに会えないかとずっと考えていたの。」
 彼女はおそらく今日一日で都合のいい相手を探していたのだろう。そんなときに昔小説を読ませていた相手に遭遇した彼女はラッキーだ。そのために僕と寝たのかと思うと納得してしまう。
「僕は何をすればいいの?」
 都合のいい人間というのは大抵女なのかと思っていた。
「私の小説を私の代わりに書いてくれればいいの。もし本が売れればそのお金は全部あなたにあげるわ。私がどこから分からないお金を持っているわけにはいかないし。できればあなた自身が小説を書いていることを周りに気付かれないようにしてくれると安心だけど」
 売れる前提なのか。前払いがセックス一回とはだいぶ安く見積もられたものだな。
「僕が代筆している事がバレたら、当然誰が書いているか調べられるだろうからね」
「そう。」
「まあ僕には友達もろくにいないし、そんな心配はいらない気もするけど、用心するに越したことはないね。」
 僕は好きな相手につい自虐的なことを言ってしまう。悪い癖だ。
「どう?引き受けてくれる?無理強いするつもりはないけど。」
 僕が引き受けなかったら、彼女はまた他の男と寝て交渉するのだろうか。性交渉ってこういうことなのか。
「いいよ。仕事も辞めたところで、少しのんびりしようと思っていたところなんだ。文章を代わりに書くことだけで生活できるならむしろありがたいよ。」
「ありがとう。あなたを信じて打ち明けてよかった、本当に。」
 裸の美人が抱きつきながらうれしそうにしていたら、そりゃ僕もうれしくなる。当たり前だ。見た目が全てなのだ。
 それからどのように原稿のやりとりをするかなどの取り決めをして、僕らは別れた。
 彼女からの原稿は一、二周間に一度親戚へ出した手紙という体で僕の家に届く。それを決められた締め切りまでにパソコンで打ち込み編集者に送る。覆面作家として活動しているので、編集者ともメールでしかやり取りをしない。彼らはくだらない女が、くだらない男に小説を書かせていることなんて知らないのだ。困ることがあるかどうかは僕の知ったことではないが、なんだか気の毒な人たちだ。
 僕は彼女の小説がまた読めることがうれしい。自分だけに特別なことをしてくれているんじゃないかと勘違いさせてくれていることに感謝する。小説の二人のように、二人だけの世界へ連れ出してくれるのを望んでいるのではないか、それを僕にやらせようと考えているんじゃないかと。そんなことを考えるといつか彼女が描くような恋愛が彼女とできるのではないかと淡い期待をしてしまう。僕は彼女のことが好きなのだと思う。あの頃より。才色兼備で性格もいい彼女に憧れていた中学生の頃の僕に今の彼女の魅力が理解できるだろうか。彼女は汚い女になっていた。
 中学生の頃、清く正しかった彼女。周囲から求められる正しさに窮屈さを感じて小説を書いているのだと僕は思っていた。自分の正しいと言うことに正直になりたい、なりふり構わずに生きてみたいという願いを彼女の小説の中に感じた。しかし、その頃の僕には何もできなかった。見て見ぬ振りをした。世の中にはどうしようもないことがあるのだ。大地震が起きたり、大雨が降ったり、山火事が起きたり。
 もしかすると彼女はその時の僕のことを恨んでいるのかもしれない。あの時私を助けなかったからあなたの憧れだった私は歪んでしまったんだと。そんなの僕の被害妄想でしかない。でも、彼女は悪くないのだ。彼女はいつも正しい。
 彼女は僕のことを好きなわけがない。彼女は僕の淡い恋心を知りながら僕のことを利用しているに違いない。それにそもそも、自分で自分の小説を発表することすらできない、いつまで続くかわからない世間的な幸せにすがってしまうような人間に、燃えるような破滅的な恋ができるわけがない。もちろん僕も現状を打開してやろうなんて気持ちはない。僕にはどうしようもないのだ。

 私たちのことは私たちで決める。他のどんな人間にも邪魔なんてできない。どんなに笑われても、誰かがそんなの間違っていると止めようとしても、私は絶対に彼を信じている。私は私の信じたいものを信じたい。私が赤と思えば赤なのだ。目に映るものが本当はどんな色かなんてことは実際誰にも分からない。間違っているかどうかは私たちで決める。みんなどうしてそんなに周りの知らない人間の言葉を信じるのか分からない。信じるものをなぜ貫けないの。あなたに口出ししてくる人間は本当にあなたのことを知っているの?私はわたしのことをよく知っていて、よく考えてくれて、叱ってくれて、喜んでくれて、はしゃいでくれる人を信じたい。こんなことを言う私はこの世界では生きていけないの?信じたいものを信じたら死ななくちゃいけないの?

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