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構造/実存/自由/MBTI/芸術/多様性/AI/ベルグソン/尾崎豊/ピアノの森①

居住環境、経済力、コマーシャル、法律、政策、教育、家庭事情、人間関係、文化的価値観や習慣、同調圧力、物理的刺激。

これら外部の力と接して反応する物質的な身体・脳としての人間には、客観的な自由はない。

自分があることを決定したと意識するよりも前に脳からは準備電位が生じていて、人の意志は物理によって規定されている。

1960年代に出現した構造主義や当時の科学実験によると、このような仮説が立つ。

人類学者レヴィ・ストロースが1962年『野生の思考』で提唱し、それまでの実存主義を打倒した(かのように見えた)構造主義は、
それまでの人の理性と自由意志によって進歩発展する歴史観※を打ち壊した。

※未開文明の民族たちも学べば賢くなり、いずれ真実を理解するだろう、現に私達は科学で進歩してきた、あいつらは今は分かっていないだけだ、だからグローバル化してあげよう、というような西洋中心主義的な進歩史観。
いま私たちがイスラム圏や北朝鮮のようなグローバル的に閉じた国に対して抱いているイメージの中にも少なからずこのような視点が含まれていると思う。

レヴィ・ストロースにより、先進国と途上国との間では人々の背後にある社会構造が異なるだけであり、途上国(とされる)の人々の知能や文化が西洋人より劣っている、といった認識は誤りだということが明らかにされた。

構造主義はそのような意味では、現代の多様性の価値観に一定寄与した。

だがその一方で、全てが構造や科学に規定されるという世界観の中では、人はその一要素・歯車に成り下がる。それはもはや人間不在の世界とも言える。

そのような世界では当然、あらゆる機械的な構造を紐解いていけば、いずれ全てを貫く普遍性を見出せるだろう、という発想に至ることとなる。

例えば、あるアーティストが悲しい曲を歌った時、構造主義はこの行為をこう説明する。

「彼がこのような類型の悲壮な表現に至ったのは、彼の脳の情報処理能力と、環境や出来事、社会や人間関係からくる抑圧、などといった要素が組み合わさった結果である」

これが真実なのであれば、それらのあらゆる要素をプロンプトとしてAIに突っ込めば、
同じようなアウトプットが再現できるということになる。


まさに、AIのそのような可能性は現在模索されているところだろう。

また、ユングの心理学的類型が元となった性格検査『MBTI』の初版が刊行されたのも『野生の思考』と同じ1962年だ。
これは心理を"構造"で理解しようとした試みだ。(自分の構造はINTJ-Tでした)

構造主義とは、世界-人間の全体像と真実を模索する試みであり、人間がその偏ったものの見方や盲信を是正しようとした努力と言える。

だがしかし、どこまでも主観的にしか世界を認識できない人間にとっては、
外部にある構造や科学にだけ依拠して世界を理解しようとすることもまた、偏ったものの見方であり盲信となるだろう。


1960年代の後半には、
このような構造主義を乗り越える思想が早くも登場した。大まかにポスト構造主義と呼ばれる潮流だ。

ポスト構造主義いわく、構造主義は決定論的過ぎる。
構造は固定的にあって簡単に捉えられるようなものではなく、変容し流動するものであり、そこに人間も影響をしている。
古来より信じられてきたような完全な主体性としての自由は存在しないが、そのような意味での自由は認められるだろう。

※1980年代、神経生理学者ベンジャミン・リベットは、意識に先立って脳内で生じる準備電位に関する1960年代の研究を踏襲しながら、
人には準備電位による行動を意識的にキャンセルする能力があるということを唱えた。
つまり現状、科学的にも自由意志の問題はまだ議論に留まっている。

かなりスケールダウンしたが、自由意志の可能性は残された。

人間不在の外部構造のみで世界を理解しようとすると、例えばMBTIでは説明しきれないような独自性を持つ自分の実態や、真の多様性は見失われてしまう。

構造と共に流動するものとして、人間の主体性・実存についても並行して再解釈する必要があるだろう、というのがポスト構造主義だ。

構造主義によって殺されたかのように見えた実存的な"人間"が、姿を変えてここでまた蘇ってきた。

この60年ほど前、初期実存主義の哲学者アンリ・ベルグソンは、人間の認識には真反対の二つの在り方があり、この二つのせめぎ合いが現実である、と主張していた。

①量的、外的、空間的、物理的、理性的、目的的、構造的、科学的

②質的、内的、時間的、精神的、感性的、自己目的的、実存的、芸術的

①が構造主義や科学が取り扱う領域、
②が実存主義や芸術が取り扱う領域だ。

彼は①を尊重しながら、それだけでは途端に見失われてしまう②の重要性を示していた。

②>①ということではなく、本来②としてあるものを①の認識方法で扱うとおかしくなるよ、ということだ。

例えば、
散歩はそこに目的を持ち込むと途端に散歩ではなくなってしまう(通学・通勤・アイデア探しになってしまう)こと、

一瞬で過ぎ去るはずの愛おしい人と共にいる時間は、この相手は自分の人生にどう役立つのかといったことを考え出したりしたら、たちまち長く感じられてしまうこと、

尾崎豊なら、悲しい歌(この後二人がどうなるか他人の物語により思考させられてしまう)で、
この今たった一つだけの愛が白けてしまうこと、

ピアノの森なら、雨宮が海の自由なピアノに嫉妬し、コンクール的な成果に執着し、音楽の楽しさを感じられなかったこと。

※①と②が分断されたり取り違えられることなく、せめぎ合いながら一体となっていること、
それは仏教で言えば梵我一如であり、禅問答の直観が目指すものであると自分は考えている。


ポスト構造主義の文脈で特筆したいのが、
このベルグソン思想の影響を強く受けながら、特異な思想を展開した哲学者ジル・ドゥルーズ※だ。

※1980年代に浅田彰によってドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』が日本で紹介され、その中の概念「パラノ」「スキゾ」は高度経済成長の終息により大きな不安を抱え、資本主義の価値観に辟易としていた当時の若者や知識人たちの間で流行語となった。
音楽でいうとポストパンク・ニューウェーブの時代。


続きも書いていたけれど、
疲れてまとまらなくなってきたのでまた後日、
できたら、更新しよう

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