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映画レビュー『七人の侍』(1954)

「百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ。
畜生、おかしくって涙が出らあ。
だがな、こんなケダモノ作りやがったのは、一体誰だ?
おめえたちだよ侍だってんだよ。」

百姓が村に蓄えていた武器防具(殺した落武者から奪った)を前にして憤る侍達に対して菊千代(三船敏郎)が放った言葉。
菊千代は侍を気取っているが、百姓に生まれ孤児として育ったので弱者の辛さも弱者の恐ろしさもよく知っている中間的な存在。

黒澤明は弱者をただ可哀想な人間としては描かなかった。

勘兵衛(志村喬)が最後に言った
「今度もまた、負け戦だったな」
「勝ったのはあの百姓達だ、私達ではない」
というセリフも、侍が仲間の命を犠牲にしてまで必死に百姓の村を守っても妥当な報酬もないし、その後の平和を享受するのは百姓達だけ、という捻れを表している。

『七人の侍』の時代設定は1586年と言われている。

ニーチェが"奴隷道徳"(弱者が振りかざす卑屈で暴力的な武装手段としての道徳)という概念を記したのはそこから約300年後の1886年。

映画が公開されたのは1954年(終戦から9年後)。

そこから更に約70年が過ぎたけれど、
エリート主義とポピュリズムのような、
上も下も相互に歪んでいる様子は何ら変わっていない。

腐敗した権力や既得権益はさることながら、
無責任に文句だけを言い、匿名で誰かを傷つけ、社会的に過剰な私刑を与え、時には自作の武器などで実際に殺してしまい、それでも自分は弱者だ!と声高に叫ぶ人間の醜悪さ。

でもだからといって、
この映画における勇気や自己犠牲、尊厳などは、全て無駄で虚しいものに貶められているわけではない。それらの純粋な美しさも感じられる。

黒澤明の見た終戦後の日本から、
いやそのもっと以前から現在に至るまで、
人間の社会に必ず付き纏う普遍の複雑さが描かれているように思った。

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