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アメイジング・グレイス考察《芸術観について》

『アメイジング・グレイス-What color is your attribute?-』は2018年にきゃべつそふとから発売された美少女ゲームである。

2018年の日本(北海道)が舞台の本作は、最初は単にイラストが可愛くてシナリオも面白いな~と思っただけだった。だが後に『グランドツアー計画者の三人、コトハ・リンカ・ギドウの三人、この町の芸術作品を購入していた好事家』という人達目線からこの作品を見てみると、とても興味深く、かつ、底知れぬ危うさを秘めているゲームだなと思った。なので書いてみることにする。

本考察のテーマは主に三つ

・グランドツアー計画者三人の芸術観
・コトハ・リンカ・ギドウの芸術観
・この町の芸術作品を購入していた好事家達の芸術観

それとおまけの二つを加えた五つを、順を追って見ていく。


グランドツアー計画者三人の芸術観


アメグレ終盤…

シュウとユネはシスター・リリィによってこの町についての構造を知ることとなる。グランツアー計画、現代アート、ルネサンス期への回帰、町の運営…といったことである。

最初にリリィが二人に教えたのは、グランドツアー計画の概要である。

【シスター・リリィ】
『グランドツアー計画とは、ひと言で述べれば“古典芸術を生み出すプロジェクト“です』

この計画はイタリア、ドイツ、日本の代表者が一人ずつ発起人となり立案されたプロジェクトである。また、この計画は古典芸術の中でもルネサンス期への回帰を理想としており、実際この町はフィレンツェを模して造られている。それは、マルセル・デュシャン作『泉』から始まった現代アートの潮流…レディ・メイドに代表されるように何でも芸術作品と呼べてしまう時代に反し、純粋な美を追い求める思想を持っている事が窺える。

【芸術作品のパラドックス】

突然だがここで、本作品と密接に関わるであろうパラドックス(もどき)を紹介する。概要は以下の通り。

『ある批評会において、著名な画家Aと無名の画家Bが偶然にも全く同じ絵を描いてしまったとする。批評家たちは、どちらがA、どちらがBの作品かを知らず、作品そのものだけで評価を行う。このとき、二つの作品は等しく評価されるはずである。しかし、作者が判明すると状況は一変する。世界的に有名な画家Aの作品には高い価値が与えられ、無名の画家Bの作品はその評価が下がってしまう。』

このパラドックスは、純粋な美だけでなく作者の思想や実績も作品の評価に繋がるという前提で考えられている…のだが、私は本作のグランドツアー計画者の三人は、『二人が同じ絵を描いたのなら等しく評価されるべきである』という立場を取るのではないのかと考える(なので、パラドックスもどき)。

【シスター・リリィ】
『先ほど、私が椅子に名づけて作品と呼んだのもそう。現代は何もが芸術作品になりうる時代。そして…だから、この町にそんな作品はないのです。美術回廊のどこを探しても。グランドツアー計画の立案者である3人は、そんな“美しくない芸術“が許せなかったのですよ』

何が美しくて何が美しくない芸術なのかという問いは超絶長くなるので放置するとして、何故デュシャンの『泉』が美術史に残る程の価値を有したかについて考えるのは無意味なことではない。

それは本作での言葉を使えば、『芸術とは、美しいものとは限らない…《泉》は世界全てに芸術を吐き出したパンドラの箱である』という評価が物語っている。美について誰も疑わなかった事を疑ったからこそ価値があるという事である。

しかし、それ以降の芸術は現代アートの名の下、作者が芸術だと言えば何でもかんでも芸術になる時代…それは古来の厳しい鍛錬の上に成り立つものが芸術であるという価値観を有している人にはまさに“終末”とも呼べる事態である。だからこそ、立案者の三人は『古来の芸術と非芸術(現代アート等)の境界を再度整えたい』という思いからこの計画をスタートする。そこで見られるのは、ルネサンス期の回帰という純粋な美だけを追い求める姿勢であり、作者の思想や人生観が芸術作品の大部分を占めるという現代アート的思想は排除される。

かくして、私はグランドツアー計画者の三人は、そのような思想を徹底させるために『二人が同じ絵を描いたのなら等しく評価されるべきである』という立場を取るのではないのかと考える。もう少しだけ詳しく見ていく。

自分達の思想を実現させるためには、まずは環境を整えなければならない。外の世界から隔離された世界が必須条件だからである。そのようにして造られた閉鎖的な世界ではルネサンス期のフィレンツェをモチーフとした町作りを行い、文字や数字という概念は芸術を創る上で排除された。そこに住む生徒は、物心が付く前に芸術素養のテストを受けさせて一定以上の水準であれば合格とする。こうすれば、この世界が唯一の世界だと信じ込ませる事が容易であるから…

…このような背景を踏まえるとこのプロジェクトのスタンスは、とにかくルネサンス期の純粋な美を追い求める芸術作品を創りさえすれば良く、作者の思想と言った作品の背景などどうでも良かったのである。
…いや、寧ろリンカの処遇を見ていると、作者の思想など邪魔であると言った方が正しいのかもしれない。彼女は、この閉鎖的世界でデュジャン《泉》のような作品を生み出したからである。当然、このような行為は他の生徒達にも悪影響を及ぼす(ギドウがその例)。そんな芸術家が“指導”によっても改善しないのであれば、この世界から追放せねばならない。

もしもの話を一つ。仮に、優れた芸術作品を産み出すコトハとギドウ(アポカリプス計画に陥る前)が奇跡的にも同じ芸術作品を描いたのだとしたら…プロジェクト側の人間(教師)は二人とも同等の評価を下すのではないかと考える。何故か。この世界は全て人為的に造られたものであり、作者の思想や意思も全てプロジェクト側の人間によって統制されているからである(つまり、作品に内在する美だけが絶対であるから)。

以上を踏まえた上で、2024年に生きる私はグランドツアー計画者の3人にこう問いたい。


ルネサンス期の回帰をテーマにした純粋な美への探求という計画に、果たして芸術家は必要ですか?


コトハ・リンカ・ギドウの芸術観


三人の芸術観を簡潔に紹介すると以下の通りである。

コトハ
 模倣する芸術
リンカ
 前衛的な芸術
ギドウ
 リンカの芸術観に嫉妬し新たな芸術を求める

コトハの芸術観は、言わばプロジェクト側の思惑通りの模範的生徒だと言えよう。神が作りたもうたこの世界を愛する。勿論この世界について疑問を持つことなどなく、ルネサンス期の芸術観だけを良しとして高い美を持って産み出す…これ以上の生徒はそう現れない。リンカの芸術に対しても「私にはよく分からない」として処理していたのも評価が高い(批判覚悟で述べるが、今の私にはコトハの芸術観は模倣という意味でAIが作る芸術と本質的には同じのような気がしてならない…AIコトハ?)。

リンカの芸術観は、プロジェクト側の思惑に反して前衛的である。作品に内在する美より、その作品で何を伝えたいのかを重要視していたと言える。だからこそ、この世界の重大なタブーである『外なる世界があるのではないか』と疑えたのである。

ギドウの芸術観は、リンカに対する嫉妬によって成り立つ。彼の芸術の素養はコトハと同様に高い評価を受けているが、本作では彼女と対比するためにリンカのような前衛的な芸術作品に興味惹かれる。リンカによって新しい価値を生み出すという芸術家の本能的欲求に苛まれていたのだろう。だが新しい芸術はそう簡単に生まれることはなく、最終的には学長に示唆されて破壊の美学に傾倒してしまうことになる。

だが、それも所詮『クローザの失楽園』を模倣しており、新しい芸術とは言えないのが少し残念ではある。

(ちなみに、破壊すると言う意味では一見すると爆破が信条のキリエも同じような信念を持っていそうだが、彼女は『爆破シーン好きの監督』として犯人(ギドウ)を誘うために聖アレイア学院に入学して以降演技をしていた。恐るべき女とその監督(コトハ))

この町の芸術作品を購入していた好事家の芸術観


グランドツアー計画者の三代目となる聖アレイア学院があるこの町に産業はない。
では、教育費や生活費といった多額の費用を確保する方法は何か。

生徒達の成果物(芸術作品)を売ることで成り立っている。

【シスター・リリィ】
「町の存在は、一般には知られていませんが好事家たちの間では確かな話題となっています。買い手には今も困っていません。コトハさんやギドウさんのような優れた芸術家が生み出す作品こそ、この町が輩出する特産品というわけです」

ここで語られる好事家は、(リリィの言葉では)優れた芸術家の作品だから購入する。一方町の存在という側面は、あくまで『好事家たちから優れた芸術作品を輩出する町だと話題になっている』程度の認識であり、それが芸術作品の評価に関わっているとは恐らく思っていないようである。

しかし、その後のシュウが考えたのは、町の存在も芸術作品の評価に関わってくるのではないかという点である。私も、以下の考えに同調したい。

 確かに、先輩たちの作品なんかは芸術に疎い俺でもレベルが違うとわかるほどの逸品。その上にこの町なんていう、存在も不確かな――言ってしまえば怪しげな場所から出品されていたといのも、見ようによっては付加価値となるはずだ

この町は、世間一般には知られていないクローズドな町である。故に日本におけるグランドツアーの責任者である渡良瀬紀昌の孫にあたる惣一学長は、アポカリプスと称した破壊行為をギドウに示唆しても、罪に問われることはない。ギドウやこの町が共に焼失した後では警察の捜査にも限界がある

この時、この町の性質上、外の世界に住む好事家達は芸術作品や作者の生い立ちを“正しく”知ることはできない。というのも、この町に住む芸術家は《外の世界は滅びた》と教えられているため当然自発的に外の世界のメディアの前に現れる事はない。またこの町の構造上、外の世界に住む好事家達が実際にこの町を訪れることはできない。となるとこの町のいかなる情報も、自身の行動を主因として得られた一次情報ではなく、他者(ここではグランドツアー計画の関係者)を通して得られた二次情報という事になる。故に正しく知ることはできない。

これに対して、「その町の映像こそが証拠と呼べる。ルネサンス期を彷彿とさせる町並み!芸術の都と呼ぶに相応しい!」という反論は安直であると言わざるを得ない。その映像はCGではなく真だったとしても、それは舞台演出用の構造物かもしれない。また、内部に住んでいる人間は、例えば劇団員を雇って演じさせているだけかもしれない。つまりその芸術作品や芸術家の生い立ちが全くの作り話ではないと好事家が断定することは難しい。

それにも関わらず、何やら怪しげな場所で創られ展示会で評価されただけの作品をこの好事家達は盲目的に評価し購入する。ここに私は底知れぬ危うさが潜んでいると思った。

その危うさとは何か――何やら怪しげな場所で創られ評価されたそれは、実はPCや3Dプリンタによって精巧に創られたものにすぎないのではないか…という点である。また、この町の性質上、それを否定できないという事実が、より一層の恐怖を感じさせる

つまりはこういうことだ。この町の人間・芸術作品・建物、何もかも全部嘘!全てはCGであり、人間も適当な役者(または生成AI)を雇う。芸術作品はAIに『ルネサンス期の芸術作品』だけを徹底的に学習させ、精巧な芸術作品を産み出している…ということを好事家達は否定する事ができないのである。

AI芸術は、著作権や倫理の観点から高評価を得るのは現実的に困難である。だが、もし『AIが創った作品として』ではなく『怪しげな場所で創られた作品』として世に出たとしたら…そしてそれこそが見ようによっては付加価値をもたらすとしたら…?

過去の私はちっとも気に留めなかったのだが、今の私には、何とも恐ろしいとしか言いようがない。なにせ、このように、他者からの間接的な情報でしかない物語を“事実”として盲信してしまいそうだからである…全てAIが創ったのだとしても。

(想像)渡良瀬惣一学長の信念『極論、芸術家は不要!』


ここで、前半部分の最後にグランドツアー計画者の3人に対する問いを再掲しておく。

ルネサンス期の回帰をテーマにした純粋な美への探求という計画に、果たして芸術家は必要ですか?

これに対する答えは勿論本作には無い。なので、私の想像力を働かせてみる。「何を言っておる。芸術家がいないと芸術作品は生まれないじゃないか!」と言われるので、将来的なAI技術の発展をセットで伝える。

ある人(Aさんとする)は、それでも芸術家は必要だと訴えるだろう。
ルネサンス期の美と理想に深い敬意を抱き、その時代の技術や価値観こそが真の美の基盤であると信じているAさんは「芸術家は必要である」と答えるだろう。ただし、この計画者にとっての芸術家に求められる素養は創造性ではなく、ルネサンス期の美を「純粋に再現」する技術と訓練された技能を備えた芸術家こそが計画に必要だと考えているとこの立場になる。

またある人(Bさん)は、芸術家は必ずしも必要ではないと答えるかもしれない。
商業的視点を重視すると、AIや模倣技術の進化によってルネサンス期の美の再現が可能になるとすれば、費用対効果から必ずしも芸術家を育成する必要はないと考えるだろう。ゆえに彼は、もし技術的にルネサンス期の美を再現できるならば、「芸術家に頼らずに同じ結果が得られる方法を検討すべき」と答えるだろう(当時の情勢を考えると、芸術家ではなく電子機器の研究家に投資をするという立場を取るかもしれない)。

またある人(Cさん)は、そもそもの計画を断念すると答えるかもしれない。
これも商業的視点を重視すると、わざわざグランドツアー計画を立ち上げたところで利益にはならないと判断するとこのような立場を取らざるを得ないだろう。

以上、三つの考えが思い浮かんだが定かではない。何せ本作ではAIのAの字も出ないのだから。
だが、一人だけ推測出来そうな人物がいる。それは日本の代表者である渡良瀬紀昌の孫である渡良瀬惣一学長である。

学長の初期の思想は定かではないのだが、病魔に冒されて以降はハッキリしている。暴力性が増し治療費を捻出するためにお金に対する執着が異常になっている。

本作では、クローザの失楽園の芸術性と金銭的価値に目がくらみ、プロジェクトの理念を破壊する“破壊の美学”をギドウにふっかけるのだが、もしその時にAI技術があったのなら。
そのAIがルネサンス期の芸術作品をコトハやギドウレベルで模倣できたとしたら…そりゃあ食いつくでしょう。だって理念よりカネだから。

そもそも外の世界全員を騙す必要などなく、一部の好事家達さえ騙せれば良い。それに費用も格段に安く済む…芸術の価値より金儲けに目がくらむと、行き着く先は最早『芸術家は不要!』となってしまう。

グランドツアー計画の限界

このプロジェクトの計画は、ルネサンス期の回帰をテーマにした純粋な美への探求である。その計画では作者の思想や芸術観をプロジェクト側が厳格に統制しており、プロジェクト側の望む思想が作者の思想という事になる(リンカの例)。つまり作品の評価はただ純粋な美によって決まるはずだった。

 確かに、先輩たちの作品なんかは芸術に疎い俺でもレベルが違うとわかるほどの逸品。その上にこの町なんていう、存在も不確かな――言ってしまえば怪しげな場所から出品されていたといのも、見ようによっては付加価値となるはずだ。

だがこのプロジェクトは、その計画段階…すなわち閉鎖的な環境作りこそ、純粋な美“以外”にも価値を生み出してしまっていた点でその思惑は外れてしまう(しかも怪しげな場所というだけでの付加価値という…)。なんとも皮肉なことである。

また、この計画を遂行するには莫大な費用がかかるのだが、それに見合う収支はあったのだろうか。先に述べたように、町の利益は芸術作品の売却である。

【シスター・リリィ】
「(作品を)売ってはいました――ただ、それでもほとんどは運営費に消えていきます。財産は常に困窮していました。その上、渡良瀬氏は町の作品を多く世に出しすぎ、単純に希少価値が薄まっていたという背景もあります」

どんなに美を追究したところで、『財産が常に困窮していた』という時点で結局このプロジェクトは採算が取れないという事である(アートペディアの寄付依頼がうざい!ウィキの比じゃねぇ)。まあ、仮に延命したところで今度はAIによってプロジェクトの意義の再考は免れないだろうけど。

最後に、教訓を一つ。

芸術が主題のプロジェクトは、理想を追い求めるのと同じくらい事業計画もちゃんと考えよう!



考察の終わり


アメグレは、単に可愛い美少女キャラを愉しむだけではなく、見方を変えれば芸術の意義についての再考という点についても考えることができて興味深い(あと曲が良い!)。

ちなみに前半部分で紹介した『芸術作品のパラドックス』はパラドックス“もどき”である。厳密な意味でのパラドックスではないという意味もあるが、本作におけるプロジェクト計画の思想(純粋な美を追究する思想)こそ、このパラドックスの前提を揺るがす。故にもどきである。

だがこのような思想を貫くにせよ、現在の芸術は現代アートだけを問題にしていいという状況は過ぎ去ってしまった。AIが作品を産み出す時代になってしまったからである。そしてこの問題はこの思想においては現代アート以上に厄介な問題を引き起こす。AIは莫大な数を学習すること(模倣)によって芸術家に匹敵する純粋な美を生み出せるからである。

それでは著作権を侵害しているという名目で排除します?確かに、表面的には排除する事は可能でしょう。だが、隠れて制作するのを阻止する事までは(現実的ではない)非常に徹底した統制を敷かないと難しいでしょう。そして、やがてはAIの芸術と人間の芸術の区別が誰の目からも判断不可能になった時…どうなるんでしょうね。

現実問題には近い将来、AI制作である芸術作品を人間が創った作品と偽るために、アメグレのような虚偽の世界が現実に再現される可能性もありそうで、ア~オソロシ~エ口ゲダ。

ま、実際にはジャーナリストが黙ってないでしょうけどね(笑)。オシマイ

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