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朝外にでたことから生まれた思想

舞う

朝、高山の街を歩くとかんじきを背負ったおじいさんが城山にいた

会社でかけつげという単語が出た時に話されたのは、もうわざわざかけつげなんてしなくても、そんな風にして残すほど、高価なものも買わなくなってきているし、逆に手間だよなというような話がされていた

[ちなみに私の会社では誰から始まった言葉からわからないが、「逆に」と「変な話しなんやけど」という言葉を頻繁に聞き、私もよく、なんの逆かはわからないが「逆に」という言葉をよく使ってしまう。いつか「変な話しなんやけど」という何が変なのかわからない、それさえつければ何か話しだした話しも何故かすんなりと聞き入れてしまうような効果があるその「変な話しなんやけど」という言葉をいつか使っているよな気がする。だだ聞く度使いたくないなと思う。もう使っている逆にに関して言えば、聞く度にいちいち「何の逆にや?」と立ち止まったり、自分の発言にもあきれたりするから。]

とこの話しのは全く関係のない話しだが、、、

こんなことをつらつらと思っていると、いつかの「話し変わるけど(HK)」と学生の頃友達との文通で、接続詞が上手く見いだせなかった頃の「話し変わるけど」を懐かしく思い出したりもした

とここまではかんじきを背負ったおじいさんとは全く関係ない話し。

かんじきを背負ったおじいさんをみたときにその時の話し(会社でのかけつげの話し)が思い出され、こういう景色が時代とともになくなること悲しく思い 

同時に自分の住む街でまだこういう人が街の中で確かに生きていること嬉しく思った

そのあと好きなパン屋でテイクアウトのカフェラテとパンを買った私は紙の容器を使い、捨てるということがそういう文化を壊す要因の1人となっているかもなと 一方では加担しているなと思いつつも、自分の生活の中で繰り返される度目をつむってきた

いつかの自分の何かしらの屋号を「むじゅん」にするといった自分の中の矛盾に対する思いは、あの頃と変わっていないなと安心すると同時に変わらない自分にあきれたりもした。

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