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人間ぎらい(日本にて)

彼はやっぱり人間が嫌いだ。
彼の人間嫌いは小さな頃から変わらない。
あまり人間との良い経験(関わり)がなかったから、その乏しい自分の経験によるバイアスのせいで人嫌いになっていると解説するものもあり、彼もいくらかそれはあっていると思っている。

ただ日本人?は人間(あるいは社交)に対して無邪気なところがあるのではないかと思ってしまうところがあるとのこと。

人間と関わることはやっぱり厄介だと彼は思う。それは、日本人同士であってもバックグラウンドがまったく違い、違う価値観を形成し、自分が思いもよらないものに関心を向けているかもしれない他人とつながるのはとても苦しく、厄介であり痛みを伴うこともあるだろうからだという。
彼はそのような構えや恐れを訴える主張が日本では少ないように思っている。自己開示もまた、したいけれどできないのではなく、痛みが伴うときもありしたくない場合も本当は多いのだとのこと。これも世であまり主張されていないことのように思っている。

また、他者と協力したいときはその痛みや厄介さを乗り越えてあえてつながりにいくということを彼は言いたいようだ。

彼は問いかける。
自我が強い、個性が強いのは人間嫌いに関係あるだろうか?
--多分あると思っている。彼の場合、自分はこれに当たると思っている。
これを表す実例を挙げると、公共の場でわがままなことをしている人と居合せると普通よりも強い怒りがわいてくることだ。(例えば、電車が駅に停車してドアが開くとき、ドアのサイドに立っている人が足をドアの半分あたりまで出したままにすることなど)
そして彼はわがままな人が居合わせた相手に対して無意識に要求するような、譲る行動は取らない。それはルールを守っていないのが気に食わないからではない。公共の場で人々が適正な態度に近づこうと少しずつ欲求を抑えようとしているところ、わがままな人は無思考にリラックスしているからだ。無防備な姿ともいえるという。

これも自我が希薄であることで、公共、他者の存在の脅威を考えないことからつながるのではないかと彼は考える。

他者はどんな人かわからないし、自分もきっと特殊なところがあるから公共の態度を重く見るのである。

彼としては、公共の場とは店員と客など市場の世界ほどシンプルではなく、ルール通り振る舞えば良いということでもなく、主体性をもって思考する必要がある場だという。

(公共は微妙にシステムの外にあるような気がする。それは"主体性(自由)を持った個人"の寄り集まりであることを前提とした場だからといえるだろう)

自己の特殊性(またはわがままなところなど)に注意せず、他者の厄介さや異質性を想像しないから結果わがままな行為が公共の場に表れやすくなると彼は考える。

彼は映画『シリアル・ママ』のメイキング映像だったかで監督のジョン・ウォーターズの言った言葉が何年も印象に残っている。
「ゴミの分別を守らないだけで、その人を殺したくなる人もいる」ということ。

彼は、この話は全体主義に走る個人の不安感にも似ていると感じた。とくに無思考ゆえの自己の不安感は楽に解決できる道に流れていくだろう。

こういう人間は公共の場で人々がどう振る舞おうと、どうでも良いと思うのだろうが、そのこだわり(配慮)のなさや希薄さによって気がついたら人々や社会が悪い状態に向かっていた、ということになるではないかと彼は危惧している。

一方、自我を持ちすぎると多分アメリカのネオコンと呼ばれる人々のようになるのだろうとも彼は思っている。

(自分の信じるイデオロギーを他者に押し付けること。それですべての他者を降伏させたいという欲求を出してくること)

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▼補足
ここで言っている「自我」とは、「なにかをなしたい欲求」をもつ主体のこと。また、それを追求する経過でできあがった自己意識ということに近い。


「自由であるということは、たえず精神を緊張させていることを意味します。」

福田恆存 『私の幸福論』p.50ちくま文庫より

「自由とは、なにかをなしたい欲求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられて」いる。

福田恆存 『私の幸福論』p.51 ちくま文庫より


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