【ホラー小説】ただちに影響はない
※長編小説です。約10万字。
プロローグ
インターネット某所の「退職したから好きなことを書くスレPART59」より
レス番号178
本日退職したので、ちょっと内部告発的なことを。
R市に10年ほど前に建った某小規模分譲マンションはマジでやばいよ。
一言で言えば手抜き工事なんだが、耐震基準を満たしてないどころじゃない。まともなところがひとつもないと言ってもいいくらい。
レス番号179
退職おめでとうございます。お疲れ様です。
R市って、X県のR市のこと?
勤務してたのはマンションデベロッパー?
それとも設計か建設会社?
レス番号180
>>179
そう。X県。当時は……、っていうか今でもなんだけど、県庁所在地のベッドタウンってことで分譲マンションがボコボコ建ってるけど、都市計画の規制緩和が追い付いてこないので、ワンフロア5戸とか6戸で、総戸数30未満の小型マンションばっかり建設されてるのよ。
元勤務先については、ノーコメントとさせてくれ。
レス番号181
>>180
偽装の内容を詳しく。
あと、地震が来たら一発OUTレベル?
レス番号182
>>181
178でも書いたけど、何を偽装してるかっていうよりも、偽装してないところがないってレベル。
基礎から杭打ち、鉄筋も建材卸に根回しして一回り細いものを使ってる。しかもコア抜きでコンクリにガンガン穴を開けてるから、話にならない。
インテリアにはこだわってるから、若い夫婦がだまされて即完売だったけどね。
地震が起こったらどうなるかについては、正直わからんとしか言いようがない。そもそも国の基準が適切なのかどうかって議論もあるし。ただ、そのマンションは耐震基準はぜんぜん満たしてないとだけしか。
レス番号183
>>182
X県R市、約10年前に建った小規模マンション。
これだけ情報があったらちょっと調べたら特定できそうなもんだけど。
もういっそのこと、全部バラしちゃえば?
せめてどこのデベロッパーなのか、ヒントだけでもちょうだい。
レス番号184
>>183
地方都市で小規模マンションを多く手掛けてる、準大手デベロッパー。ここまでしか言えない。
レス番号185
>>184
同じデベの他の物件で、似たような偽装はないの?
そこのデベは全部怪しいということでOK?
レス番号186
>>185
それは何とも言えない。俺が関わってて確実にヤバいと断言できる物件は一個だけ。でも社内の雰囲気からすれば、ほかにもいっぱいあるような感じだった。
レス番号187
>>186
君は例えば先輩や社長などの責任者に、そのことを指摘はしなかったのかい?
そんな欠陥マンションを売った、あるいは建設したということに関して、良心の呵責はないのか。
レス番号188
>>187
もちろん上には「おかしいんじゃないか」ってことは言ったよ。
でも誰も聞く耳持たないんだよ。
上司が言った言葉が今でも印象に残ってるよ。
「ゴミみたいなマンション売ったところで、バレるのは所詮20年後とか、大地震があった後とか、どうせだいぶ未来のことだろう。今影響がなければそれでいいんだよ。ただちに我が社に影響が出るわけじゃないんだから」って。
良心の呵責は、もちろんあるよ。
でも俺にも生活があるから、会社を辞めるわけにもいかないし、ずっと腹のなかに収めてたんだけど、このたび無事に転職できることになったんで、せめての罪滅ぼしとしてここにこうして内部告発として書いてる。
レス番号189
>>188
内部告発って言っても、デベの名前もマンション名も書かないんじゃ、何の意味もないじゃん。
その欠陥マンションには今も人が住んでるんだろ?
今でも住人を危険にさらしてることに片棒を担いでることには変わりないだろ。
レス番号190
>>189
それじゃ、ヒントだけ。
テ○○○○○スY
Yは地名ね。
もうほとんどバラしちゃったみたいなもんだな。
これで書き込みは最後にする。それじゃ。
レス番号191
>>190
乙カレ。
レス番号192
>>191
俺R市在住。ウチは一戸建てだけど。ちょっと調べてみるか。
1
6月初旬、午前7時を過ぎたのに、まるで冬のように暗かった。
城岡美名(しろおかみな)はマンションの自室の窓から空を見上げて、軽くため息を吐いた。窓の外は、まるで水を限界まで吸い込んだ灰色のスポンジのような雨雲で覆われている。
姿見の鏡の前に立ち、ブラウスの襟のすぐ下で学校指定の紺色の棒タイを結んだ。
覚悟を決めるかのように思い切って自室から出ると、リビングは台所の灯りしかついておらず、空間全体が暗褐色に染まっている。
ドアが開いた気配を察してか、父の城岡唯介(しろおかゆいすけ)が台所で料理をする手を止めて振り返り、
「おはようございます」と破顔して美名に言った。
「おはようございます」と美名は返事をした。
「お母さん、今日も夜勤みたいだから。たぶん、あと1時間くらいしたら帰ってくると思うけど」
青色の二人掛けのソファを隔てて、テレビの小さな音が聞こえてくる。テレビの画面には、男女のアナウンサーが横に並んでニュースを伝える姿が映っている。
唯介は朝に見るテレビ番組はこだわりがないらしく、日によってチャンネルを変える。前に一度、遠慮がちにそのことを指摘したことがあるのだが、「どの番組も似たようなこと言ってるだけだし、時報替わり点けてるだけだから」と言っていた。
”去年十月、都内のアパートで女性の遺体が発見された事件で、警視庁は女性の勤務先の元上司だった52歳の男を逮捕しました”
薄いピンク色のスーツを着た女性アナウンサーが機械的に原稿を読んだ。
美名は首を右に向けた。人ひとりが通るのがやっとの、マンションの細い廊下には、右手側に兄の部屋である六畳の和室、左手側には母の部屋の洋室の扉がはす向かいに並んでいて、洋室のとなりは風呂とトレイと洗面台になっている。
玄関の靴脱ぎ場の手前には、自治体指定の半透明の黄色いゴミ袋がふたつ無造作に置いてあった。
「あれ、今日出すゴミ?」美名は引き続き台所で料理をしている唯介にたずねた。
「あ、うん。そうだよ」唯介はちらと顔をこちらに向けて言った。
「じゃ、わたし出してくるね」
「ありがとう、お願い」
美名は廊下を通りゴミ袋をまたいで、マンションのネコの額ほどしかない狭い靴脱ぎ場に立ち、靴下を履いたままの足でサンダルを履いて、ゴミ袋を手に持って表に出た。
外に出ると、しめった空気がまるで美名を待ち構えていたかのように、じっとりと皮膚に貼り付いてきた。真向かいの、コンクリに亀裂の入った古い雑居ビルの屋上で、黒いカラスが魚の骨のようなアンテナにしがみつき、何かを訴えるかのように鳴き声をあげている。
美名の一家が住んでいるのは305号室で、マンションのエレベーターからは一番遠いところにある。
303号室は去年までは70代の老夫婦が住んでいたが、どういう経緯か知るすべもないが、多田という40代の独身男性が一人で住んでいる。
302号室は吉田という名字の30代半ばの夫婦がふたりで住んでいる。
301号室も吉田家と同じにように夫婦がふたりだけで住んでいるのだが、親子以上に歳が離れた夫婦。
吉田家は美名の一家と同じく、このマンションが新築分譲された最初から、ここに住み続けている。そのため、かつては家族ぐるみの付き合いがあった。
吉田夫婦には、聖羅(せいら)という名前の、美名と同い年の子供がいた。美名と聖羅は、同じマンションのふたつ隣ということで朝は一緒に学校に登校し、放課後は毎日どちらかの部屋に行って遊ぶほど仲が良かったのだが、小学校一年の夏休みのある日、不幸な交通事故で聖羅は亡くなった。
以来、最愛の一人娘を失った吉田夫婦は、まるでマッチ棒のように痩せ細り、たまに見せる愛想笑いを除いては、常に疲労に満ちたような顔をしている。マンションの共有部分で会えば挨拶はするものの、何と声を掛けていいものかわからず、近所付き合いは少なくなっていた。
ゴミ袋を両手に持った手の人差し指を伸ばして、エレベーターの「▼」マークのスイッチを押す。1階に止まっていたエレベーターはすぐに上昇し、美名の前で左右に扉が開いた。当然だが、中には誰も乗っていない。
エレベーターに入り、「1階」のボタンを押す。幕が閉じるように左右からドアが真ん中へ迫っていると、その向こう側で301号室の玄関がガチャガチャとドアノブの動く音を立てながら開くのが見えた。そして、美名と同じように黄色いゴミ袋を両手に持った鷺宮理佐(さぎみやりさ)が、スカートを履いたお尻でドアを押しのけるようにしながら、共有部分の廊下に姿を現した。
エレベーターの「開」のボタンを押したままの美名を見つけると、理佐は短い距離を小走りで駆け寄ってきた。
「おはよう、美名ちゃん。ありがとう」と理佐が言った。
「おはようございます」
美名は再び「閉」ボタンを押すと、扉が閉まってエレベーターは1階に向けて下降を始めた。
まだ朝早いのに、理佐はしっかりと化粧をしている。ショートカットの茶色い髪の毛はどこか幼く見えて、一回りほど若い二十代前半のようにも見える。夫の鷺宮氏は、正確な年齢は知らないがおそらく60代半ばを過ぎているはずで、夫婦が横に並べば、親子というよりも祖父と孫のようにも見えるかもしれない。
これまでにも何度か、こうして朝のゴミ出しに理佐と鉢合わせたことがある。そのたびに理佐は美名に気さくに話しかけてきて、井戸端会議のように短く立ち話をすることもあった。
数か月に一度くらいだが、たまに理佐に301号室に招待され、ケーキや紅茶などをごちそうになることもある。美名はこの、母に例えるには歳が近すぎ姉に例えるには離れすぎている女性に、なぜか親近感を持っている。
「美名ちゃん今、何年生だった?」
「二年です」
「そう。じゃ、来年受験ね。勉強がんばってる?」
「ええ、まあ……」美名は曖昧に答える。
「できるなら、東京の大学に行きなさいね。若いうちに都会を経験してるかどうかって、けっこう重要だから」
「はい」と美名は素直に返事をした。
サンダルの裏面を押されるような軽い浮遊感を伴った後、一階に到着してエレベーターのドアが開いた。理佐が先に出て、美名はそのあとに続いた。
マンションの出入口のすぐ横にある、カラス除けの金属ネットが蓋になっているゴミ置き場のボックスを開けて、その中にゴミ袋を放り込んだ。
「これで、良し」と理佐は両手を埃を払うかのような動作をした。
美名もそれに倣い、理佐のしぐさを真似た。
「今日も、お母さんはまだお仕事なの?」理佐が立ち止まって尋ねてきた。
「あ、はい。そうみたいです」
「たいへんよねぇ。ウチ、エレベーターのすぐ隣だから、夜で静かだとモーターが動く音が聞こえてくるんだけど、美名ちゃんのお母さん、帰ってくるのが明け方だったりお昼だったり、かなりまちまちよね。身体壊したりしなけりゃいいけど」
「たぶん、だいじょうぶです。勤務先が病院ですから」
「まあ、それもそうね」
美名の母親である真子は、市内の救急指定されている大病院に、看護師として勤務している。
お世辞にも都会とは言えない地方都市であっても、近所付き合いといものがすっかり希薄になっているが、ワンフロアに4室しかないマンションでは物理的に距離が近いせいか、互いの家族構成や職業などは、しっかりと記憶されている。
鷺宮夫婦も302号室の吉田夫婦も、美名の母親が看護師であることも、また、城岡家では真子が大黒柱として外で稼ぎを作ってきて、父の唯介が専業主夫として家を守っているということも、知っている。
といっても、唯介も週末は郊外のファミレスにパートに出て、城岡家の家計の一部を支えている。
303号室に住んでいる多田だけは、意識的に同フロアの住人と接触を避けているきらいがあるため、いったい彼が何者かを知る術がいまだにない。
男女同権の世の中になったとはいえ、専業主夫の家庭は稀で、鷺宮夫妻がこのマンションに引っ越してきたときはおそらく珍しい家族だと思われたに違いない。しかし、珍しさでいえば親子ほど歳の離れた鷺宮家も五十歩百歩で、美名と理佐はこうして会話を交わす間柄とは言っても、夫婦の事情についてはあまり踏み込まないことが互いに不文律のようになっていた。
先ほどまで1階に止まっていたはずのエレベーターは、一度5階まで登ってから、下降を始めた。
「あ、そうだ。最近、美名ちゃん夜中まで勉強してたりする?」思い出すように、理佐が尋ねた。
「え? いえ、だいたい毎日11時くらいまでには寝てますけど」
「そう。それならいいんだけど……」
理佐は腰に手を当て、少し訝しげな表情を作った。
「何かあったんですか?」
「いや、大したことじゃないんだけどね。なんか、夜中の2時か3時くらいになると、ウチの部屋、天井からなんか変な音が聞こえてくるのよ」
「変な音……? 上の階の人が、何かやってるんですか?」
「2か月前くらいからかなあ。上の階っていうよりも、天井のすぐ真上のほうで、何かちょくちょく聞こえるようになってね。しかもそれが、隣の部屋から天井あたりから、うちのほうに何かが動いてくるような」
「もしかして、ネズミが何かですか?」
「たぶん、違うと思う。ネズミの足音なら、カサカサって連続して聞こえてくるでしょ。そうじゃなくて、30秒か1分おきくらいに、軽いモノが天井のすぐ上にぶつかってくるような音。“パン”とか“コン”とか、そんな感じの短い音で、あんまり大きくはないんだけど。それがだんだん、隣から近づいてきて、それから遠ざかっていくような。ひょっとして、美名ちゃんのとこにもそんなのが聞こえたりしてるかなって思って」
理佐は軽く眉間にしわを寄せた。
美名は、自分がまだ聞いたことのないその謎の音に対して、少し気味の悪さを感じた。
「あ、変なこと聞いてごめんなさい。知らないならいいのよ。たぶん私の気のせいね。別にそんな大きな音でもないし、特に問題が生じてるわけでもないから」
「まさか、オバケとか……?」そんなことは有り得ないと思いつつも、美名はそう言った。
「それはないでしょ。もしかして美名ちゃん、そういうの信じるほう? オバケ怖かったりするの?」打って変わって、軽くにやついた表情をして理佐が言った。
「いえ、ぜんぜん信じてないですけど……。でも、見たことないから、怖いじゃないですか」
「まあ、そうよね。実体があるなら対処のしようもあるけど、いるのかいないのかもわからないから、気を付けようもないわよね。オバケもまあ、自然災害みたいなものよね」
「自然災害?」
「いつか必ず大地震や洪水があるって言われても、それがいつ来るかわからなけりゃ、どうしようもないでしょ。ふだんから怖がってちゃ、まともに生活できないし」
美名はその、心霊現象を自然災害にたとえる理佐の意図がずいぶんとわかりかねたが、それ以上掘り下げるようなことはせず、納得したふりをして、
「そうですね」と同意しておいた。
エレベーターが1階に到着した。港のすぐ隣に工場がある某大手製造業のロゴが入った作業服を着た40代の男性が、軽く頭を下げながら降りて行った。
同じマンションでも、階が違えばたまに顔を見かける程度で、名前すらも知らない。それは理佐も同じようだった。
「美名ちゃん、彼氏できた?」3階に到着するまでの短いあいだ、理佐が言った。
理佐は美名に会うたびに、必ずこのことを訊いてくる。まるでまだ訪れていない美名の恋模様を、自分のことのように期待しているようだ。
「いえ、できてません」
「そう。美名ちゃん、可愛いのに男子どもは何をしてるのかねぇ。学校にいいイケメンいないの?」
「いないこともないですけど、カッコいい人にはだいたいもう彼女いますから」
「そっか。それもそうよね。どっかにいい男いたら、私にも紹介して」理佐は冗談めかして言った。「でもね、女の子だからって、ずっと受け身でいちゃダメよ。いいなって思う男の子がいたら、積極的に自分からアプローチしなきゃ。恋愛なんてスポーツと一緒で、失敗しながらじゃないと上手にできるようにはならないんだから」
ドアが開いた。
「それじゃ、またね」
理佐は手のひらを軽く振って301号室に入って行った。
美名も短い廊下をわたり、305号室に入る。サンダルを脱いで洗面所に行き、両手を丁寧に水で洗った。
リビングに戻ると、ダイニングテーブルの上にはみそ汁とお茶碗に軽く盛られた米飯が用意してあった。
美名は椅子に座り、
「いただきます」というと箸を持って朝食を食べ始めた。
相変わらず音量を抑えたテレビが、人気の個性派女優とお笑い芸人の結婚記者会見のもようを伝えている。「ふたりの馴れ初めは?」や「どんな家庭を築いて行きたいですか?」などという芸能リポーターの質問に対して、お笑い芸人が少し困ったような、しかしうれしそうな表情で受け答えをしていた。
「今日、午前中60%で午後からは雨だって。どうする?」と唯介が台所で作業をしながら言った。
美名は口の中に入っている米飯を咀嚼しながら、少し考えて、
「バスにする」と言った。
「じゃ、帰り迎えに行くよ。何時くらい?」
「いいよ。帰りもバスで帰るから」
「遠慮しなくていいって。お父さんも今日は午後から空いてるから」
美名は箸の動きを止めて、しばらくお茶碗のなかをじっと見つめたが、やがて、
「今日は課外授業ないから、四時すぎくらい」と答えた。
「うん。わかった」
唯介は茶色いチェック模様の布で包まれた弁当を、美名の目の前に置いた。
「かつおのふりかけ、付けといたから、ごはんに掛けてね」
「あ、うん。ありがとう」
続いて唯介は、台所にお盆の上に米飯の入った茶碗とみそ汁の椀を乗せ、それを両手に持つと宏司の部屋の前まで行った。
唯介が扉を軽くノックした。
「宏司くん、ごはん。置いとくから」そう言って、椀から湯気の立っているお盆を床に置いた。
間もなく、宏司の部屋のドアが開いて、指先だけが姿を見せると、お盆を引きずるようにして部屋の中に入れた。
そしてドアはすぐにバタンと小さな音を立てて閉まる。
宏司が引きこもりになってから、すでに2年以上になる。外出することなど皆無で、風呂とトイレ以外は部屋から出ることもしない。ともに暮らしている美名でさえ、宏司の姿は月に一度くらいしか見ない。
直近で兄の姿を見たのはいつだったか。先々週くらいだったと思う。美名が風呂から上がって出ると、おそらく尿意を我慢していたであろう宏司が自室から出てきて、駆け込むようにトイレに入った。
稀にしか見ることのない宏司の姿は、そのたびに病的になっていく。日に焼けることのない肌は、まるで腐りかけの豆腐のような黄白色をしていて、歩くたびに過度の運動不足が形を表したような腹回りの皮下脂肪が、シャツを隔てて波を打っている。二重アゴの左右にも両の頬が腫れたように丸く脂肪が付いている。髪の毛は伸び放題になっていて、後頭部で輪ゴムで留めてポニーテールのように髪型。ヒゲだけは風呂に入るときにきちんと剃っているらしく、まったく伸びてはいない。
最後に兄と会話を交わしたのはいつだったか、思い出すのも難しい。
宏司が引きこもりになるきっかけは、美名も知らない。3年前、兄は高校二年生だったが、ある日を境に通学を強く拒否するようになり、結局学校は中退することになった。
父や母は、兄が引きこもる原因となった理由を知っているのかもしれないが、部屋にこもって出てこない兄について真剣に話をするのは、まるでタブーであるかのように避けられていた。
唯介が用意した食事を、自室のドアを開けて部屋に引き入れて食べているということは、兄は今日も生きているらしい。美名が宏司について知ることのできる情報は、それ以外には何にもなかった。
この兄のせいで、三年前から美名は学校の友人を自宅マンションに呼ぶということがほとんどできなくなっていた。
しかし、いったん引きこもりになった人間を、無理矢理引きずり出すという行為は、自殺をまねく可能性があるため、決してやってはいけない。専門家に相談した唯介は、そのようなアドバイスを受けた。
美名が自室で無為に過ごしている兄に対して唯一できることは、何もしないということのみだった。
朝食を食べ終えると、洗面所で歯を磨いて顔を水で洗った。
自室に戻り、学校指定のグレーのバッグを手に持つと、もう一度鏡を見て、自分の髪の毛を軽く撫でた。
そのとき不意に、バタンという音が背後から聞こえてきた。美名はその音に驚いて、身体をビクッと痙攣させた。
振り向くと、今日は学校に持っていかない生物Ⅱの教科書が、床の上に落ちている。
「あれ、なんで?」と美名は独り言を言った。
この教科書は、さっきまでは学習机の上に置かれていたはずだ。それが、なぜ床に落ちたのか。部屋の窓は閉まっている。もちろん風などは吹き込んで来ていないし、部屋の中には自分以外には誰もいない。
美名はさっき理佐から聞いた、夜中に聞こえるという不思議な音の話を思い出した。まさか、マンションの中に小動物が侵入しているのだろうか。小さい昆虫などならともかく、鉄筋コンクリートの建物の3階に、そんなことが有り得るのだろうか。
気味の悪さを感じたが、いくら考えてもこの場で解答が出てこない。
落ちている教科書を手に取って、机の上に戻した。
机の上には、美名が小学校の入学式の日に近所の公園で撮影した、父母と美名が映った写真が、フォトフレームに入れて飾ってある。
満開の桜の樹の下で、笑顔の父母と少しまぶしそうな顔をしている6歳のころの自分。この写真をデジカメで撮影したのは、当時小学4年生の宏司だった。公園のベンチの上に立ち、手元のディスプレイを不安げな表情でのぞいて、こちらにデジカメのレンズを向けてきた兄の姿を、美名は今も覚えている。
その写真を眺めて、あのころの家族は平和だった、などと思うと悲しさが胸の底から込み上げ、ため息が出た。
スマホの画面で時間を確認した。午前7時40分。
悲しい思いを振り切るように、自室を出た。そしてリビングの向こうで洗い物をしている唯介に、
「いってきます」と声を掛けた。
「あ、ちょっと待って」
唯介が蛇口をひねって水を止めると、エプロンのスソで手をぬぐってから、テーブルの上にあった小銭入れを手に取った。
「はい、バス代」
小銭入れからほじくり返すように硬貨を取り出して、360円を美名に渡す。
「ありがとう」
「じゃ、四時に学校の前まで迎えに行くから。もし着いてなかったら、電話かけてね。いちおう、傘持っていくの忘れないように。それじゃ、いってらっしゃい」
「いってきます」再び言った。
合成皮革の黒光りする靴を履いて、マンションから出た。
エレベーターで1階に降りてマンションのエントランスから出ると、先ほどゴミを捨てた金網ボックスの横を通り過ぎ、最寄りの「山之井二丁目停留所」に向けて歩き始めた。
3分も要せず、まだらに錆びてくたびれた時刻表を示してあるバス停に到着する。時刻表の上部には、「山之井二丁目停留所」と書いてあるが、漢字の「二」のプリントが一部剥げてしまっていて、一見すると「一丁目」と勘違いしてしまいそうだ。
ここからバスに乗る人はほかにいないらしく、到着を待っているのは美名のほかには一人もいなかった。
美名はいつもは学校に自転車で通学しているのだが、雨が降る日もしくは降りそうな日は、バスで通学することにしている。自転車通学の学生のほぼすべて、降雨の日は雨合羽を着て学校指定のバッグにビニルのゴミ袋をかぶせて行くのだが、美名が高校一年のころ、雨の日に誤って道路わきの用水路に落ちて大けがをして以来、唯介の勧めもあって雨の日限定でバス通学にすることにした。
朝の通勤通学の時間帯でも、勤め人はマイカー通勤、学生は徒歩か自転車通学がほとんどなので、地方都市の路線バスはそれほど混雑しない。郊外を一度遠回りするようにしてから美名の通う学校前に到着するので、要する時間は自転車とほぼ同じくらいだった。雨に靴やバッグが濡れる心配をしながら自転車に乗るよりは、はるかに快適だった。
しかし、路線バスは午後からは本数が減るため、午後3時32分に学校前に到着するのを逃せば、次に来るのは午後4時50分で、帰りが少し不便になる。だから雨の日の帰宅は、唯介が自動車で迎えに来るのが習慣になっていた。
クリーム色のボディに二本の緑の線が車体を水平に一周して取り囲むよう塗装してあるバスがやってきた。プシュー、という炭酸飲料のふたを開けたときのような音を立てて、ドアが開いた。
バスに乗り、「アカンベー」と舌を出しているような格好の発券ボックスから、整理券を抜き取った。バスの運賃支払いは非接触IC決済に対応しているが、雨の日以外にはまず乗車しない美名は、決済カードを所持していない。
「このバスは、○○港経由市役所前行きです。お乗りまちがえのないよう、ご注意ください」という録音された丁寧な日本語の女性のアナウンスが聞こえてくると、入口のドアがひじの関節を伸ばすときのように動いて閉じた。
乗客は15人ほどしかいない。ほぼ全員、スーツを着た男女で、学校の制服を着ているのは美名ひとりだった。
運転手のすぐ真後ろの席に座る。
痙攣するエンジン音を立ててバスが動き始め、窓の外の景色が後方に向かって流れていく。
道路の左右にはケヤキが街路樹として植えられていて、深い緑のなかを沈み込んでいくように錯覚してしまう。
山之井二丁目停留所から、5つ目の停留所にバスは停車した。降車する乗客はおらず、ひとりだけ杖をついた老人女性が緩慢な動きでバスに乗り込んだ。
この辺りは市の郊外に再開発された住宅街に近く、片側二車線の道路の左右には、店舗面積よりもはるかに広い駐車場を兼ね備えたコンビニや大手洋服チェーン店、ファミリーレストランなどが並んでいる。まばらに田畑や耕作放棄地も残っており、開発途上の、あるいは永久にこれ以上は開発されないであろう様相を呈している。
再びバスが出発し5分あまりが過ぎたところで、赤信号で停車した。
ぼんやりと風景を眺めていると、交差点の横断歩道を渡っているまばらな歩行者の中に、よく知っている顔を見つけた。
自転車の前カゴに大きなバッグを入れ、手でハンドルを押しながら歩いているそのショートカットの40代の女は、美名の母親である城岡真子(しろおかまこ)だった。真子の勤務先は数百メートル先にあるから、ここに真子の姿があるのは必ずしも偶然ではないが、バス通学の途中に母の姿を見たのは初めてだった。母は、これからマンションに帰宅するのだろうか、それとも、どこかに行くのだろうか。
「お母さん……」と美名は誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。
真子のすぐ横には、30代前半くらいの名前も知らないひとりの男が並んで歩いている。美名に見られているとはつゆほども思ってない母は、その男と笑顔で会話をしながら、横断歩道を渡って行った。
美名はその後ろ姿をバスの中から目で追うと、歩行者用信号機の青灯が点滅している向こうで、真子が男にまるで恋人どうしであるかのように身体を寄せて、ネコのように頭を男の肩にこすりつけて甘えていた。
前の信号が青に変わったので、バスは再び発進した。母の後ろ姿は、バスの窓の端に消えていった。
「次は、広瀬総合病院前、広瀬総合病院前です。お降りの方は降車ボタンをお押しください」アナウンスが流れると、誰かがボタンを押したらしく、電子音が鳴ると同時に、前面上部のディスプレイに「つぎとまります」の表示が点灯した。
母が数年前から、夜勤と称して見知らぬ男と不倫をしていることは、美名も気づいていた。唯介もまちがいなく知っている。ひょっとしたらひきこもりの兄でさえ知っているかもしれない。真子がバレていることに気づいているのかどうかは知らないが、ああも堂々と人目のあるところで仲よさそうにしているところを見ると、真子も務めて隠そうともしていないのだろう。
その事実を知っていた、とは言っても、実際に母が父以外の男に女の顔を見せている姿を見ると、強い戸惑いを感じる。その感情は、嫌悪感と言ったほうが正確かもしれない。
もちろん美名としては、母に不倫などやめて欲しいと思っているが、それをどのように訴えればいいかわからず、今日まで何もできずにいる。
さっきの真子の、嬉しそうに男と談笑している顔を思い出し、美名はもう何年も家であんな表情の母を見たことがないと、ようやく自覚した。
唯介と真子は、もはや仮面夫婦というありきたりな言葉で表すにも足りないくらい冷め切っている。夫婦喧嘩すらも起こらない。必要最低限のやりとりは携帯電話のメールでしているようだが、面と向かって口を聞くことは、全くなくなっていた。
真子は極力、家には帰りたくない、正確に言えば唯介の顔を見たくないらしく、家には食事と風呂と睡眠のためだけに帰っているようなものだった。
夫婦の寝室のはずだったマンションの洋室は、今は真子ひとりの部屋になっていて、唯介は立ち入り禁止の状態になっている。唯介は毎晩、リビングの二人掛けのソファに毛布をかぶって寝ている。
夫婦仲が冷めたから真子が不倫をしたのか、それとも真子が不倫をし始めてから夫婦仲が険悪になったのか、それは美名にはわからない。夫の専業主夫を認め、家庭の大黒柱を引き受けるような真子にとっては、およそ家庭的な穏和な女性に留まることは、最初から無理があったのかもしれない。
夫婦を家の内側から見てみれば、このようにすでに実質破綻している状況にあるのだが、おそらく第三者の目から見れば、いびつな形ではあっても家族という形は整っている。きっと理佐などは、城岡家の内情がこんなことになっているとは、想像もしていないだろう。
なぜ母が、そこまで配偶者である唯介を嫌っていながら離婚という選択を避けて仮面夫婦を続けているのか、美名にはわからないが、おそらく唯介と共同名義になっているマンションのローンも、ひとつの理由になっているのだろう。
とにかく、城岡家は実質破綻状態ではあっても、形式上のみは破綻を避けて、危うい均衡が辛うじて成立している。美名は、息のつまるような毎日ではあっても、無理にこれを崩さなくてもいいのかもしれない、とも思う。
美名としては、真子が心を入れ替えて唯介と和解し、再び家族を愛するようになることを希望しているが、おそらく、それが実現する可能性はほぼゼロだとすでに諦めている。
美名のクラスの担任教師は50代男性で、物理を教えている。
理系の教師なのに歴史マニアで、朝のホームルームで連絡事項が少ない日は、余った時間で授業では習わない歴史の裏話みたいな内容のことを話すのを習慣としている。
今日も午前中に行われる進路相談について簡単に説明すると、江戸時代の元禄期について一生懸命しゃべり始めた。しかし、それに耳を傾けている生徒はほとんどいない。みんな私語をするか、俯いてスマホをいじっているか、机に突っ伏して寝ている。
美名もスマホをいじっているうちのひとりで、ブラウザで好きなタレントのインスタグラムなどを見ていた。美名が座ってる席の背後からは、ずっとクラスメイトの男子が私語をするひそひそ声が聞こえてきている。その声のなかにときどき女性器を表す隠語が混ざって、いやらしい笑い声を立てている。
「五代将軍吉綱のころの勘定奉行、荻原重秀は賄賂まみれの政治を行い、利権にまみれていたと言われているが、その根拠となるのは政敵ともいえる新井白石の著書である……」
あまり朝から頻繁にスマホを操作していると、放課後を待たずに電池をすべて消耗してしまうことさえある。美名はスマホの設定画面を表示させて、画面が暗くなる省エネモードに変更した。
いきなりスマホが手の中で短くバイブレーションし、SNSアプリがメッセージの受信を知らせてきた。
SNSアプリを起動させると、「お昼、どうする?」という文字が、吹き出しのなかに表示されていた。
送ってきた相手は、中学のころからの友人で、隣のクラスの牧場莉乃まきばりのだ。
「今日、午後から雨降るみたいだけど」
返信をすると、即座に「既読」の文字が噴き出しの下に出現した。
教室の窓の外を見ると、日がすっかり昇ったせいか、朝よりは少し明るく見える。しかし、重い曇り空であることに変わりはない。
「じゃ、もし雨が降ってなかったら、屋上行こうか」
「了解」
担任はあいかわらず教壇に立って、「綱吉の死後に将軍に就いたのは、綱吉の養子の家宣ですが、間も無く病に倒れ、その後に将軍になったわずか4才の家継もすぐに病死し、将軍が二代続けて就任後間も無く死ぬということが続いたため、暗殺説がいまだに根強く……」と誰も聞いていない演説を続けている。
莉乃とメッセージの往復をしているうちに、ホームルームの終了を知らせるチャイムが教室のスピーカーから響き始めた。
担任は話を途中で打ち切り、
「それじゃ、さっき言ったとおり今日の四限は進路相談だから、配った紙に志望大学と学部を書いた上で、番号順に3階の物理準備室に来るように。待っている間は、静かに自習してください」と言うと、出席簿を持って教室を退出して行った。
昼休み。
美名は弁当の包みを持って屋上に向かった。そこで莉乃と一緒に弁当を食べるのがほぼ学校での日課になっている。
同じクラスに仲の良い友達がいないわけではないが、莉乃は美名にとって唯一心を許せる相手だった。
踊り場に文化祭や体育祭で使う備品が置いてある暗い階段を登って、「立入禁止」の貼り紙がしてある金属製の分厚い扉を押した。鍵のかかっていない扉は重々しく動く。
屋上は鉄条網付きの高い鉄柵に取り囲まれていて、その鉄柵を隔てて駅前の背の高い商業ビルがまばらに突き出した様子が見える。
莉乃はまだ来ていないようだ。というよりも、ほかに人は誰もいなかった。いつもなら、昼休みにはもう2,3人くらいはいるのだが。
美名は出入口のすぐ横の冷たい壁を背もたれにして座った。背後から誰かが階段を上ってくる振動が微かに伝わってくる。
だんだん大きくなった足音がドアの向こうで止まると、ギィーという金属が擦れ合う音がして、扉が開いた。
「あ、もう来てたんだ。おまたせ」と莉乃が言った。
「あ、うん」と美名は軽くうなずいた。
莉乃は制服の棒タイを外して、楽な格好になっている。美名のすぐ横に座って、弁当が入った巾着袋を屋上の地面に置いた。
莉乃と美名は、かなり性格が異なる。どちらかといえば引っ込み思案な美名だが、莉乃はかなり豪快で大雑把だ。見た目も、ショートカットで黒髪の美名とは対照的に、薄く栗色のカラーの入ったロングヘアを、風になびかせている。その長い髪の毛が大人っぽい魅力を醸し出しているのか、莉乃は制服を着ていなければすでに二十歳を超えているように見える。一方、美名のほうはいまだに中学生のあどけなさを残していて、ふたりが並んで歩けば少し歳の離れた姉妹のようだった。
中学一年のときに同じクラスになったのがきっかけで知り合ったのだが、正反対の性格がパズルのピースのようにうまくはまったのか、ずっと関係が続いている。
「あー、やっぱすごい曇ってるね。雨降るのかしら」空の黒い雲を見上げて莉乃が言った。
「午後からは降水確率90パーセントだって」
「へえ。うちのクラス、五限は体育なのよね。雨降ったら保健の授業に振り替えになるから、さっさと降ってくれないかしら」
莉乃が巾着袋から小振りな弁当箱を取り出して蓋を開けた。美名も同じように弁当の包みをほどくと、かつおのふりかけが弁当の蓋の上に乗っている。
「いただきまーす」莉乃はそう言うと、プラスチックの箸をミートボールに突き刺した。
「そういや美名のクラス、今日進路相談じゃなかったっけ?」弁当を半分ほど食べたところで、莉乃が言った。
「うん、さっきやってきたとこ」
「うちのクラスは明日なんだけど、どんなこと言われた?」
「別に、大したことは何も。前の模試の結果と志望大学を確認されて、『もうちょっとがんばれ』みたいなことを言われただけ。3分もかからず終わったし」
「第一志望はどこにしたの?」
「△△大学の文学部の国文学科」
美名はその大学に行きたいという希望を、実はほとんど持っていない。ただ単に、自分が合格できそうなところで、授業料が安い他県の大学がそこだったという理由で、志望として挙げた。特に国文学が好きなわけではない。国文学科なら外国語ができなくても大丈夫そう、と思っただけだ。
「あー、やっぱ県外に行くんだ?」
「うん」
この街が人口30万に少し満たないという中途半端な規模のためか、大学進学を機に都会に出たいという希望を持った高校生は少なくない。というよりも、大学受験は親元を離れ都会で一人暮らしを開始するためのイベントだと捉えている学生が大多数だった。家から通学できる範囲にも国立大学や私立の総合大学はあるが、よほど愛郷精神に満ちた者以外は、そこに進学しようとはしなかった。
美名も、とにかく県外に出て今の家を離れたいと強く願っている。
莉乃は自分の進路についてはいまだにノーアイデアらしく、
「めんどくさいなぁ。まだ受験まで一年半もあるってのに、今から第一志望を決めさせるなんて、気が早すぎよね。これから雷にでも打たれて、いきなり何かの才能に目覚める可能性だってゼロじゃないでしょ。来年のことは、来年になってから決めればいいのよ」と多少投げやり気味に言った。
弁当を食べ終えると、
「食った、食った~」と言いながら莉乃が地べたに大の字になって寝転んだ。
そして寝転んだまま、曇る空を見上げて、
「もし放課後空いてるなら、いつもの本屋寄ってかない?」と言った。
「あ、今日わたしバスで来てて、帰りはお父さんが迎えに来るから。ごめんね」
「あ、そっか。じゃあまた明日にでも」
「うん」
いきなり、屋上の地面の上に置いていた莉乃のスマホが、コンクリートの材質とスマホの外装を擦り合わせる鈍い音を立てて、短く振動を繰り返し始めた。
莉乃は起き上がって、指紋認証で画面のロックを解除した。そして人差し指を上下に動かして、何やら操作した。
「クラスの友達からメッセージ?」と美名がたずねた。
「いや、そうじゃなくて、おとついダウンロードしたアプリの更新の通知」
「今度は、何をダウンロードしたの?」
莉乃は画面から少し目を離して、美名の顔を見た。
「誰にも言っちゃダメよ。実話怪談集のアプリ」
「かいだん?」
「そう。実体験した怖い話や不思議な話を投稿できるようになってて、誰かが投稿した怪談に”いいね“ボタン付けられるようになってんのよ。で、お昼くらいに毎日一個ずつ、昨日人気ナンバーワンだった怪談の通知が来るようになってるの」
「へえ。そんなのあるんだ」
あまり人には言わないようにしているらしいが、莉乃はかなり熱の入ったオカルトマニアだった。ホラー映画やオバケが出てくる話が好きなようで、UFOや古代文明などにも詳しい。一緒に本屋に行くと、真っ先に文庫本コーナーのすみっこのほうにある実話怪談の棚に飛んで行き、発売したばかりの怪談オムニバス集などを、眉間にしわを入れて立ち読みしている。
「このアプリ、ダウンロードしてみたら? おもしろいよ」画面を見つめたままそう勧められたが、
「いや、いい」と苦笑しながら軽く断った。
美名は、人並みに有名なホラー映画などを見たことがあるという程度で、オカルトを毛嫌いしているわけではないが、自発的にオカルトコンテンツに触れようという気はあまりない。
「莉乃も、それに投稿したりするの?」
「しないよ。だって、わたし霊感ゼロだから、怖い話なんて体験しようがないもん」
美名も今まで、幽霊のたぐいは一度も見たこともないし、怪談と呼べるような体験もしたこともない。
「霊感ってよく聞くけど、具体的にどういう状況を“霊感がある”っていうの? オバケが見えやすいってだけ?」
美名がそう尋ねると莉乃は、
「今日のはいまいち。作り話くさい」と言いながら、莉乃はスマホの画面を閉じた。
そして、続ける。
「それがね、霊感の正体ってよくわかってないのよ。見る人は繰り返し見るし、見えない人は全然見えないでしょ? だから霊感っていうのは、いわば幽霊の見えやすさを数値化したようなもんになるんだろうけど、幽霊との波長が合うか、合わないかってのもあるようだし、ただ単に、見える見えないって一次元だけの話じゃないことは確定してる。まだ未解明な部分が多いのよ」
「ふうん。そうなんだ」
「まあ完全にわかったら、それはオカルトとは言わないわよね、たぶん。もし解明できたら、それは科学っていうことになっちゃうんじゃないの。そのへんの定義はよく知らないけどさ。将来的には、物理の教科書に霊感の測定の仕方が載ってたりして」
「そんな、まさか」
「未来のことだから、わかんないわよ。先月のオカルト雑誌に、幽霊がいるかどうかを計測できる機械が開発されたって、紹介記事が出てたから」
さすがにその機械はインチキだろう、と思ったが、もちろん口には出さない。
しかしその声に出さなかった美名の本音を莉乃は感得したらしく、反論するかのように言う。
「いろいろ実験してみたらしいけど、いわゆる有名な心霊スポットで計測すると、機械の数値が跳ね上がるんだって。心霊写真って、よくあるでしょ? あれって、幽霊が出るときに特殊なエネルギーの電磁波を出すらしいんだけど、それが写真だけに写りこむんだって。だから、その電磁波を測れば、そこに幽霊がいるかどうかを知ることができるよのよ」
「本当?」
莉乃のしゃべる勢いが一気に増して、少し興奮しているように見える。好きなこととなると人は誰しも前のめりになるものだが、オカルトに対してこうまで熱く語る人もめずらしい、と美名は思う。
「もうその機械、実用化もされてて、一個2980円で通信販売してるのよ」
「意外と安いね。もしかして莉乃、それ欲しいの?」
「欲しいというか、もう注文した」
そう言った莉乃の表情は真剣だった。その幽霊を感知する機械が本当に機能すると思い込んでいるらしい。
「買って、何に使うのよ。それ持って、肝試しにでも行くの?」
「さすがに自分から進んで危険なところに行こうとは思わないけど、今自分がいる場所がどれくらい安全か、知っとけば少しは安心でしょ。今の世の中、いつどこから目に見えない危険が襲ってくるかわからないんだから。先週注文したから、そろそろ配達されてくると思う」
「あ、そういえば……」
あまりこういう話をできる相手がいないせいか、真面目な顔でオカルトについて喋りながら、莉乃はどこかうれしそうにしていたので、美名はもう少しこのオカルト談義に付き合うことにした。
「なに?」
「今朝ね、うちのマンションの同じ階に住んでる人が、夜中に変な音が天井から聞こえてくるって言ってたのよ。あれってもしかして、心霊現象なのかな?」
「音、ラップ音かな?」
「具体的には聞いてないけど、天井裏を何かが動いてるような音なんだって」
「ふうん……」
莉乃はアゴに手を当てて何やら考え込むような顔をした。
「今まではそんなことあったの?」
「いや、たぶん最近始まったことだと思うけど。わたしは聞いたことないし」
「うーん……、それじゃただ単にマンションの上の人がドンドンしてるだけじゃない?」
「やっぱり、そうなの?」
「勝手にテレビが点いたり、電気機器が誤作動したりはしてないんでしょ?」
「それはないと思うけど」
「だとしたら、ポルターガイスト現象の可能性は否定できないわけではないけど……、たぶん霊の仕業じゃないわね。単なる空耳か、人為的な何かでしょ」
美名が予想していたのとは違って、常識的な反応だった。毎日怪談に触れている身からすれば、多少異音がするくらいでは興味の対象外になってしまうのだろうか。
美名は今朝の理佐の姿を思い出しながら、
「そう。じゃ、今度その人に会ったら、そう言っとくね」と言った。
わざわざ理佐の部屋を訪れてまで報告するようなことではないし、またそのうちマンションの廊下で会うだろう。
昼休みの終了を知らせる予鈴が、校舎の壁を登ってくるようにして聞こえてきた。掃除の時間が始まるのまでにはまだちょうど10分の余裕があるので、美名も莉乃も動こうとはしない。
「あ、そうだ、大事なこと忘れてた。美名に、聞かなきゃいけないことあったんだ」
莉乃はその場に立ち上がった。
「何? 何かあった?」美名は座ったまま、莉乃を見上げる。
「うちのクラスの園田って知ってる? 園田北斗(そのだほくと)」
「あの、サッカー部の人?」
「そう」
園田北斗は校内でも有名人だった。一年生のときからサッカー部のレギュラーに抜擢されて、活躍している。そこそこイケメンで、サッカーにはほとんど興味もない美名でもその名前を知っている。
「園田君が、どうかしたの?」
「今日、ここに来る前ね、園田がめずらしくわたしのとこに寄ってきて、『3組の城岡美名さんと仲いいの?』とか聞いてくるのよ。中学からの友達だけど、って答えたら、『城岡さん、今彼氏いるの?』とか聞いてきてさ。もしかして園田、美名に気があるのかもね」
「え?」思わぬことを言われて、美名は戸惑い、絶句してしまう。
「そんで、城岡さんのSNSのID教えてくれ、みたいなこと言ってくるのよ。自分で聞けば? て言ったんだけど、どうしてもって頼まれてね。とりあえず、『勝手には教えられないから、いちおういいかどうか本人に聞いてみる』って言っておいたけど。どう? アイツに美名のID教えてもいい?」
「え……、いや、どうしよう……?」
戸惑ってる美名を見て、莉乃は少し悪戯っぽい表情でニヤつく。
「初彼氏ができるチャンスじゃん。しかも、学校でも人気者の。まあ、アイツ部活が忙しそうだからあんま一緒に遊ぶ時間なさそうだけど、悪くないんじゃない?」
美名は頭の中に、記憶を頼りにして園田北斗の姿を思い描いた。放課後の運動場、オレンジのユニフォームを着てボールを追いかけている姿を、何度か見たことがある。運動部にしては珍しく長く前髪を伸ばしていて、日焼けが絶えることのない顔は濃く色付いている。女子のあいだで人気なのに、浮いた噂は一度も聞いたことがなかった。
「どうする? 断っとこうか?」
美名はためらいがちに、
「いや、別にかまわないけど……」
「そう。じゃ、教えとくね。心配しなくても、そんな固く考えなくてもいいって。気に入らなけりゃ、ブロックしちゃえばいいんだから」
同年代の女子はほぼ例外なく関心事の少なくない部分が恋愛や好きな男子のことで占められているものだが、美名はこれまで、自分に恋人ができるところを想像したことがほとんどなかった。ここ3年ほどは、一度もないと言ってもいい。
仮に自分を好きになってくれる男子がいたとして、お互いのことを深く知るようになった場合、自分のこの家庭環境をどう説明したらいいのだろうか。それを考えると、つい二の足を踏んでしまう。何を始めるにしても、とりあえず家を離れて環境を変えてからじゃないとできない。
空から、勢いのついた大きな水滴がひとつぶ、顔に落ちてきた。
顔を上げると、たちまち玉のような形の大きな雨粒が、続けて降ってくる。
「あ、やった! これで体育中止になるわ。ラッキー」莉乃が六月の雨を歓迎するかのように、両方の手のひらを空に向けた。
掃除の時間の開始を知らせるチャイムが鳴った。
放課後になると、昼から降り始めた雨は、土砂降りと言っていいほどに強くなった。校門前の歩道で傘を指して立っていると、まるで上から殴られているかのように傘がドンドンと音を立てながら揺れ、柄を持つ手に振動が伝わってくる。アスファルトに撥ねた水滴が、靴下の布にしみついて皮膚に貼り付く感触があった。
美名はスマホを取り出して時刻を確認した。午後四時を二分過ぎたところだった。雨合羽を着て自転車で下校するクラスメートが、「またね」と言いながら美名の前を通り過ぎて行く。
傘で狭くなってる視界のすみの車道に、自動車のタイヤが現れて止まった。美名は傘を上げて見ると、唯介が運転する国産車のセダン車だった。運転席から助手席をはさんで、唯介が車内から美名に何かを言っている。
美名は傘をたたんで軽く振り、助手席に乗り込んだ。
「お待たせ。濡れた?」唯介が言った。
「うん、少しだけ」
車内はゆるく暖房が入っていて、暖かかった。乗車前に掃いきれなかった傘の水滴が、制服のスカートに伝染するように浸み込んでいく。
「晩御飯の材料買いたいんだけど、スーパーに寄ってもいい?」
「あ、うん」
目の前の青信号が、フロントガラスに付着した水滴がいびつなレンズとして働き、ピーナッツみたいな形に歪んでいる。それを左右に揺れるワイパーが拭き取るように擦って、もとの円形の光に戻った。
「今晩、何か食べたいものある?」
「いや、別に……」と美名は曖昧に答えた。
「それじゃ、冷蔵庫にハンバーグしたときの合い挽き肉がまだ残ってたから、ミートソースのパスタでもいい?」
「うん」
「じゃあパスタと、今日はたしか鶏モモ肉が安売りだったから、簡単にガーリックソテーにでもしよう」
交差点の真ん中で、右折のタイミングを図っているときに唯介が、
「今朝、美名ちゃんが学校出てから一時間後くらいに、お母さん夜勤から帰ってきたよ」と言った。
今朝、バスのなかから見た母の姿を思い出して、何とも言えない複雑な感情が湧き上がってくる。
「あ……、そう。夜勤なのに、早かったんだね」ととぼけるように言った。
「でも、なんかまだ重要な用事があるからって、お風呂に入って5時間くらい寝たら、昼過ぎにまたどっか行っちゃった。今晩も夜勤みたいだから、帰ってくるのは明日の朝だね、きっと」
ここ数日、美名もろくに母と顔を合わせていない。真子が夕食を自宅で摂る日は徐々に減っていき、今では週に一回あるかないか、と言ったところだった。食事はきっと不倫相手とどこかで食べているのだろう。
唯介が運転する車は、郊外の広い駐車場のある、赤い看板の食品スーパーに入った。
スーパーの来客もこういう日は雨を避けるため極力、出入口の近くに駐車したいと思ってるせいか、駐車場のなかで団子のように自動車が密集している。唯介も同じようにしようと試みてはいたが、まったく空きがないため、諦めて少し離れた場所に車を停めた。
「買い物、一緒に行く?」と言いながら、唯介は親指で窓の外を指した。
「ううん、いい。ここで待ってる」
「それじゃ、なるべく早く戻ってくるから。エンジン付けたまんまにしとこうか。暖房いる?」
「ううん、だいじょうぶ」
唯介は外に出ると、雨を防ぐかのように両手を頭の上に乗せながら走って行った。
教科書が入ってるバッグからスマホを取り出して画面を表示すると、莉乃からメッセージが一件届いていた。アプリを起動してみると、「園田北斗にアカウント教えといたから。たぶんそのうち何か言ってくるんじゃない?」と絵文字付きで15分ほど前に送信されていたメッセージがあった。
”うん。でも何か送ってきたとして、何て返事すればいいんだろう?”と返事をすると、すぐに既読になった。
続いて、ふたりのあいだでメッセージのやり取りが何度か続いた。
”なんでもいいんじゃない?気軽にやりなよ”
”わたし男の子とあんまりやりとりしたことないから、わかんない”
”テレビとかマンガとか、ほかにも怪談とか、なんでもいいから好きなようにすればいのよ”
”怪談って……”
”もういい年なんだから、彼氏のひとりやふたりいてもいいでしょ?”
”莉乃はどうなのよ”
”わたしは運命の人と出会うまで待ってる”
”何よそれ”
”でも真面目な話、園田が告白してきたら美名どうするの?”
そのメッセージを受信した後、美名はしばらく画面に見入った。しばらく考えた後、
”たぶんお断りすると思う”
と返信した。
そのメッセージが既読になった後、少し画面を見つめていたが、莉乃から返信はない。スマホをバッグのなかにしまった。
美名はおもむろに左手を伸ばして、助手席すぐ前の、ダッシュボード下のグローブボックスを開けた。
中には、車検証などが入ったクリアファイルがある。それを取り出してみると、その奥にはシャープペンシルくらいの注射器とともに、小さいジップロックの透明なビニルの小袋があった。そのビニル袋のなかには、まるで窓際に溜まったホコリのような、白い粉がわずかに入っている。それが良からぬクスリであることは、確認するまでもない。
車検証を戻して、グローブボックスを閉める。そして、深くて長いため息を漏らした。
助手席のシートに体重の全てを預け、目を閉じる。そして、その姿勢のまま何も考えられずにいると、15分あまりが過ぎたころに不意に自動車の後部座席が開いた。驚いた美名は身体を起こして、シートから背中を離した。
首をひねって後ろを向くと、買い物を終えた唯介が、透明の買い物袋をうしろのシートに置いていた。
すぐに唯介は運転席に乗り込んで来て、手についた水をシャツで拭いながら、
「うわー。すごい雨だな。おまたせ。だいぶ濡れちゃった。おやつに、プリン買ってきたから、家帰ったら食べようか」と言った。
美名は父の顔を上目遣いで覗き見た。いつもと変わらない。
その日の夜、午後11時を過ぎたころ、美名は自室のベッドに入り、部屋の暗い天井を眺めていた。少し弱くはなったものの、雨はまだ振り続けていた。たまに表の道路を通る自動車のベッドライトが、水しぶきの音を伴いながらマンションの3階まで届いて、カーテンの隙間から直線に伸びた細い光が天井を切り取るように移動して行く。
母の真子が、城岡唯介と再婚したのは、美名が5才のころだった。
「ママのおともだち」という名目で唯介を紹介された日のことを、今でも覚えている。美名も兄の宏司も、そのおじさんがただ「ママのおともだち」などではないことは、子供ながらにすぐに承知した。
唯介は背の低い美名の前にしゃがんで笑顔になると、「こんにちは」と言った。
美名もいちおう、「こんにちは」と遠慮がちに返事をした。
すると唯介は美名の頭に手を乗せて、軽く撫でた。
「ずいぶんと馴れ馴れしいおじさんだな」というのが初対面での印象だった。
真子は美名が小学校に上がると同時に、それまでパートタイムだった病院の仕事を、夜勤もあるフルタイムに切り替えて再び働き始めた。具体的に聞いたことはないのだが、おそらく真子の勤務する病院に患者としてやってきたというのが、真子と唯介の馴れ初めなのだろう。
真子は言うまでもなく、いわゆるバツイチだったが、唯介には婚歴はない。
実の父とは、幼稚園に上がる前に離れてしまったため、まったく記憶にない。一度も面会交流をしたこともない。
唯介と再婚する前、母は機嫌が悪いときに前の夫である男について悪口を言っていた。美名にとって実父について知ってることは、それだけだった。3歳年上の宏司は実父について覚えていることもあるようたが、「怖い人だった」以外の情報は出てきたことがない。おそらく兄もあまり強くは記憶に残っていないのだろう。
真子は間もなく「ママのおともだち」である唯介と再婚して、その後購入したのが、今住んでいるこのマンションだった。5階建てでワンフロアには4室だけの、小ぶりな分譲マンション。唯介が独身のときに貯めていた預金を頭金にしてローンを組んだと、一度だけ聞いたことがある。
マンションは今年でちょうど築10年になる。
ここに引っ越してきたころの城岡家は、希望に満ち満ちていた。
宏司も美名も、新たに父となった唯介とは、それなりに良好な関係を築くことができていた。特に実父についてまったく知らない美名にとっては、父という単語はすなわち唯介のみを指す意味を持っていた。新婚の真子と唯介の夫婦仲も良かった。
真子は看護師として平均的なサラリーマンほどの稼ぎがある一方で破壊的に家事が苦手。唯介のほうは。中堅食品会社の営業として勤務しているが、気が弱い上に人とコミュニケーションを取るのがあまり上手でなく、そもそも営業という仕事に向いていないと強く感じていた。夫婦が専業主夫という家族の形を選択するのに、世間体以外に障害となるものは何もなかった。
新築マンションの同じフロアには、同い年の吉田聖羅という女の子がいて、すぐに仲良くなった。毎朝、一緒に学校に行き、自宅に帰ると聖羅や兄、新たに出来た父と遊んで、とても楽しかった。
月に一回くらいは、家族揃ってレジャーに出かけた。春には花見に行ったし、夏には海や花火大会に行った。何度か、吉田一家と合計七人で、川の上流へ炭火焼セットを持って行って、川原でバーベキューをしたこともあった。
そんな平和だった城岡家がおかしくなり始めたのは、いつからなのだろう。何が原因なのだろう。美名はそれに対する答えを持っていない。
気づけばこうなっていた、としか言えない気がする。
子供のころは、母の離婚の原因は母の言うとおり前夫の人格や態度に大きな問題があったのだろうと想像していたが、しだいに母のほうに何か良からぬ行為があったのでは、と疑うようになっていた。
母が不倫しているらしいことに気づいたのは、中学1年のときの冬、美名が学校の課題でパソコンを使う必要があったときだった。
母の部屋にある、少し古い型のノートパソコンを無断で起動し、ワープロソフトで必要な書類を不慣れながらも作成し終わったあと、ついでにインターネットで動画でも見てみようとブラウザを操作したときだった。
ブックマークにとあるウェブメールサービスが追加されていた。
特に深く考えず、そのページを開いてみたら、目を疑うような内容が一面に広がっていた。メールのやり取りをしている相手は、T―MORIと名づけられたアカウントのみで、件名が「明日会える?」とか「ごちそうさま」とか、にわかに理解しがたいものだった。
おそるおそる開封済みのメールを開いてみると、「明日、夜勤って言ってごまかせる?」と短く書いてある。
悪いことだとは承知しながら、送信済みメールのフォルダを開いて、真子が相手に送ったメールを覗き見た。
「だいじょうぶよ、ウチの旦那バカだから」「稼ぎのないヒモ男」「旦那より気持ちいい」などという、目を覆いたくなるような、唯介を見下す内容のメールがいくつも並んでいた。
激しく脈打つ胸を落ち着かせるように手で押さえ、パソコンの電源を落とした。
それから半年ほど、美名は苦しい日々を過ごした。唯介に、実母の裏切りを知らせるべきなのかどうか。
そしてとうとう母が夜勤という名目で家を留守にすることが目立ち始めたころ、意を決して、
「お母さんが、よその男の人と会ってるみたいなんだけど」と言った。
唯介は平然と、
「知ってるよ」と言った。
予想外の返事に、美名は少なからず衝撃を受けた。
驚いて絶句している美名を横目でちらりと見た後、唯介はリビングの窓のほうに視線を逸らせた。
「でも、どうしようもないだろう。お母さんの気が変わって、また戻ってくれるのを待つしかない。それまで、我慢するほかないんだ」
「でも、それでいいの……?」
「仕方ないだろう!」と唯介は怒鳴った。
耳鳴りがするほどの大きな声だった。ふだんまったく怒りを表すことのない穏和な唯介が、顔にしわを寄せて鬼のような形相になっている。
「俺だって、苦しいよ。でも、どうしようもないんだ。実は、再就職してまた自分の稼ぎを作って、離婚するための準備をしようとしてたこともあるよ。……でも、いくら男女同権の世の中だと言っても、一度専業主夫という地位に堕ちた人間なんか、まともな給料で雇ってくれる会社なんてないんだよ。美名ちゃんや宏司くんが学校に行ってるあいだ、面接に何件か行ったこともあるんだけど、ほとんど門前払いだ。本当、情けないよな。……俺がこの先もまともに生きていこうと思ったら、真子の稼ぎに依存して養ってもらうしかないんだ。仮に、どっかでまともな職に就けたとしても、俺はその先どうなる。この歳になったら再婚なんてできやしないし、孤独死の独居老人一直線だ。俺だって悔しいし、悲しいけど、自分をだましながら今の生活を続けるのが、残念ながらベストなんだよ。口出ししないでくれ」
一気にそう捲し立てると、唯介は俯いて涙を流し始めた。
「お父さん、ごめんなさい」と美名は言った。
唯介が覚醒剤に手を出していると知ったのは、それから数ヶ月ほど経過した日だった。
体調不良のため午前中で学校を早退しマンションに帰る、と唯介は買い物にでも出かけているらしく、不在だった。
どこかに風邪薬があったはずだと、リビングの棚を探したが、見つからない。あちこち探すうちに、台所の引き出しを開けてみると、そこにあったのが3本の小型の注射器と、白い粉だった。
美名はそれを見て、いったい何なのか理解できなかった。いや、きっと別の何かに違いない。なにせ母は看護師なのだから、自宅に注射器があったとしても、それほどおかしなことではないだろう、などと自分に言い聞かせてみたものの、台所の引き出しを触るのはほぼ主夫である唯介のみであるから、それが唯介の所有物であるのは間違いない。
一週間後、また引き出しを開けて確認してみると、注射器は一本減っていて、白い粉が入った袋はなくなっていた。
その日の夜、長袖のシャツを着て台所で洗い物をしている唯介が袖まくりをしたとき、前腕内側のひじ関節に近い部分に、真新しい注射痕があるのを、美名は確認した。
いったい、どこで薬物を手に入れたのだろうか。非社交的な唯介は、パート勤務先以外にはあまり人と接する機会はないはずだ。それとも、真子と再婚する前に、誰も知らない交友関係があって、それが今も続いているのだろうか。
もちろん唯介の行為は言語道断だ。しかし、実母が継父を裏切っているということに、母と血の繋がっている美名は、強い負い目を感じていた。酒もタバコもやらない唯介にしてみれば、配偶者に裏切られ続けている日常を過ごすためには、それもやむを得ないのかもしれないとも思う。そもそもの問題は、唯介にはない。唯介は被害者なのだ。
唯介がどの程度、薬物に依存しているのかはわからないが、中毒による奇行は見られない。もちろん警察に見つかれば、唯介は逮捕されるだろう。
兄はひきこもり、母はよそに男をつくり、一見するとまともな父は、違法な薬物を使用している。かように、実質的に城岡家は、機能不全などという言葉ではとうてい足りないほど、完全に破綻している。破綻し切っている。家事放棄やネグレクトやDVのような、不幸ではあってもありがちな家庭崩壊パターンのほうが、まだマシなんじゃないかとすら思える。
しかし、唯介と真子が仮面をかぶりつつも夫婦を続け、唯介の薬物が誰にもバレず、兄が部屋から出ずただ死なずにいてくれれば、現状は維持できる。ただちに致命的な悪影響を及ぼすようなものではないのだ。美名はそう思って、この地獄のような家庭で高校卒業までを耐えて過ごすことを決意した。
大学に進学したら一人暮らしを始めて、卒業後は家族とは完全に縁を切ろう。それ以外に、自分の人生を正常化する道はないのだ。
もう寝よう、そう思って美名は布団を頭までかぶった。
その直後、いきなり天井のほうから、「パン」という、まるでおもちゃの鉄砲のような音が聞こえてきた。かぶった布団から顔を出して、あたりを見回す。特に何も変化はない。それほど重くはない何かが、天井裏に落ちてきたような音だった。
なんだろう。気のせいだろうか。それとも、理佐が言っていた謎の怪奇音とは、これのことだろうか。
少しずつ全身にめぐっていた眠気が、一気に吹き飛んだ。
息をひそめて、じっと天井を見つめている。絶えず降り続いてる雨が軽く風にあおられて、ときおり弱く窓ガラスを叩いている。
いきなりスマホが、電子音を発した。
その音に驚いた美名は、ベッドの上に横になったまま身体を一瞬振るわせた。スマホをサイレントモードにするのを忘れていたと、数秒経ってからようやく自覚する。
起き上がって、暗い部屋のなかまぶしく光ったスマホの画面を見る。午前0時30分をすでに過ぎていて、いつのまにか日付けが変わっていた。
SNS専用アプリが、「新規フレンド申請1件有り。承認しますか?」というポップアップが表示されている。
新たにフレンド申請してきたのは、園田北斗だった。ユーザー名も本名を使ってあるようだ。
すぐに申請を承認すると、間を置かずメッセージを着信した。
”ありがとう。園田北斗です。同じクラスの牧場莉乃さんからアカウント教えてもらいました”
”うん。お昼に莉乃から言われました”
”いきなりなんだけど、僕と付き合ってくれませんか?”
「え?」思わず声が出た。
まさかこんなに急に告白されるとは、思いもしなかった。いずれ告白されるにしても、それなりの期間メッセージのやりとりをして、とりあえず友達として仲良くなってのことだと想像していた。
メッセージにはすでに既読のアイコンが付いてしまっている。読んでないと言い張ることもできそうにない。
しばらく考えてから、「すぐに返事はできません。少し考えさせてください」と送った。
2
翌日、朝方まで続いた土砂降りが嘘だったかのような、雲ひとつない晴天となった。
昼休み、美名はいつものように屋上に向かった。屋上の床は、昨日の名残りの水たまりがところどころにできていて、青い空の色を反射している。
美名と莉乃のほかにも、三年生らしいカップルがフェンスの近くで、まるで遠足のように狭いレジャーシートを広げ、並んで昼食を摂っていた。
「今日、暑いね~。昨日は寒いくらいだったのに。なんで雨降った次の日って気温が上がるのかなぁ。美名もそれ外しちゃいなよ」莉乃がそう言って、美名の首元を指さした。
「うん」
美名は言われた通りにする。学校内で棒タイを外す行為は、服装の乱れということで、教師からの指導の対象となっていた。
「どういう理由があって、こんな暑苦しいものをわざわざ首にまかなきゃいけないのよ。しかも女子だけ。時代錯誤もはなはだしい。こんなの女子に強要するなら、男子もネクタイしろっつーの」
莉乃はブラウスのボタンを上からみっつ外した。その隙間から白い下着がちらとのぞいていたが、気にする様子はない。
ふたりで並んで弁当を食べ終えたころ、莉乃が離れて座っている三年生カップルを横目で見てから、
「ねえ、園田の件はどうなったの?」と思い出したかのように訊いた。
「あ、うん。昨日の夜遅くなってから、申請してきたんだけど……」
「なんて言って来たの?」
口で説明するよりは見てもらったほうが早いと、美名はスマホを出して莉乃に示した。
莉乃は無遠慮にそれをひったくるようにして手に取り、画面をまじまじと眺める。
読み終えると莉乃はスマホを持ってないほうの手のひらを自分の後頭部に当て、
「あっちゃー。なに、アイツもう告白してきたの? ワビもサビもあったもんじゃないね。せめてもうちょっと仲良くなってからでしょ。しかも送ってきたの、夜の12時過ぎてからじゃない。何考えてんのよ、アイツ」と苦り切った顔をした。
「うん」
「でも美名の返事も、『少し考えさせて』って……。まあいいけど、せっかくなんだし、直接会って話してみたらどう? 今から教室に帰って連れてきたげようか?」
美名は立ち上がろうとする莉乃を制して、
「いや、いいの。何しゃべっていいかわからないし」と親友の手を引っ張った。
「そう? 昨日も言ったけど、まあ深く考えず気軽に付き合っちゃいなよ。それとも、園田のこと嫌い?」
「いや、別に嫌いってわけじゃないけど……。好きか嫌いかの以前に、まだよく知らないし」
莉乃は美名の顔を覗き込むように、近づいてきた。
「煮え切らないわね。何かあるの?」
「いや、わたしなんかでいいのかなって思って」
莉乃はそれを聞いて、呆れたように「はぁ?」という声を出した。
「それを決めるのは、美名じゃなくて相手のほうでしょ。アイツがいいって言ってんだから、いいのよ」
「うん……」
「もうちょっと自信持ちなよ。美名は校内で二番目にかわいい美少女なんだから」
「二番目って。じゃ、一番は誰なのよ」
「わたし」莉乃は右手の親指で自分の顔を指し示して、笑いながら言った。
美名はそれに苦笑を返す。
「まあ、いいや。どっちにしても、早く返事したほうがいいよ」
「うん。わかった」
そのとき、莉乃のスマホが受信の音を鳴らした。莉乃はポケットからスマホを取り出して画面を操作する。
「もしかして、またオカルトのアプリ?」と美名が訊くと、
「いや、別のやつ。似たようなもんなんだけど。これは怪談じゃなくて、都市伝説のアプリ」
「怪談と都市伝説って、何か違うの?」
「違うよ、違う。ぜんぜん、別」
「どう違うの?」
「え? えっと……、どう違うかと言うと……」莉乃は少しのあいだ考えるようにまばたきを繰り返していたが、「とにかく、違うのよ」と確信を持って断言した。
「で、その都市伝説のアプリも、最新のを配信して来るの?」
「そう。こっちは週に一個だけなんだけどね」
莉乃はしばらく静かに画面を見て、配信されてきたばかりの都市伝説を読んでいた。すると、何かに納得したかのような表情をした。
「これ、これ。こういうのが都市伝説なのよ。まあ正確には、陰謀論に近いかもしれないけど。短いから、ちょっと読んでみて。怪談とは違うでしょ?」そう言ってスマホを美名に手渡してきた。
「週刊!あなたの街の都市伝説」というアプリが起動していて、青いロゴの下に、黒い背景に赤の文字が並んでいる。
”インターネットの匿名掲示板に投稿された、ある書き込みが注目を集めている。
”書き込みがあったのは巨大掲示板群のなかの、
” 「退職したから好きなことを書くスレPART59」、
”書き込んだ人は、建設会社を退職したばかりで、実はその建設会社が、
”過去に受注したマンションで、長年に渡り不正をやっていたと告発するものだった。
”いわゆる手抜き工事というやつだ。
”実は建設業界では、官公庁の建築物はバレたときに責任を取らされるので手抜きはできないが、
”民間の建物となると、大なり小なり手抜きがあるのが当然で、
”コストを削減して裏金を作るのが業界の不文律となっている。
”なぜ業界はそんな莫大な裏金を必要としているのか。
”それは政府と建設業界が極秘に研究している人工地震兵器の開発に、
”多額の費用を要するからだ。
”この地震兵器は、地球上のあらゆる座標で人工地震を発生させることも可能であり、
”また、これから発生する地震を未然に防ぐ、または震度を弱くするための研究も進められているという。”
あまりに突拍子もない話。美名はそれを読んで、いったい何と感想を言えばいいのかしばらく迷った。
正直に言えば、「有り得ない」の一言ですむのだが、オカルトを趣味にしている親友に対してあまり露骨なことは言えない。
「ふうん」といちおう納得したようなふりをして、スマホを莉乃に返した。
「ね、怪談とはちょっと違うでしょ?」と同意を求めてきた。
「うん、まあ……、違うね。オバケは出てこないし。でもまあ、こういうのって陰謀論よね」
「陰謀論も、広い意味では都市伝説のうちに入るのよ。でも、むかしは陰謀論で片付けられてた話も、後になってから真実だって話もたくさんあるんだから。今も世界の裏側で良からぬ企みをしてる集団が、きっといるのよ」
「人工地震兵器なんて、本当にあるの?」
「もし開発に成功した国があったら、世界最強になれるわよね。まあ、それを信じる、少なくとも信じたふりができるかどうかが、都市伝説を楽しめるかどうかの境界よね」
美名は苦笑して、
「わたしには、無理そう」と言った。
「そう? まあ好き嫌い分かれるだろうから、無理には勧めないけど」
三年生のカップルがレジャーシートを片付けると、ちらと美名と莉乃を横目で睨むように見ながら、校舎内に通じる出入口を通って行った。
「もしかしてわたしたち、お邪魔だったのかな?」美名が少し声をひそめて言うと、
「別に、問題ないでしょ。屋上はみんなのものなんだから。立入禁止だけど」莉乃はまったく気にしていない様子だった。
「それにしても、いろんなアプリあるのね。わたしなんかゲームとブラウザと、SNSメッセージのやり取りくらいしか使わないから」
「美名は使わなすぎよ。年寄じゃあるまいし。検索したらいくらでもおもしろそうなの、出てくるでしょ。しかもほとんどが、アプリ内で課金しなきゃ、無料で使えるものばっかりなんだから。通信量とスマホの容量あまってるなら、とりあえず何でもいいから、入れとかなきゃ損よ」
「うん。……あ、そうだ」
美名は地面に伸ばしていた足を折って、体操座りの格好になった。
「どしたの?」
「こんなアプリないかなぁ。ちょっと長い時間録音したいんだけど、スマホに最初から入ってる録音機能使ってたら、ずっと録音状態にしてないといけなくて、すぐに電池なくなっちゃうでしょ? だから、音が鳴ってるときだけ録音を開始して、音が止んだら自動で録音をストップするようになるような……、そんなアプリ」
「んー、わたしは入れたことないけど、たぶんいくらでもあるでしょ。検索してあげるから、ちょっと待ってて」
莉乃は再び画面に向かって、いろいろと文字を入力した後に画面を上下にスライドさせながら、いろんなページを開いたり閉じたりを繰り返していた。
「あった。これでいいんじゃない?」
莉乃が美名に画面を示す。目を閉じているような顔文字が表示されていて、そのすぐ上には「寝言録音アプリ」とあった。
「このページ、メッセージで送るから、そっちで開いてね」
「あ、うん。ありがとう」
すぐに莉乃のスマホからメッセージを着信して、添付されていた長いURLを開く。さっき莉乃のスマホの画面に表示されていたのとまったく同じものが美名のスマホに表れた。
”寝言録音アプリ
”夜自分が寝ているあいだに、どんな寝言を言ってるか
”知りたい人にオススメのアプリです。
”ICレコーダー替わりに使えます。
”使い方は簡単。
”起動して放置しておくだけ。
”音を感知してない間は省エネモードになるので、
”充電100%の状態から最長12時間は録音可能です。”
ダウンロードを開始するボタンには、「無料」と青地に白抜きの文字で書いてある。
「たぶん、どっかの暇人が作ったフリーのアプリだろうから、機能は限定されるだろうけど、これでいいんじゃない?」
自分の寝言など録音して何に使うんだろうという疑問はあったが、アプリの評価欄に、「このアプリを使って録音したおかげで睡眠時無呼吸症候群であることが確認できました。医師と相談しながら治療していますが、毎日重宝しています」という書き込みを見つけて、美名は妙に納得した。
きっとこのアプリは、美名の望む使い方ができそうだ。
「ありがとう。これ、ダウンロードしてみる」
ボタンを押すと、確認のためのポップアップが出てきて、「OK」を押した。かなり容量の小さいアプリらしく、10秒もかからずダウンロードを終えた。スマホのホーム画面の右下に、吹き出しのなかに「ZZzz...」とイビキをかいているような顔文字のアイコンが追加された。
「どうしたの? 何か録音する用事でもあるの?」
「うん。大したことじゃないんだけど、ちょっと気になったことがあって……」
昨夜、園田からメッセージが来る前に、天井から聞こえてきた怪しげな音のことを思い出すと、軽く背筋に冷たいものが走る感覚があった。
気のせいに違いない、とは思うものの気にならないわけではない。理佐も言っていた天井あたりから聞こえてくる異音とは、いったい何なのか。それを調べるには、録音する以外に方法はない。
校舎のスピーカーから、予鈴が鳴った。美名は外して地面に置いていた棒タイをブラウスの背中に回し、両サイドを引っ張りながら結んだ。
夕方、学校を終えてから、莉乃と本屋に行き、1時間ほど店内を見て回った後、自転車に乗って帰宅した。
マンション一階の自転車置き場に片足スタンドを立てて、マンションのエントランスのほうに向かうと、表の道路からこっちに向かって歩いてくる、白いシャツの上に薄手の水色のカーディガンを羽織った女性がいた。
「美名ちゃん、今お帰り?」
302号室の吉田知子(よしだともこ)――幼いころの美名の友人で、事故で亡くなった聖羅の母――は美名の姿を見つけると、そう言った。
「あ、こんにちは。はい、今帰ってきたところです」
知子は今年37歳で、配偶者の吉田裕次郎も同い年だ。美名の母である真子とは10歳以上離れている。つまり知子は、二十歳のころに聖羅を産んだことになる。
しかし、見た目はずいぶんと老け込んでいて、40代後半あるいは50代にも見える。一人娘の聖羅が交通事故で亡くなった後、ひどく痩せて顔に深いしわが入るようになり、髪の毛にはところどころ白いものが混ざっている。
さすがに娘を亡くして10年以上経過しているため、会えば笑顔になって挨拶もするし互いに快活に受け答えもできるが、やはりどこか影を背負っているようなところがあった。
「美名ちゃんも、もう二年生よね。本当、早いわねえ」
知子は緩慢に口を動かしてそう言った。言外に「うちの子供も生きていたら、同じ高校二年生になってたのよね」と言っているようだった。
「さっきね、聖羅のお墓参りに行ってたのよ。今日、月命日だったから」問われもしないのに知子は言った。
知子は亡くした自分の子供に対する意識を埋めるように、美名に接してくる。美名は自分には聖羅の代わりはできないし、するべきでもないと思っているが、無下に拒否するわけにもいかない。
「もし時間あるなら、あとでウチに来てお線香でも上げてくれないかしら。美名ちゃんが来てくれたら、きっと聖羅よろこぶから」
「あ、はい」
ふたりでエレベーターに乗り込んで、3階のボタンを押す。
すぐに3階に到着して、ドアが開いた。
「それじゃ、一度着替えてから、お邪魔します」302号室のドアの前で、知子にそう告げた。
「うん、じゃあお茶用意して待ってるね」
美名が305号室に入ると、玄関の靴脱ぎ場の向こうに狭く伸びる廊下には、宏司の部屋の扉の前に、食後の食器がお盆に乗ったまま置いてあった。丼鉢の縁ふちに醤油色に染まった米粒が張り付いている。
兄は、今日も生きているらしい。そして、今日もまた部屋から一歩も出なかったようだ。
靴を脱ぎ、そのお盆を手に持ってリビングに行くと、唯介が台所で夕食の支度をしていた。
ダイニングテーブルの上にお盆を置いて、
「ただいま」と声を掛けた。
「あ、おかえり」と唯介は短く言った。
自室に入り、制服のブラウスを脱いだ。そして、黒のショートパンツと青いTシャツに着替えた。
今日一日、湿度が高く暑かったせいか、皮膚に汗の脂が貼り付いているようで、少しベタベタする。ウェットティッシュで、軽く腕や首回りを拭いた。
外はまだ明るいが、時間はすでに午後5時半を過ぎている。
姿見の鏡の前に立ち、襟元の髪の毛を手で触っていると、鏡に映った壁に画鋲で留めてあったカレンダーが、自然落下とは思えない勢いでいきなり床の上に落ちた。
カレンダーは、バン、というまるで叩きつけられたような大きな音を立てた。
ビクッと身体を痙攣させて、後ろを振り返る。
「え?」そう声に出した後、美名は全身が固まった。
床には何も落ちていない。壁にはちゃんとカレンダーが掛かっている。
どういうことだろう。
見間違えたのだろうか。確かにさっき、鏡に映ったカレンダーが床に落ちたはずだ。なのに、また壁に戻っている。
もう一度振り返って鏡を見ると、左右対称になっている以外は何も違わないカレンダーが、やはり壁に掛かったままだ。
幻覚を見たのだろうか。幻聴を聞いたのだろうか。それとも、自分は頭がおかしくなったのだろうか。
壁に近寄って、カレンダーを見る。何もおかしいところはない。「6月」の紙を一枚めくってみる。そこには、青い海と帆を張ったヨットの写真の7月のカレンダーがある。壁に停めてある画鋲は、しっかりと壁に刺さっている。
理佐に聞いた話や、昨日の夜に聞いた謎の異音のことが、いやでも頭に浮かんでくる。やはり幽霊か何か、目に見えない存在がこのマンションをうろついているのだろうか。
きっと、何かの間違いだ。気のせいだ。
気味が悪いが、そう思うしかない。
美名は逃げ出すようにリビングに出ると、唯介がまな板の上のロース豚肉を、包丁の背で叩いていた。ドンドンドン、という低くて鈍い音が台所のシンクを伝って、かすかに床にまで響いてくる。
唯介は調理器具にはこだわりを持っていて、使っている包丁は刃渡り30センチを超える牛刀を使っている。
「あのね、お父さん。さっきそこで、吉田さんに会って、たまにはうちに来てお線香上げてって言われたから、ちょっと行ってくるね」
美名がそう言うと、唯介は手を止めて少し振り向いた。
「お線香……? ああ、そうか。なるほど。行ってらっしゃい。晩御飯は美名ちゃんが好きなトンカツだから、楽しみにしててね」
唯介の後ろ姿は、ここ数か月でずいぶん痩せてきたように見えた。
共有部分の廊下に出て短い距離を歩き、302号室の玄関ドアの前に行きってインターホンのボタンを押した。
「はーい」と言いながら知子がドアを開けた。
知子は美名の姿を見ると、
「ありがとう。さあ入って」と促した。
「おじゃまします」美名はそう言って玄関に入り、靴を脱いだ。
吉田家の仏壇は、美名の住む305号室で言うところの「兄の部屋」に置いている。
知子が仏壇に向かって、
「聖羅ちゃん、お友達の美名ちゃんが来てくれたよ」と発した声が、静かな部屋に虚しく響いた。
美名は小さな仏壇の前に正座をして、線香を二本手に取り、ロウソクで火を点けた。線香を立てると、まるで白蛇のような煙が舞い上がって宙に消えていく。
美名は「浄心聖光童女」と刻んである位牌に向かって手を合わせ、目を閉じた。
仏壇にはチョコレートやクッキーなどの甘い菓子がたくさん供えられていて、位牌の少し手前に聖羅の写真が飾ってある。小学生のころから姿を変えることのない聖羅を見ると、自分は少しずつだが変わっているという実感があった。
「もう10年になるのね。早いわ」と知子が懐かしむように言った。
同じつくりのはずの部屋は、自分の家とはだいぶ印象が異なる。聖羅が死んだとき、吉田夫婦はまだ20代の後半だったはずだが、以降引っ越しするわけでもなく、そして、再び子宝に恵まれることもなく、ずっとふたりで住むには持て余すようなこのマンションに住み続けている。
おそらく、引っ越しやマンションの売却をする気力も失ったまま、今日まで過ごしてきたのだろう。
「お茶持ってくるから、少し待っててね」知子はそう言って部屋を出た。
部屋の片隅には、聖羅がいつも持って遊んでいたぬいぐるみが、壁を背もたれにして座っていた。
302号室は、あのころのまま時が止まっている。
高校二年生の美名には、子供を失う親の気持ちがいかほどのものか、知る術もない。ただそれが正気を失うほどのものであろうことは、美名も学校の制服を着て出席した聖羅の告別式で実感した。
あのとき、聖羅の母親である知子は、葬儀場で子供用の小さな棺桶にしがみつき、半狂乱の姿で泣き叫んでいた。
部屋の扉が開き、知子がお盆の上にチーズケーキと紅茶を乗せて持ってきた。
「どうぞ、召し上がってね」とケーキの皿を美名の前に置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
小型のフォークでチーズケーキの表面を軽く押すと、溶けるように切り取ることができた。
知子は仏壇の前の座布団に座り、飾ってある聖羅の写真に向かって再び、「聖羅ちゃん、美名ちゃんが来てくれたのよ。覚えてるでしょ。仲良しだったふたつ隣の美名ちゃん」と言った。
もちろん、返事はない。
知子は仏壇の前の座布団の上で180度回って座り直し、美名のほうを向いた。
「美名ちゃん、最近学校はどう?」
「ええ……、まあ、がんばってます」美名があいまいに答える。
「今は、どんなお勉強してるの?」
「えっと、最近は数学で微分を習ってるとこです」
「微分って、よく聞く微分積分っていうの?」
「ええ、そうです。積分はまだですけど……」
「そう。美名ちゃんも、もうそんな難しいことを習う歳になったのね。早いわね。部活動はしてないのよね?」
「いちおう茶道部ってことにはなってるんですけど、基本的に自由参加だから、ほぼ帰宅部です」
「あら、そうだったの。せっかく入ってるんだったら、活動すればいいのに。でも、美名ちゃんもお勉強が忙しいし、そういうわけにもいかないわね。学生は学業が本分だわ」
知子は、まるで聖羅が存命していればどんな学生生活を送っていたのだろうか、ということを美名を通して探っているようだった。
それが特にイヤなわけではない。美名も聖羅が生きていなら、どんなふうになっていただろうと想像することがある。きっと今ごろは、莉乃と同じような、もしくは莉乃以上の親友になっていただろう。
しかし、吉田夫婦はまだ30代半ばだし、もう死んだ子の歳を数えるようなことは止めて、前に進むべきではないか、とも思う。
「美名ちゃんは、恋人はいるの? そろそろ好きな人できた?」
「あ、いえ……」
サッカー部の園田からは、あれ以降メッセージの受信はないし、美名から送ることもしていない。でき得るならば、このままほったらかしにして、忘れてくれないだろうか、とも思っている。
「わたし、高校生のころに主人に初めて会って、高校三年の春から付き合い始めてね。そのころから二人でぜったい一緒になるんだ、なんて言ってて、高校卒業すると同時に一緒に住むようになって、気づいたら妊娠してて……。将来のお婿さんに出会うには、早すぎるなんてことはないのよ」
「はい……」
「大学には、進学するのよね。どこの大学に行くの?」
「えっと、まだはっきりとは決めてないんですけど、できれば県外の大学に行きたいなって思ってます」
「そう。寂しくなるわね。帰ってきたら、ウチにも寄ってね」
「おばさん、まだ気が早いですよ。まだ1年以上ありますから」
「ああ、それもそうよね」
出されたケーキを食べながら、そんな話に付き合っているうちに1時間ほどが経過していた。紅茶のカップの中身も、もう残すところ四分の一ほどになった。
そろそろお暇しようか、と思ったが、美名にはこの際302号室に住む知子に訊いてみたいことがあった。
「あの、おばさん。ちょっと、いいですか?」
「うん。なに?」
「301号室の鷺宮さんから聞いて、わたしの部屋でちょっとだけ似たようなことがあったんですけど……、最近このマンション、夜中に天井から変な音が聞こえることが、ないですか?」
「あ……」と、知子は目と口を開けたまま少し固まった表情をした。
何か心当たりがあるのだろうか。
「美名ちゃんも、聞こえるの?」
「昨日、一回だけですけど……、おばさんも聞こえるんですか?」
「うん、3か月ほど前からかな。夜中の1時から2時くらいの間に、天井から何か、ドンとかバンとか、たまにはパーンていう何かが弾けるような音がして……。天井からだけじゃなくて、たまに壁の向こうからも。最初は、303号室の多田さんが、何かドンドンしてるのかなって思って、一回だけ控えめに苦情を入れたことがあるんだけど」
303号室の多田は、こう言っては失礼だが得体のしれない人物だった。近所付き合いは全くないと言っていい。病的なほどガリガリに痩せていて、髪の毛は黒いマッシュルームカット、40代の独身男性だということ以外、ほとんど何も知らない。毎日、夜9時くらいに出掛けて朝方夜が明ける前くらいに帰ってきているようだが、出掛けるか出掛けないかはかなり不定期で、いったい何の仕事をやってるのかもわからない。
頻繁に通販会社の箱を持った宅配便が来ているようだが、それ以外に人が訪れる様子もない。
マンションという建物は、玄関の向こうはプライベートなので、多田がいつ何をやってようが干渉する権利は誰にもないのだが、正直あまり関わりたくないというのが、3階の住人の共通した意識だった。
「そしたら、多田さんがおっしゃるには、『うちは一人で住んでるから、リビングルームともう一部屋しか使っていなくて、302号室に面した部屋は物置代わりに使ってるから、そこから音が隣に漏れるなんてことは有り得ない。何なら部屋のなかを確認しますか?』なんて言ってくるのよ。そこまで強気に出られたら、何も言い返せなくてね」
「え、あ……。そうですか」
「天井のほうも、上の階の人が夜中にドンドンしてるのかなって思って、管理会社のほうに何度か電話したことがあるんだけど、今うちの真上の階の402号室は空き室になってるから、そんなことは絶対にないって言うのよ。ウチの主人も週に何回かは遅勤で夜中に帰って来るんだけど、たまにおんなじような変な音を聞くことがあるみたいで……」
やはり、理佐が言ったとおり、天井や壁を伝うように何かが音を立てているらしい。
しかし、美名には管理会社や隣の多田に苦情を言いに行くほど知子に行動力があったことが、美名には少し意外だった。
「ほかにもね、たまにおかしなことが最近起こるようになってきたのよ」
「え……? どんなこと、ですか?」
「えーっと、台所で洗い物してると、食器棚だけがカタカタ動いたり、家の固定電話が鳴って、取ろうとすると切れて、着信履歴が残ってなかったり、あとテレビの電源が勝手に入ったり、リモコン触ってないのにチャンネルが変わったり……。そんなことが、1か月前くらいからときどきだけど起こるようになってね」
美名はさっき自室で起こったカレンダーの落下を思い出した。やはり、気のせいではないのだろうか。少なくとも、理佐の301号室、知子の302号室、そして美名の305号室で、得体のしれない怪奇現象が発生しているらしい。
そのとき、美名の目の前にあるティーカップが、白いソーサーの上でまるで痙攣するかのようにカタカタと揺れ始めた。
地震だ、と最初は思ったが、すぐに明らかにふつうの地震とは異なると理解した。部屋のなかで、ティーカップ以外のものは何ひとつ揺れていない。仏壇にかざってある聖羅のフォトフレームは、しっかりと安定して立ったままだ。
「キャッ!」と叫び声を上げて、美名は弾かれたように後ろにのけぞった。座ったまま腰が抜けたみたいになり、手で床を抑えていないと上半身の姿勢を保つことができない。
ティーカップはさらに揺れが大きくなり、わずかに残っていた琥珀色の紅茶はカップのなかを左右にかき回されて、撥ねるようにテーブルの上に飛び出してきた。
いきなり、知子がその場に立ち上がり、虚空を鬼のような形相で睨み、
「いいかげんにしなさい! こそこそしてないで出てらっしゃい!」と叫んだ。
すると、ティーカップはまるで死んだかのように動きを止めた。
いったい、目の前で何が起こったのか、理解できない。美名はしばらく床に手をついたまま動けないでいた。
「こんな感じで、一喝すると止むのよ」知子はまた、疲れた中年女性のような表情に戻ってそう言った。
美名はようやく思考を取り戻し、自分の心臓が激しく脈打ってるのを自覚した。
「こんな……、こんなことが、よくあるんですか……?」
「毎日というわけじゃないけど、たまにね。やっぱり幽霊の仕業なのかしらね」
あまりに平然と知子がそう言うので、美名はさらに怖くなってきた。
「お茶、入れ直しましょうか」
知子がティーカップのソーサーを持ち上げようとしたので、
「いえ、いいです。もう帰りますから。ごちそうさまでした。ありがとうございました」
美名は立ち上がって一礼し、逃げるように302号室を辞した。
305号室に戻ると、玄関には母の真子が仕事に行くときに履いているサンダルが、無造作に脱いであった。美名が吉田家に行っているあいだに、帰宅したらしい。
台所では唯介がキャベツの千切りをしていた。中華鍋から揚げ物のパチパチという音が聞こえてくる。
時間は午後6時45分を過ぎたところだった。
「おかえり、もうすぐご飯だから」唯介が言った。
それに何も答えず、美名はいったん自室に入り、充電器をつないだままにしておいたスマホを手に取った。
そしてブラウザを開いて、「ものが勝手に動く 心霊現象」と入力した。
すぐに検察結果が表示される。いちばん最初のものは、wikipediaの「ポルターガイスト現象」というものだった。
”ポルターガイスト現象(ポルターガイストげんしょう)あるいはポルターガイスト(独: Poltergeist)は、特定の場所において、誰一人として手を触れていないのに、物体の移動、物をたたく音の発生、発光、発火などが繰り返し起こるとされる、通常では説明のつかない現象。いわゆる 心霊現象の一種ともされている。
物体の移動としては、主として建物内部に設置された家具や、家具内に収納された日用雑貨などが挙げられる。発生する状況は一貫性が無く、住人が就寝中に移動し、起床後いつのまにか移動しているのを確認されるものもあれば、住民が起きている時に移動し、移動している状況を直接目撃されるものもある。動き方にも一貫性は無く、激しく飛ぶこともあれば、ゆっくりと移動することもある。
「誰もいないのに音が鳴り響く」といったラップ現象も、この現象の一つとして分類する研究者もいる。”
まさに、今さっき美名が目撃し、理佐や知子が言っていた奇怪な異音が発生する現象だ。
心霊現象が、このマンションで発生している。
しかし、いったいなぜ? 美名はこのマンションが新築で分譲されたときから住んでいる。これまでそんな現象はまったくなかった。
唯介に、さっき吉田家で見た現象について、そしてこのマンションで起こってることについて、知らせるべきだろうか。唯介や兄は、このポルターガイストに見舞われたことはないのだろうか。兄とは全くコミュニケーションを取ることがないためわからないが、少なくとも唯介は一度もそれに類するようなことを言っていない。
もし唯介がこの現象をまったく体験していないなら、美名が訴えたところで、一笑に付されるに違いない。下手をしたら、頭が狂ったと思われるかもしれない。
ポルターガイスト現象について、もっと調べる必要が有る。調べたからといって収まるわけではないのだが、そうせざるを得ない。
検索結果のページに戻り、ほかのページをいくつか見ていると、ドアの向こうから、
「美名ちゃん、ごはーん」という唯介の声が聞こえてきた。
「はーい」返事をして、スマホを机の上に置いた。
ダイニングテーブルには、山盛りの白いキャベツの千切りにもたれかかるように置かれたトンカツ、みそ汁の具は豆腐とワカメと大根とエノキダケ、小鉢に盛られたポテトサラダが食卓に整然と並べられた。
唯介がいつものように夕食の乗ったお盆を、引きこもっている宏司の部屋の前まで持っていき、「晩ごはんだよ」と言った。すぐに扉が開いて、お盆は部屋の中に吸い込まれていった。
「美名ちゃん、お母さん呼んできて。ごはんですよって」と唯介が言った。
洗面台に行き手を洗ってから、母の部屋の前で、美名は「ごはんだよ」と声をかけた。
壁を通して「はい」と真子が短く応えた。
椅子に座って並んでいると、すでに寝巻に着替えた真子が出てきて、ダイニングテーブルに着席した。
「いただきます」と唯介が小さく言ったのが合図となって、城岡家の夕食が始まった。
美名は、この三人が揃う夕食の時間が、何よりも苦痛だった。どんなに美味しいものを食べていても、吐き出しそうになる。
家族団欒などという平和な絵面とは似ても似つかない。そもそも兄は食卓に着いてもいない。
美名は真子のことも唯介のこも嫌いではない。しかしふたりが揃って同じ空間にいると、両者ともが憎くさえ思えてくる。
「最近、仕事いそがしそうだね」と唯介が真子に言った。
真子は何も答えず、小鉢のサラダを箸でつまんで口に入れた。
「いつも、お疲れ様。あまり無理しないで」
やはり真子は仏頂面で何も返事をしない。
唯介が真子のコップが空になっているのを見つけて、
「麦茶飲む?」と言った。
真子は「ふんっ!」と鼻で笑うように言ったきりだった。
美名がテーブルの上の麦茶のボトルを手に取って、真子のコップに注いだ。すると、
「あら、ありがとう」と唯介に対する当てつけのような笑顔で美名に応えた。
美名は食が進まない。衣が立っていて上手く揚がっているトンカツには手を付けず、糸のように細いキャベツの千切りを、マヨネーズもつけずに箸で突いた。
「明日は、何時に仕事に行くの? 明日も、ウチで夕食摂れる?」唯介は顔を歪ませながら、まるで神仏にでも懇願するかのように真子に訴えた。
美名が耐え切れず、
「ねえ、お母さん。明日は何時に帰ってくるの?」と聞いた。
すると真子は、
「そうねえ、残業がどれくらいかにもよるけど、明日は早くても夜になると思うわよ」と言った。
「そう……」
喉の渇きを潤すように、美名はコップの麦茶を一気に飲んだ。
唯介が箸をテーブルの上に置いた。
「たまには、メールの返事してほしいな。いつも君から、帰宅する時間だけを送ってくるばかりで、ほかの用事で君からメールをもらったこと、ないから」
真子は唯介を睨みつけると、乱暴にテーブルの上に手に持っていた茶碗を置いてそのまま立ち上がり、ドアが壊れるんじゃないかというほど大きな音を立ててながら、自室に入って行った。
唯介はその真子の姿を見送った後、
「ちくしょう!」と言って、拳でターブルを叩いた。
唯介の手元に置いてあったコップが倒れて、中身がテーブルの上を侵食するように流れ出した。
翌日は土曜日で学校は休みだった。昨晩、ベッドの中に入っていろいろと考えているうちに、いつの間にやら寝ていたらしい。目覚めたらすでに午前11時の少し手前だった。
土曜日と日曜日は、唯介は郊外にあるファミレスに、朝10時から夕方4時までパートに出ている。主夫で料理が得意な唯介はこの仕事を気に入っていて、また休日のファミレスは家族客の来店が多く忙しい割りに時給が安いためパートの定着率が悪いらしく、職場では歓迎されているようだった。
リビングに出ると、焼きそばが盛られた皿がふたつあり、ラップがしてある。皿のすぐそばに「レンジで温めて食べてください」と書き置きがあった。
真子も、仕事なのか不倫相手のところなのかはわからないが出かけているようで、いない。
確認するまでもないが、宏司は部屋にいるだろう。
台所の鍋にはみそ汁があり、炊飯器のなかにごはんも炊けていたが、美名はあまり食欲がなく、すでに昼前であるため、朝食は摂らないことにした。
洗面所に行き、顔を洗って歯を磨いた。自室に戻り、とりあえず黒い薄手のワンピースに着替えたものの、今日も明日も、特に予定はない。家にはなんとなく居たくないので、莉乃を誘ってショッピングモールにでも買い物に行こうか、それとも公園のベンチに座ってゲームでもして過ごそうか、と思ってスマホを探したが、いつも置いてある机の上に置いてあるはずのスマホがない。
探すように辺りを少し見回し、ようやく、インストールした「寝言アプリ」を起動したままのスマホを、本棚の天井の近いところへ置いたままにして寝たのだということを思い出した。
背伸びしてスマホを取り、画面を見ると充電がすでに残り14%になっていた。
とりあえずコンセントから伸びる充電ケーブルを差し込むと、寝言アプリの録音を停止した。すると美名が寝ているあいだに、何らかの音声をキャッチしたらしく、「7件の録音が有ります」という表示が出た。
録音したリストを表示してみると、録音開始の時間と録音ファイルの容量が一覧になって並んでいた。
録音開始 音声ファイルサイズ
01:32 3KB
02:28 28KB
04:17 58KB
04:47 89KB
05:15 140KB
10:57 18KB
11:03 26KB
下の二件は今日の午前10時57分と午前11時03分なので、さっき自分が起きて着替えているときの物音を録音したのだろう。
少し怖いという感情を押し殺しながら、それらを再生してみる。午前10時57分のものは、「あ~」と言う唸り声のような自分の声に続いて、「ゴホゴホ」咳の音が録音されていた。続いて、ドアが開いてしまる音がした。
たしかについさっき、寝起きで喉が渇いていたため、軽く咳をした覚えがある。そしてその後、リビングに出たときの音だ。
午前11時03分のものは、扉をバタンと閉める音に続いて、小さくガサガサという音だった。これはリビングから帰ってきて、着替えているときの音だろうか。
それでは、夜中の1時32分に始まり午前5時04分まで、断続的に録音されている5件のファイルは、いったい何なのだろう。
おそるおそる、それらをひとつずつ再生してみる。
午前1時32分。非常に小さな、バタン、バタンという音が録音されていた。これは美名もたまに聞く、隣の宏司がドアを開けてトイレか風呂に行く音が響いてきたものだろう。宏司はいつも、みんなが寝静まったころにこっそり風呂に入っているらしい。
午前2時28分。「うーん、うーん」という唸り声のようなものに続いて、「次の時間、数学だっけ?」という声が聞こえてきた。最初の唸り声を聞いたときはドキリとしたが、これはどうやら美名自身の寝言らしかった。まさか自分がここまではっきりした口調で寝言を言っているとは想像もしなかったので、誰もいない部屋でひとり少し照れ臭くなった。
残り、三件。これらもきっと、寝言か隣の宏司が何か物音を立てただけなのだろう。
そう思って、午前4時17分のものを再生開始すると、いきなりスマホから、「ドン、ドン、ドン」という小さな音が再生される。まるで、扉を間を開けながらノックしているような音だった。いったい、何の音だろうか。外で何かがあって、その音を拾ったのだろうか。
再生は止まることなく、引き続き「ドンドンドンドン、ドンドンドンドン」という音が続く。それはさらに激しく大きくなっていき、最後には「バーン!」と何かが爆発するような破裂音がして、ようやく止んだ。
「え……、これ、いったい何よ……?」美名は思わずつぶやいた。
朝方の4時にこんな大きな音が自分の部屋で鳴っていたなら、おそらく目が醒めているはずだし、唯介やとなりの部屋の宏司が気が付かないはずがない。
「きっと、何かの間違いよね。素人がプログラミングしたフリーのアプリだから、きっと誤作動しただけ」自分に言い聞かすように美名は言った。
いやな予感を感じながらも、次に午前4時47分のものを再生する。ピーポーピーポーというサイレンと同時に「救急車が通ります」というアナウンスが聞こえてきて、すぐに再生は止まった。昨晩は少し暑く、窓を開けて寝ていたので、表を通った救急車の音を拾ったのだろう。
最後のひとつ、5時15分のファイル。もう朝で、朝5時を過ぎれば6月の空はだいぶ明るくなっているはずだ。これもきっと、救急車か消防車、あるいは窓の外から部屋まで入ってくるような大きな音を拾って録音しただけに違いない。そう思いながら再生ボタンを押した。
再生は始まっているはずなのに、何も聞こえない。おかしい。そもそもこのアプリは音がしなければ録音を開始しないのだから、何も聞こえないはずはない。
やはり誤作動を起こす不完全なアプリなのだろう。もう再生を止めようとしたとき、スマホのスピーカーから小さな音、というよりも声が聞こえてきた。
「アー、アー……」というような、締められた首から息が漏れるような声だった。
美名は気味が悪くなり、スマホの画面を押して再生を止めようとした。しかし、いくら画面の停止ボタンを押しても、音が止むことはなかった。
「アーアーアー……アー」
続けて停止ボタンを連打したが、どのように操作しても、スマホは再生を止めない。画面を壊れてしまうのではないかというくらい強く叩いても、その声が止むことはなかった。あまりの気味の悪さに思わず充電ケーブルを引きちぎるように抜いて、ベッドに向かってスマホを放り出した。
布団の上のスマホからはうめき声が鳴り続け、やがて掠れた声で、次のように発せられた。
「殺してくれ……」
美名は全身鳥肌が立ち、涙が出そうになりながら、気づけば靴を履いて表に出て、301号室のインターホンを押していた。
髪の毛を無造作にポニーテールにした理佐がすぐに出て来た。
「あら、美名ちゃん。どうしたの? 何か用?」
「あの……、すみません。ごめんなさい」何と言っていいかわからない。
何か尋常でないことがあったと察した理佐は、
「まあ、落ち着いて。今日うちの旦那、出張行ってていないから、とりあえず入って」と美名を301号室のなかに導いた。
理佐の部屋のリビングに入り、革製の大きなソファに座った。
「いったい、何があったの?」
とにかく呼吸を落ち着かせてから、美名はさきほど自室で聞いた録音のこと、そして理佐が前に言っていたとおり夜中に天井から不気味な音が聞こえること、そして昨日302号室でティーカップが不自然に揺れたことなどを、時系列がバラバラになりながらも説明した。
理佐は真剣な表情をして、美名の言うことを聞いていた。美名の話を聞いた後、理佐が納得したような表情で、
「そう……、吉田さんのとこも、なのね」と言った。
「はい。昨日の夕方、地震なんてなかったですよね? ほかのものはぜんぜん動かなかったのに、ティーカップだけが動いてたんです」
理佐は立ち上がって、
「とりあえず、何か飲もうか。冷たい緑茶しかないけど、いい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
喉が渇いていたため、美名は出されたコップを一口で半分まで飲んだ。そして大きなため息を吐いた。
「とにかく、怪奇現象と呼ぶしかない何かが、このマンションの三階で発生してるらしいわね。美名ちゃん、その録音したの、わたしにも聞かせてくれる?」
「え……?」
できれば、もうあんな不気味な音など聞きたくない。思い出しただけでも、鳥肌が立ってくる。
「もしスマホ持ってくるのが怖かったら、わたしが305号室まで取りに行ってもいいけど」
いくら怖いと言っても、あそこは自分の家で自分の部屋であり、そしてこれからも使用していかなければならない自分のスマホなのだ。ここから別のとこに逃げて新たな生活を始めるなど、望むべくもない。
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと、持ってきます」
「一緒に行こうか?」
その理佐の提案を、美名は小さく手を振りながら遮り、ソファから立ち上がった。
部屋に戻ると、スマホは変わらずベッドの上にあった。手に取ると、逃げ出すように自分の部屋を出て、301号室に走って戻った。
そして、画面を理佐に見せながら、「寝言アプリ」を起動させる。
「え……? どういうこと?」
さっきはたしかに7件の録音があったはずなのだが、改めて見てみると5件の録音になっている。
4時17分の何かを叩くような音と、5時15分の唸り声の録音が、なぜか消えている。
「そんな……、嘘じゃないんです。本当です」と美名は理佐に訴えた。
「うん。美名ちゃんはこんな嘘つくような子じゃないことは、わたしも知ってる。それに、わたしも実際に夜中に変な音を聞いてるわけだから……」
美名が寝言アプリの設定をいじりながら、なんとか消えた音声ファイルがどこかに残っていないか試してみたが、どう操作してももとに戻ることはなかった。
「理屈に合わないことばかり起こってるわね……。ねえ美名ちゃん、その寝言アプリっていうの、どうやって使うか、わたしにも教えて。わたしもダウンロードして、今晩うちでも同じことやってみる。そして、何かへんなのが録れたら、美名ちゃんにも知らせるから。だから、美名ちゃんの使ってるSNSのアカウントかメールアドレス、教えてもらえるかしら」
「あ、はい」
美名はSNSの画面を表示して理佐に示した。
「さすがにこうも変なことが続いたら、気のせいではすませられないわ。わたしも旦那が帰ってきたら、相談してみる。美名ちゃんも、お父さんかお母さんに話してみたほうがいいかもしれない。信じてもらえないかもしれないけど、わたしが一緒に言ってあげるから」
唯介や真子が、このマンションで怪奇現象が起こってると聞いたら、いったいどんな反応をするだろうか。両親とそういう心霊的な話はほとんどしたことはないが、真子はそういう話を嫌いそうだ、と美名は思った。
しかし、自分だけで、あるいは自分と理佐とのふたりだけで解決できるような問題ではないことは確かだった。
305号室の自分の部屋に戻り、もう一度録音した音声を再生してみる。やはり、ふたつの謎の音声は消去されたままだった。
自分の部屋に限らずこのマンションに居ることじたい、恐怖を感じる。
すぐ隣にずっと引きこもっている兄は、似たような体験はしたことはないだろうか。
廊下に出て、兄の部屋の扉の前で、
「お兄ちゃん、起きてる?」と声を掛けてみたものの、返事はなかった。
眠っているのだろうか。
しかし、このわけのわからない状態のなかで、ひとりでマンションの部屋のなかにいるよりは、ひきこもりとは言えすぐ隣の部屋に兄がいることが、いつもは疎ましく思っているはずなのに、少しだけマシに感じた。
時刻はまもなく昼12時になる。美名は莉乃に、”今ひま?”とSNSのメッセージを送った。
30秒ほどで既読になり、すぐに”お昼からお母さんと買い物行く予定だけど、なに?”と返信があった。
”ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、電話しても大丈夫?”と送ると、既読が付いた後に、美名のスマホが莉乃からの着信を知らせるバイブレーションが始まった。
「どうしたの?」と電話の向こうで莉乃が言う。
「あ、いきなりごめんね。莉乃に教えてもらいたいことがあって……、ちょっと長くなりそうなんだけど、いい?」
「うん、いいけど、何かあった?」
美名は、莉乃ならばこういう話を疑わずに信じてくれるという確信があった。
電話を耳に当て、莉乃にこれまで部屋で発生した怪奇音のこと、昨日302号室で起こったこと、そして寝言アプリで奇怪な音声が入っていたが、それが消えてしまったことなどを説明した。
「うーん……、そこまではっきりとしたことが起こってるなら、ただ事じゃないわね。いちおう、そういうモノが勝手に動いたりする現象は、ポルターガイストって呼ばれてるんだけど」
「やっぱり、そうなの?」
昨日、検索して出てきたワード。やはりこの現象はそれに該当するようだ。
「わりとスタンダードな心霊現象なんだから、まあどこで発生してもおかしくないと言えば、そうなんだけど。でも、最近いきなり始まったっていうのは、何かおかしいわね。これまでは、そんなことなかったんでしょ?」
「うん、全然なかった」
「最近、マンションの中で殺人事件があったり不審死があったりは、ないよね?」
それを聞いて、美名は隣に住んでいる独身男性の多田のことを思い浮かべた。多田が303号室内で、人命に関わる事件を起こしていないとは言い切れない。だが、何の確証もないし、あんなガリガリに痩せた覇気のない中年に、そんなことが可能だろうか、とも思う。
「たぶん、ないと思うけど……」
「ほかの階はどうなの? 美名の家のマンション、たしか5階建てか6階建てでしょ?」
「5階建てだけど、ほかの階の人とはほとんど顔を合わせることがないから、聞いたことはないけど、とりあえず3階以外でそんな話はないと思う」
「そう……。今日はお母さんとこれからモールに行って、晩御飯もそこで食べて帰る予定だから、明日の朝、美名の家に行ってもいい?」
「うちに来るの?」
「うん、ちょっと試してみたいことがあるから」
怪奇現象が起こると聞いて、莉乃はまったく怯んだ様子はない。むしろ強く興味を持ったようだった。いつもはちょっと首をかしげざるを得ないオカルト趣味も、この場合はとてもたくましく感じる。
「わかった。うちの場所、わかるよね?」
「だいたいはね。まあ、迷子になったら電話するから、迎えに来て。それじゃ、明日の朝10時くらいに家出るから、10時半にはそっちに着けると思う」
莉乃がいったい電話から耳を離したらしく、誰かに向かって「はーい」と返事をする声が聞こえてきた。
「ごめん、お母さん呼んでるから」
「あ、こっちこそごめんね。急に」
「気を付けることとして、今日は家のなかになるべく一人にはならないこと。ポルターガイストやラップ音がしても、気づかないふりをすること。まだ心霊現象って確定したわけじゃないけど、下手に霊を刺激したら、一気に取り憑かれかねないからね」
「うん、わかった」
「それじゃ」と言って電話は切れた。
美名は耳からスマホを離して、ディスプレイを見た。画面上部の小さい時間表示は12時23分になっていた。明日の朝、莉乃が来たとして一気に解決するなどという期待は持ってはいないが、マンションの住人以外で相談できる相手ができたことで、少し安堵を覚えた。
翌日の日曜日の朝、唯介が美名と宏司の昼食を用意すると、
「休日は忙しいから、午前のうちに仕込みしとかないと店が昼過ぎにたいへんなことになるから」と言い、10時からの勤務にもかかわらず、9時前にマンションを出てファミレスに出勤した。
美名は食欲がなかったが、とりあえず朝食を食べることにした。
ダイニングテーブルにひとり座りご飯と味噌汁を食べながら、リビングのテレビを点けると、日曜の朝の政治家が出演している討論番組が映った。
テレビ画面の右上の片隅に、「本当に必要?大型ダム総工費2兆円」という字幕が出ていた。
「えー、今議論になっている多目的ダムは灌漑、生活用水、工業用水のみならず、治水効果も見込んでおりまして、現在の堤防その他の設備では、100年に一度の洪水には耐えられないということがわかっております。野党の方々は『水は足りている』ということを建設中止の根拠としておりますが、危機管理の側面があることを是非ご考慮いただきたいと思います。洪水に限りませんが、地震台風その他、我が国は不幸ながらも災害が頻繁するのでありますから、それに対する備えとしては、これまでの公共工事費の水準は決して十分ではないと考えます」
政調会長という肩書きの政治家が、そんなことを言っていた。
昨晩は、結局真子は家に帰って来なかった。最近あきらかに、留守にする頻度が以前よりも多くなっている。
朝食を終えて着替えると、スマホに理佐からのメッセージ受信があった。
”美名ちゃん、昨日さっそくインストールしたアプリを動かしてみたんだけど、こっちは特に異状なかった”
美名はすぐに返信する。
”こちらも異常ありませんでした。実は今日、わたしの学校の友人で心霊現象とかに詳しい人がうちに来てくれることになってるんです”
”そう。わたしの家も見てもらおうかしら”
”たぶん、あと30分くらいで来ると思うから、聞いてみます”
”ありがとう”
そんなメッセージのやり取りをしていると、インターホンが鳴った。
昨日から、小さな物音にも過剰に反応してしまうようになった美名は、インターホンの音でさえも身体が過剰に反応してしまう。
玄関に出てのぞき窓から見ると、ピンク色のやたら派手なTシャツを着た莉乃の姿があった。ドアを開けると、
「おはよ。やっぱここで良かったんだね」と言った。
中学校のころに莉乃を自宅に招待したことは何度かあったが、最近は絶えていた。きちんと部屋の番号まで覚えてくれていたことを、美名は少しうれしく思った。
「おにいちゃん、部屋でまだ寝てるかもしれないから、静かにしてね。お父さんとお母さんは出掛けてるから、とりあえず部屋入って」と言って莉乃をリビングのほうへ招き入れた。
「おじゃまします」と莉乃は小声で言い、靴を脱ぐ。
水色のソファに座ると、莉乃は背負っていた小振りなリュックサックを足元に置いた。
そしてリビングのあちこちを、何かを探すかのように見回してから、
「どう? あれから何かあった?」と言った。
「ううん、特に何も……。301号室の人も、昨日は一晩中寝言アプリを動かしてたらしいんだけど、何もなかったって。どうなの? うち、霊的な何かがいるの?」
「いや、わたしは霊感ないからわからないんだけど、それを調べるために、これを持ってきたのよ」
莉乃はリュックサックのファスナーを開けると、中からデジタル時計のような長方形のモノクロ液晶が付いた、手のひらくらいの大きさの機械を取り出した。
「なに、それ?」
「この前、言ったでしょ。これ、レイガーカウンターって装置なのよ。幽霊が出す特殊な周波数を検知して、幽霊の怨念の強さを測るもの。昨日やっと届いたんだけど、まさかいきなり実戦で使うことになるとはね」
たしか先日、莉乃はそんなことを言っていた。実際に見るその機械は、美名が想像していたものよりはるかに小型で、まるでおもちゃのようだった。
「霊が出す波動にも三種類あってね、アルファ波、ベータ波、ガンマ波って言って、それぞれ特徴が違うんだけど、これは最新のやつだから、三つとも全部測れるのよ」
正直なところ、そのレイガーカウンターという機械が信頼できるかどうかはかなり怪しかったが、ほかに頼るべきものはない。
「ガンマ波がいちばん一般的なもので、いわゆる地縛霊ってやつね。アルファ波はめったに検知することがないんだけど、これは場所ではなく人に憑くタイプのもので、内部から長く悪影響をもたらすものだと言われてるから、いちばんタチが悪いのよ。しかも自己増殖すると言われてる。ベータ波はその中間くらい。でもベータ派は自然環境のなかでもふつうに少しだけ発生してるし、その場所の地面を構成してる鉱物によってはかなり強いのが出るらしいから、これはあんまり参考にならないのよ。それじゃ、アルファ波から計測してみるね」
莉乃はレイガーカウンターのスイッチを入れて、液晶のすぐ下についているボタンを操作した。
しかし、レイガーカウンターの液晶画面に「0.00」という表示が出たものの、その数値は上がるようすはまったくない。
「アルファ波はゼロみたいね。次、ベータ派いくわよ」
ボタンを押すと、液晶が「0.02」を示し、小さい音が「ピ、ピ、ピ」と心電図の音のように周期的に鳴り始めた。
「ベータ波は検知したみたいだけど、これは誤差の範囲内ね。一般的には、どの波も5.00くらいまでは問題ないって言われてるから。これだとむしろ小さいくらいかもしれない。それじゃ、最後ガンマ波いくわよ」
莉乃が液晶の下のボタンを押して、感知する電磁波の種類を切り替えた。
すると、レイガーカウンターはまるで壊れたかのように、「ピピピピピピピ」という警告音を連続して発し始めた。
「え? 何これ。こんなことあるの!?」
美名が液晶を覗き込むと、液晶は「999.99」の値を表示していた。
莉乃は、嘘でしょ、とつぶやいて呆然としてたが、やがて、
「ちょっと、音うるさいから一回電源切るね」と言ってレイガーカウンターの電源を切った。
警告音が止み、広いリビングが異様に静かに感じる。美名は莉乃と顔を見合わせた。
「いったい、何があったの? やっぱり、このマンションやばいの?」美名が尋ねると、
「いや……、さすがに誤作動か故障じゃないかしら……。999.99なんて、有り得ない。もしこの数値が本当なら、直ちに強い悪影響が出るレベルよ。こんなこと、ぜったい有り得ないよ」
「どうすればいいの?」
レイガーカウンターはいったい何を感知したというのだろうか。このマンションに、いったい何が棲んでいるのか。
莉乃は俯いて、うーんと唸ってから、
「とりあえず、ほかの階に行って計測してみて、試してみようよ」と言った。
美名と莉乃は靴を履き玄関を出て、301号室前のエレベーターに乗り、4階まで登った。
そして4階の共用部分の廊下で、莉乃はレイガーカウンターの電源を入れて、ガンマ波の計測を始めた。
液晶は「0.00」を示した。
「故障してないとしたら、4階は安全みたいね。それじゃこのまま、もう一度3階に戻ってみるわよ」
レイガーカウンターを作動させたままエレベーターに乗る。そして3階のボタンを押した。
扉が閉まり、ゆっくりとエレベーターが下降を始める。
すると、また「ピ、ピ、ピ」という警告音が鳴り始め、4階から3階までの短い距離をエレベーターが下るのに合わせるように、その音は大きくなっていく。液晶の数値も、最初は0.05くらいだったものが、すぐに10を超え、3階についてドアが開いたころには、もう100を超えていた。
「どうなってるのよ、いったい!」少し苛立つように言いながら、莉乃は305号室のほうへ向かって歩き始めた。
一歩一歩近づくごとに、液晶の数値はどんどん上昇していく。そして、305号室の玄関を入ったところで、再び999.99になった。
莉乃は少し青い顔をして、美名を見つめた。
「やっぱり、この部屋には何かいる……。でも、999.99なんて、本当に有り得るの? 一般的には、50を超えたらかなり危ないって言われてるんだけど」
美名は背中から腕まで皮膚が粟立った。
レイガーカウンターの電源をいったん落とし、美名と莉乃は305号室を出た。
そして、301号室のインターホンを押した。
「あ、美名ちゃん。どうしたの? 何かわかった?」理佐が出てきて、そう言った。
「いきなり、すみません。こちら、学校の友人の牧場莉乃(まきばりの)さんです」美名はとりあえず莉乃を紹介する。
「あ、おはようございます。はじめまして、鷺宮理佐(さぎみやりさ)です」理佐は改まって莉乃に挨拶をした。
「はじめまして」と莉乃もぎこちなく返した。
「とりあえず、ふたりとも中に入って」
リビングのソファに、莉乃と並んで座った。ソファの前のガラステーブルにレイガーカウンターを置いて、美名はこの機械のこと、さっき305号室であったこと、4階に行くとまったく検知されなかったことなどを説明した。
「これで、そんなことできるの?」理佐はレイガーカウンターを見てそう言った。
理佐もこの機械の信頼性に対しては、半信半疑のようだった。
「とりあえず、電源入れてみます」
莉乃はさっきと同じように、まずはアルファ波から計測し始めた。続いてベータ派。アルファ派はゼロで、ベータ波は限りなくゼロに近い数値が表示される。
「それじゃ、いきます」莉乃はガンマ波の計測に切り替えた。
ピピピピピという警告音が鳴ると同時に、数値は「680.09」になった。美名の部屋よりは小さいものの、有り得ないほど大きな数字だ。
いつもは快活で初めて会う人に対しても気さくに接する理佐が、顔を青くしてレイガーカウンターを凝視している。
「ちょっと、これ持ったまま外に出てもいい?」理佐が莉乃に言った。
「あ、はい」
理佐はまるで奪うかのように乱暴にレイガーカウンターを手に持つと、玄関に向かって歩き始め、サンダルを履いて外に出た。美名と莉乃も理佐の後に続いた。
廊下に出ると、数値は118.00まで下がった。
そのまま、305号室がある廊下の奥へ向かって歩き始める。302号室のドアの前に行くと、数値は300台まで上がり、ドアを通りすぎると100台まで下がった。同じように、303号室のドアの前では、数値が跳ね上がった。そして、305号室の前に行くと、はやくも999.99になった。
「どうやら、3階の各部屋に近くなると、反応が強くなるようね。ちょっと2階はどうなのか、行ってみよう」
理佐は305号室のドアの横にある、ふだんはほとんど使われない非常階段を降り始めた。一歩一歩下るごとに、みるみる数値は下がり始め、2階と3階の踊り場を過ぎたあたりで「0.00」になり、警告音も止んだ。
そして、狭い非常階段でUターンして3階に向かって登り始めると、数値は急激に上昇し始め、305号室の手前でまた999.99になった。
レイガーカウンターの電源を切ると、三人は黙って顔を見合わせた。
「とりあえず、外に行こうか」理佐が言った。
理佐の車に乗せてもらって、マンションから1キロほど離れたところにある、個室が取れる喫茶店に三人で行った。
「ふたりとも、アイスコーヒーでいい?」と理佐が言ったので、
「あ、はい」
「ありがとうございます」と美名と莉乃が続けて応えた。
「何か食べたかったら、遠慮せずに注文してもいいよ」メニューを広げて理佐が言った。
しかし、食欲など全くなかった。
フリルの付いたエプロンを着たウエイトレスにアイスコーヒーを注文すると、3分もかからないうちに運ばれてきた。
「ごゆっくりどうぞ」と言いながら、笑顔のウエイトレスが頭を下げた。
喫茶店のなかには、小さな音量でクラシック音楽が流れている。
「牧場莉乃ちゃん、だったわよね」理佐が莉乃の名前を確認するように言った。
「はい」
初対面であるせいか、莉乃はいつもと違って丁寧な口調になっている。
「莉乃ちゃんはわたしたちよりこういうの詳しいみたいだから、ズバリ聞いちゃうけど、うちには霊がいるの?」
「えっと……、そうですね。そういうことになると思います」
美名は理佐と視線を合わせた。理佐はこれまで一度も見せたことがないような、懐疑と恐怖が混ざったような表情をしている。
「ってことは、最近起こり始めたポルターガイスト現象っていうのだったっけ? 変な音が鳴ったり、物が勝手に動いたりするの、それはその霊の仕業ってこと?」
「断定はできませんが、この状況だとそう考えるのがたぶん妥当です」
理佐は、うーんと唸り声をあげて、アイスコーヒーにガムシロップを入れて、ストローでかき混ぜた。氷がコップにぶつかって、カランカランと音を立てる。
「なんで、いきなりこんなことになったのかしら……? しかも3階だけで。これまで何もなかったのに」
「それは、ちょっとわかりません。でも時間差を置いて覚醒する霊もあるみたいですから」
「時間差って言っても、あのマンションが建ってからもう10年以上になるし、そんなことあるのかしら」
「可能性はある、としか言いようがないです。何かがきっかけで、霊の意識が活性化し始めたのかも……」
「うーん……、その霊ってのがどこの誰だか知らないけど、ずいぶん迷惑なやつよね。まさか、こんなことを大真面目に話さなきゃいけなくなるとは、思いもしなかったわ。でも、わたしも美名ちゃんも吉田さんも、へんな怪奇現象に見舞われてるわけだし、状況証拠から、とにかくこれまでのマンションとは何かが違ってきた、と考えるしかないわね」
理佐は車のキーについた金属製のキーホルダーを手でいじり始めた。
「でも、霊だからと言っても、必ず悪い霊障をもたらすとは限りませんから。なかには、いい霊もいるので」
莉乃がそうは言ったものの、美名と理佐にとっては何の慰めにもなりそうになかった。いくら気味が悪くても、ともかく当面はあのマンションで暮らす以外の選択肢はない。
「お祓いとか、できないの?」と美名が莉乃に尋ねた。
「できないこともないけど……、素人が見よう見真似でやると、返って逆効果になることが多いから、プロに頼まないと。でも、プロと言っても、そのへんの世俗化した神社とかお寺じゃまったく効果がないから、専門家の霊能力者に頼むのがいいと思う」
「莉乃ちゃん、凄腕の霊能力者に知り合いいない?」と理佐が前のめりになって莉乃に訊いた。
「いえ……、いないです。ごめんなさい。雑誌に載ってるような、その筋では有名な人はけっこういるんですけど、みんな遠くに住んでたりで、なかなか難しいと思います」
「そっか。今はまだ、変な物音がしたり、勝手に動いたりするくらいだから、気色悪いくらいですむけど、具体的に何か悪いことが起こり始めたら、どこかの霊能者にお祓いを頼むことも、真剣に考えなくちゃいけないかもしれないわね」
そのまま喫茶店のなかで、1時間を超えて今後の対策などを議論してみたが、明確になっていることがほとんどない以上、どうしようもないという結論にしかならなかった。
とりあえず3階の住人で情報を共有することだけは早急にしなければならないということで意見は一致して、解散することになった。
その後、家に帰る気がまったくしない美名は、莉乃に頼んで一緒にいてもらい、ふたりで商店街のゲームセンターに行ったり本屋に行ったりして時間を潰したが、美名も莉乃も楽しむことはできなかった。
午後7時ちょうどに美名のスマホに唯介から、どこに行っているのか、いつ帰ってくるのかという美名を心配する電話があり、帰宅しないわけにはいかなくなった。
莉乃と「また明日、学校で」と言って別れた。
家に帰って「ただいま」というと、リビングのほうから、
「すぐにごはんだから、手洗っておいで」という唯介の声が聞こえてきた。
真子のサンダルが玄関にあったので、真子も帰宅しているらしい。
洗面所に入って手を洗い、リビングに行く。テーブルの上には、すき焼きの鍋が煮えていた。
美名の帰宅を音で察したのか、すぐに真子も自室から出てきてダイニングテーブルに着席した。
しばらく無言の夕食が続いた後、美名は箸をテーブルの上に置いて、
「ねえ、お母さんもお父さんもちょっと聞いてほしいんだけど……」勇気をふりしぼるように言った。
美名は、吉田家にお邪魔してるときに起こったこと、そして、301号室でも繰り返し怪奇現象が起こっていること、そして今日あったことを唯介と真子に説明した。
「……このマンションの3階に、何か幽霊のようなものがいるのは、間違いないと思う。だからとりあえず、お父さんとお母さんにもそのことを知ってもらおうと思って……」
それを聞き終えてから、最初に口を開いたのは唯介だった。
「そんなバカな。幽霊なんかいるわけないよ。僕もこのマンションのこの部屋で生活してるけど、そんな怪奇現象なんて、一回も起こったことない。美名ちゃんの勘違いなんじゃない?」と少し嘲るように言った。
続いて真子が、
「あなた、頭へんになったんじゃないの?」と責めるような口調で言った。
ふだん美名に対しては普通にしゃべりかける母が、急にそんな敵意があるとも思える態度になったので、美名は一気に泣きそうになった。
真子はかまわず続けた。
「有り得ないわよ。わたし、病院に勤めてるのよ。毎日、人が死んでるような場所で。病室でも霊安室でも、幽霊を見たなんて話、一回もないわよ。そりゃテレビや映画とかのフィクションで、そういう話はあるみたいだけど、実際にはどこの病院でも有り得ない。幽霊なんていないって、科学的に証明されてるのよ。おかしななこと言わないで。鷺宮さんも、何考えてるのかしら。やっぱりあの人ちょっと変よ。親みたいな歳の男と結婚して」
その時、頭上から変な音が聞こえてきた。パリパリパリという、真冬にみずたまりの薄い凍った表面を踏んだときのような音だった。
美名が真上を見上げると、天井に設置してある3つの円形の蛍光灯のうちのひとつが、にわかに痙攣しながら、動いている。
唯介も真子も、箸を持ったままそれを見て、呆然としている。
次の瞬間、いきなり爆発音とともに蛍光灯が破裂し、薄い硝子が粉になって飛び散った。美名の顔にもガラスが降ってきた。
「きゃあ」と真子が悲鳴を上げた。
光っている蛍光灯が残りふたつとなったため、部屋の明るさが3分の2になった。しかし、もっと暗くなったかのように感じる。
唯介と真子が顔を見合わせる。
やっと思考力が戻ってきたらしい真子が、
「なんで、割れたの?」と言った。
唯介も美名も、答えることができない。答えなどわかるはずもない。老朽化してガラスがしぜんに割れたのとは、明らかに違う割れ方だった。
「なんで、割れたの?」真子はもう一度繰り返した。
唯介はそれに答えず、呆然とした顔のまま、
「それ、ガラス入ったかもしれないから、もう食べないほうがいいよ」手に持っていた箸ですき焼き鍋を指さして、そう言った。
「あ、うん」と真子が短く返事をした。
「真空パックのごはんと、レトルトのカレーならあるから、それ食べようか。非常食用に備蓄してたのだけど」唯介が落ち着いた、というよりも力の抜けたような声で言う。
もはや夕食を続けようなどという気持ちは完全に消え去っていたが、唯介は立ち上がって、すき焼き鍋とごはんの入ったお茶碗を台所に下げた。
「なんで、割れたの?」真子は美名を見て、さらに言った。
「わからないよ」と美名は今にも涙がこぼれそうなほどに怯えながら、そう答えた。
唯介がガスコンロの下の扉から、災害があったときに持ち出す避難袋を引っ張り出して、そのなかから食料を取り出した。そして大きな鍋に水を張って温めていると、いきなり背後から、
「うわっ!」という叫び声して、続いてうめくような声で、
「助けて、助けてくれ!」と聞こえてきた。
宏司の部屋のなかからだった。
唯介が駆け寄るように宏司の部屋のドアの前に立ち、ノックしながら、
「宏司くん、どうした、何かあった?」と言った。
中からは続けて「助けて、助けて」という声が聞こえるばかりだった。
美名も真子も、テーブルを立って思わず唯介のそばに近づく。
「開けるぞ」と言って唯介が宏司の部屋のドアを開けた。
なかをのぞくと、大きな本棚の下敷きになっている宏司が、手足ををばたつかせてもがいていた。
床に散らばったマンガ本を踏みながら唯介が近づき、倒れた本棚の両端を手で持って持ち上げた。
宏司が起き上がってその場に胡坐をかくように座ったが、背中が強く痛むらしく、手で押さえている。
唯介が宏司の着ているTシャツをめくったが、脂肪のついた背中には外傷はできておらず、骨や身体の内部に異状はないようだった。
「だいじょうぶ? どこか、強い痛みがあるとこは?」と唯介が宏司に声を掛けた。
「うん……」宏司が曖昧に返事をした。
「何があったの、地震でもあったの……? なんであんな大きな本棚が倒れたの?」真子が独り言のように言った。
「わからない。いきなり本棚がひとりでにガタガタ揺れ出して……」宏司が言った。
唯介が倒れた本棚を戻し、散らばった本を片付けたあと、
「どうだ、これからカレー食べるんだけど、宏司くんも一緒にどうだ?」と言った。
宏司はちょっとあいだ決めかねていたようだが、
「うん」と短く言った。
すでに午後8時を過ぎた。きっかけはかなり異質なものではあったが、蛍光灯が減って暗くなった部屋に、ひさしぶりに城岡家の家族四人が揃って夕食を摂ることになった。
何とも言えない雰囲気のまま、黙ってスプーンを動かしていると、
「ねえ、美名ちゃん。さっきの話、もう一回聞かせて」と真子が言った。
「うん……」
美名はポルターガイスト現象のこと、そしてレイガーカウンターという機械を用いて、このマンションにいるらしい霊の強さを調べたことなど、さっきと同じ話を、さっきより詳しく説明した。
説明が終わると、宏司が無表情で、
「実はね、そんな現象、俺の部屋でも最近起こるようになってたんだよ。窓ガラスが勝手に動いたり、あと、昼間にだれもいないとき、玄関のピンポンがやたら鳴らされていて、部屋の窓から表の廊下をのぞいても誰もいなかったり……。おとついあたりから、やたら本棚がカタカタ動くなと思ってたんだけど、まあいつものことだからと思ってほったらかしにしてたんだけど、まさか倒れてくるとは思わなかった」
真子はそれでも否定するように、
「地震よ、地震。最近多いんだから」と言った。
美名がポケットに入れていたスマホを取り出して、画面を操作した。地震速報のニュースを見ても、この地域で今日は震度1の地震も発生してない。
その日の夜、午前一時を過ぎても美名は布団に入って、充電の少なくなったスマホを操作し続けていた。寝ようと思っても、寝付けない。とにかく、何か情報に接していないと不安だった。
芸能ニュースや短いウェブ小説など、とにかく気軽に読めて何も考えなくてすむような情報のほうがいい。
そういえばこの前、莉乃がダウンロードしてた都市伝説アプリとはどんなものだったか。今はオバケや怪談などの情報には絶対に触れたくないが、バカバカしい陰謀論のようなことを書いてあった気がする。たしか「退職したから好きなことを書くスレ」というものに内部告発があったとか、なんとか。おそらく、仕事を辞めた人が会社の悪口を書いたり、内部告発をするための匿名掲示板なのだろう。
検索すると、その掲示板はすぐに見つかった。ざっと書き込みを見てみると、ほとんどの内容が、本当かどうかはわからないが、セクハラ上司をイニシャルや実名で非難したり、サービス残業の多さをまるで自慢するかのように書いてたりするものだった。
あのアプリに配信された都市伝説の発端である書き込みは、本当にあるのだろうか。
画面をスライドしながら見てると、SNSのメッセージ受信の通知が画面に表示された。
”まだ起きてる?”
園田からだった。
このメッセージを見た以上、既読があちら側についているだろうから、起きていることは既に知られているだろう。無視するわけにもいかない。
”まだ起きてるよ”と返信した。
30秒ほどすると、さらにメッセージがやってきた。
”この前のことなんだけど、そろそろ返事をしてほしいと思って”と顔文字付きであった。
美名は少し悩んだ後、
”わたしでいいの?”と送った。
”うん。城岡さんが好きです”
美名はその画面を見たまま、10分以上も考え込んでいた。
そして、息が苦しくなるほど高速で脈打つ心臓をパジャマの上から押さえながら、意を決して、
”わかった。お付き合いしましょう。お願いします”と送った。
すぐに、
”ありがとう、こちらこそよろしく”と返ってきた。
そのまま眠気を忘れて、しばらく布団のなかでお互いのことを尋ねたり答えたりするうちに、午前2時を過ぎた。もう充電がないから、という理由で、美名からひとまずメッセージを打ち切ることにした。
自分にとうとう恋人ができた。その実感はまだない。
SNSアプリを閉じると、開いたままにしておいたWEBブラウザが画面に出てきた。
眠気はすっかり吹き飛んでしまったため、その「退職したから好きなことを書くスレ」をぼんやり眺める。
そのうち、どうやら例の都市伝説の元ネタとなったらしい書き込みを発見した。
レス番号190
>>189
それじゃ、ヒントだけ。
テ○○○○○スY
Yは地名ね。
もうほとんどバラしちゃったみたいなもんだな。
これで書き込みは最後にする。それじゃ。
ぼんやり読んでいるなかに、そんな書き込みを見て、あやうく見過ごすところだった。
内部告白が示している、X県R市の10年前に建設されたマンション。
「これ、ひょっとしてウチのことなんじゃ……?」
美名の住んでいるマンションは、テンレジデンス山之井という。「テン」というのは分譲販売した会社の名前の「テンリアルエステート株式会社」から取ったもので、この会社が建てたマンションの共通するブランドとなっている。
3
翌日の午後7時を過ぎたころ、301号室のリビングで、マンションの3階の住人が集まり、会合が開かれた。
出席者は鷺宮夫妻と吉田夫妻、そして美名の父母である城岡夫妻の六名が出席した。303号室の多田にも声を掛けようとしたが、インターホンを何度押しても居留守を使っているのか、まったく出て来ず、為す術もない。多田は最近は、あまり部屋から出入りしている様子も見られない。
話し合われた内容は、マンションの3階で頻発するポルターガイスト現象についてだった。
さらに踏み込んで、お祓いをする場合どの霊能力者に依頼するか、そしてその費用をどう分担するか、ということも話し合われ、吉田夫妻、城岡夫妻と理佐は意見が一致していた。しかし、会合の途中で帰宅して話し合いに参加した理佐の配偶者である鷺宮英一郎は、強く反発した。
「ポルノ現象かガソリン現象か知らんが、アホらしい。幽霊なんかおるわけないやろ」最年長で、もはや定年退職していてもおかしくない年齢の英一郎は、関西訛りの喋り方で一同を恫喝するように言った。
その迫力に誰もが縮こまったが、理佐だけは夫に食ってかかるように反論する。
「だって、みんな何かしら変な経験してるのよ。幽霊の仕業かどうかはともかく、普通ではない何かが起こってるのは事実なんだから」
「黙っとれ。ワシはそんなん、一回も遭ったことない。お前ら揃いも揃って、どこぞの悪い宗教にでも騙されてるんとちゃうか。霊能者か拝み屋か知らんが、なんでそんな香具師(やし)にカネ払わなならんねん」
「わたしの貯金から出すんだから、いいじゃない。あなたに何かしてってお願いしてるわけじゃないわ」
「何が心霊現象やねん。幽霊が電磁波を出す? バカも休み休み言え。お前ら全員、文系か。電磁波って何か、学校で習わんかったんか? ほな、電子レンジの中には幽霊が入っとるとでも言うんか。幽霊なんぞ、おらん。おったとしても、実体のないモンが生きてる人間様に危害を加えられるはずないやろ。女学生でもあるまいし、そんなんにカネ使うくらいなら、トンボリ川にでも捨てたほうがマシや」
「何よ、その言い方。このマンションで安心して生活するために必要なお金なのよ!」
「マンション買うたんはワシのカネやろ。なんでお前に口出しされなあかんねん」
親子ほど歳の離れた鷺宮夫妻は、人前も憚らず夫婦喧嘩のような口論を始めた。
吉田知子の配偶者である吉田裕次郎は特に意見を言わなかった。妻である知子にすべてを任せる、というスタンスのようだった。
一言だけ、
「僕には人が死んだ後はどうなるのかわかりませんが、仮におかしな現象を起こしてるのが幽霊だったとして、お亡くなりになった方を弔う気持ちは重要だと思っています」とだけ言った。
この日は合意を形成することはできなかった。
会合が終わった後、唯介が二階、四階、五階の住人にも、それとなく「深夜に騒音がしないか?」ということや「マンションでへんな現象が起こってないか?」ということを聞いて回ったが、全くないという返事ばかりだった。
翌日、吉田裕次郎がマンションの管理会社にも問い合わせて、お祓いの費用は積み立ててある修繕管理費から支出することは可能か、ということを尋ねてみたようだが、まったく相手にされなかった。むしろ、変な噂をマンション内で流すようなことがあったら、それなりの責任を負わなければならなくなりますよ、と穏やかに凄まれた。
美名は学校から帰宅する時間が少し遅くなった。
いつどんな形で心霊現象が発生するかわからない自宅にいることは極力避けたいという気持ちが強かったのもあるが、恋人という関係になった園田北斗と下校するためだった。
園田はサッカー部で活動しているため、帰途に就くのは毎日午後6時半を過ぎてからだった。美名は毎日4時10分前にホームルームの時間が終わってから約二時間あまり、莉乃とおしゃべりをしたり、放課後のクラスで宿題をやったり、校庭で活動してるサッカー部の練習を見たりしながら、時間をつぶしていた。
正直なところ、園田のことが好きだったわけではなかった。ただ、家庭のことも含めて、もう重圧で押し潰されそうになっていたため、誰かに頼りたかった。それだけだった。
美名と園田は、学校から帰る方向が途中まで同じで、分岐点にいたるまでの間ふたりで自転車に乗って約20分、学校や部活のことなどをしゃべりながら帰る、それが恋人らしい唯一の行動だった。
土曜と日曜は園田の部活が他校との練習試合になることが多く、なかなか会えそうにないが、月に一回くらいは二人で会えそうだ、と園田は言っていた。
しかし、本当に自分なんかが人気者とはいえ、普通の高校生である園田と付き合ってもいいのだろうか、という不安はあった。
女子に人気だったサッカー部の園田と美名が恋人の仲になったらしいということは、同学年のあいだでは一気に広まったらしい。二回ほど、名前も知らない女子に廊下ですれ違いざまに軽く睨まれることがあった。
301号室で会合が開かれたちょうど一週間後の月曜日の放課後、美名は学校から自転車に乗って市立図書館に向かった。
梅雨の間の晴れた日で、図書館の自転車置き場に到着すると、15分ほどしか走ってないにもかかわらず、こめかみの横を汗が伝って落ちた。
図書館の二重になっている自動ドアをくぐると、すでに館内は冷房が効いていて長袖のブラウスの袖から冷たい空気が入ってきた。
美名は図書館の貸し出し受付カウンターの前に行くと、デニム生地のエプロンを付けたロングヘアの若い女性職員に、
「すみません。ちょっと、昔の地図を調べたいんですけど」と言った。
「昔の地図? 古地図ですか?」
「いえ、50年前かそれよりちょっと古いか、それくらいのでいいんですが」
「あ、はい。それじゃ、こちらへどうぞ」
職員はカウンター後ろに釘に掛けられている鍵をひとつ手に取ると、カウンターから出てきて歩き始めた。
美名はそのうしろを付いていく。カウンターのすぐ手前にある木製の椅子には、白髪が長く伸びて黒ずんだジャンパーを着ている老人が、机に突っ伏して寝ていた。
学生が勉強をする自習室の横にある、「書庫室C」という扉の前に立つと、職員は鍵を開けて中に入った。書庫室Cは学校の教室ふたつぶんくらいの広さがあり、出入口のすぐ正面に事務用の机が無造作に置いてある。そのほかは、天井まで届く木製の本棚が、人が通る1メートルほどの隙間を残して木立のように並んでいるばかりだった。ところどころに、高いところにある本を取るときの踏み台代わりにするのか、パイプ椅子が本棚に立て掛けてあった。
書庫内は冷房の風が入ってきてないため、古い紙のにおいと混ざった独特の粘り気の空気で満ちていた。
「地図は12番の棚ですね。館内でお読みになるぶんには構いませんが、貸出は不可となっていますので、必要な個所がありましたら、コピーをお取りします。用事が終わったら、またカウンターまでお声がけください」職員は事務的にそう言うと、書庫から出て行った。
小学校6年のころ、美名は唯介に手伝ってもらいながら、夏休みの自由研究で「昔の町と今の町」というテーマで、自分の住んでいる街がどのように変遷していったかを調べて、市の優秀賞をもらったことがあった。
そのときに活用したのが、この図書館だった。図書館には昔発行されて市販されていた地図が、何年ぶんもきちんと保存されている。
自分が住んでいるマンションの敷地が、昔はひょっとしたら墓地や火葬場など、何か曰くのある場所だったのではないか。それがポルターガイスト現象の発生原因になってるのではないか。それを調べるのが美名の目的だった。
先日偶然見つけたマンションの手抜き工事の書き込みのことは、唯介にも真子にも知らせていない。もちろん理佐や知子にも言っていない。
あの内部告発の示す物件が美名の住むマンションだと決まったわけではないし、そもそも匿名掲示板の書き込みの信憑性など、ゼロに等しいと言っても過言ではない。わざわざ知らせる価値もない情報だろう。
美名は書庫の棚から、おそらくは不動産業や建築関係者などのプロが使うような、10センチ以上もありそうな分厚くて重い地図を両手で棚から引き出した。背表紙には「2000年版」とあった。
目次で自分の住んでいる市内「山之井」の載っているページを探して開いた。
当然、そこにはマンションはまだ建っていない。しかし、今とは道路の場所も微妙に異なっているため、その地図ではどのあたりが今のマンションがある場所なのか、なかなかわかりずらい。家から100メートルほど離れたところにある、流域幅5メートルほどの川を目印にして、おおよその場所の目安を付け、今はマンションが建ってる土地の昔の姿を見た。
古い住宅らしき小さい建物が二軒ほど並んでいて、その周りは田んぼを示す地図記号ばかりになっている。今はその場所に住宅は立っていないので、このあたりが今美名が住んでるマンションの場所に違いない。
その地図を閉じて、両手で持ち上げて棚に戻すと、今度は同じ出版社の物の「1960年版」を開いた。唯介も真子もまだ生まれていないころの地図だ。
川の位置を頼りに、また同じように探す。やはり二軒の家が建っているばかりだった。
次に「1950年版」を開いた。これだけ古いものになると、さすがに紙の材質が今のものよりも悪いらしく、ページの端が粉を噴いたように細かい繊維がむき出しになっている。
この地図では、住宅は一軒しかない。どうやら、1950年から1960年のあいだに田んぼを造成して家が建てたらしかった。火葬場や墓場もしくはお寺など、何か心霊現象に関わりそうな建築物は見られない。
これ以上、古い地図はあるだろうか。美名はパイプ椅子を持ってきて椅子の上に立ち上がり、棚の上部を探した。
するとそこにはなんと、「1910年」と書かれた、市内の地図があった。しかし、これまで見た地図の冊子とはずいぶん違い、わずか50ページほどの小さい冊子だった。表紙は、まるでミルクチョコレートのような色に焼けている。
1910年というと、昭和ですらない。大正時代だ。
本を傷めないように気を付けながら、その地図をゆっくり取り出した。そして、可能な限り優しい手つきでその地図を開いた。
今の街の風景とは、似ても似つかない。一面田んぼだらけで、郵便局のあたりに、敷地の広い民家が密集するように建っている。
それよりも美名が驚いたのは、さっきまで目安にしていた川だった。
今は北東の方角から南東へ向かってまっすぐ流れている川は、まるで蛇の腹のように左右に蛇行して描かれてある。川の左右はかなり広く河川敷となっているようで、地図上の河川敷には地図記号が何も描かれていない空間になっている。
「あ、そうだ」独り言を言った。
美名はスマホを取り出して、検索エンジンを開いた。わざわざ地図上の川を目安にしなくとも、スマホで今の地図と比較すればわかりやすい。
やっとそれに気づいて、自宅周辺の地図をスマホに表示させて、1910年の地図の上に並べるように置いた。
今は小規模ながらもきれいな建物になっている小さな特定郵便局は、当時から同じ場所にあるようだった。スマホの地図の縮尺を、古い地図の縮尺とほぼ同じくらいにして、スマホ上の郵便局から自宅までの直線の長さを指ではかり、その指をそのまま古い地図の上に持って行った。
美名の指は、なんと蛇行している川の真上を示した。当たり前だが、1910年の川の上には建物などあるはずもない。
つまり、今マンションが建っている場所は、昔は川で、おそらく大正期か昭和初期にその蛇行している川をまっすぐな形に整備して、その後土地自体は田んぼとなり、田んぼの一部を造成して家が建てられ、10年と少し前に、その古くなった家が取り壊されて今美名が住んでいるマンションが建設された、ということになる。
これより古い地図も残っているのかもしれないが、探しても無駄だ。何せ、それ以前の土地は、ただの川なのだ。美名が想像していたような、墓地や火葬場などあろうはずもない。
もし昔、あの土地で幽霊を生じさせるような何かがあったのだとすると、おそらくその二軒の住宅での出来事ということになるのだろう。
そこで殺人事件かなにかがあったのだろうか。探そうと思えば図書館のなかには古い地方新聞のデータも残ってはいるが、何十年分もの新聞の社会面をひとりで読むのはほぼ不可能だ。
スマホの時計を見ると、すでに午後6時10分になっていた。
美名は地図を棚に片付けると、図書館のカウンターに行き、書庫に案内してもらった図書館職員を見つけ、
「あの、ありがとうございました」と礼を言って軽く頭を下げた。
「もういいですか?」図書館職員はそう言うと、また書庫の鍵を手に取ってカウンターから出てきた。
図書館から外の駐輪場に出ると、日がだいぶ傾いてわずかに赤く色付いていた。
自転車で学校に戻ると、すでに部活を終えて制服に着替えた園田が、体育館裏の自転車置き場で美名を待っていた。
美名は園田のすぐ横に自転車を停めて、
「あ、ごめん。待った?」と言った。
「いや、さっき来たとこだけど。SNSにメッセージ入れといたんだけど、返事が来ないからもう先に帰っちゃったんじゃないかと思ってた」
「え? あ……」
美名はスマホをバッグのポケットから取り出した。自転車を漕いでいるうちに着信があったらしく、気づかなかった。
「あ、既読になった」自分のスマホのディスプレイを見た園田が言った。
園田は部活でさんざん運動したせいか、赤く上気した頰にまだ汗を残こしていて、肌にツヤが出ている。
こうして横に並んでみると、園田は美名よりも25センチほどは身長が高い。肩幅はまるでパットでも入れているかのように広く、よく言えば逞しく悪く言えば威圧感がある。
ここ数日、こうして一緒に帰宅するようになって互いのことが少しずつ理解できはじめていたが、美名には自分が園田の恋人になったという自覚は、まだあまりなかった。
「それじゃ、行こうか」と園田が言った。
「うん」
学校敷地内にある、早くも点灯している街灯の光の真下をくぐって、校門を出た。この時間から下校する学生はほとんどおらず、校舎はもう職員室以外は電気は点いていない。
「明日、ウチのクラスの一限、数学なんだよなぁ。吉井先生、指されて答えられなかったら、今どき正座させられるんだぜ。ちゃんと予習しておかないと。いいよなぁ、城岡さんのところは町村先生で」自転車を漕ぎながら園田が言った。
クラスが違うため、数学の担当の先生は異なる。吉井先生は生徒指導の担当も兼務していて、学校内では特に厳しい先生として有名だった。
「園田くんは、どうなの? 成績のほうは?」
園田がスポーツの面で優れていることは有名だったが、そういえば学業の成績のほうはどうだか、まったくウワサに聞いたことなかった。
「う、それ聞きますか。正直に言って、下から数えたほうが早い」
苦り切ったような顔をしてそういう園田が、なぜか少しかわいく思えたので、美名は笑ってしまった。
「城岡さんは、大学どこに行くか、そろそろ決めてるの?」
「まだ具体的には……。でも、できれば県外に出て一人暮らししたいって思ってる。園田君は?」
「俺は、とりあえずサッカーを続けられれば、それでいいかなって。実は、それだけしか考えてない。でもできれば、城岡さんと同じとこか、近所のとこに行ければいいなって思う」
交差点の手前で信号が赤になったため、ふたりで横に並んで停まった。
目の前を大型のトラックが、轟音と風をまき散らしながら通り過ぎて行った。
「あのね、園田くん」
「何?」
「えっと……、オバケとか幽霊って、信じる?」
園田はその美名の質問に、意表を突かれたという顔を隠さなかった。
「なんか、唐突な質問だなぁ。城岡さんは、そういうオカルトとか興味あるの?」
「いや、ぜんぜんそんなんじゃないけど……、ほら、莉乃ってかなりのオカルト好きじゃない。いつもお昼ご飯いっしょに食べてると、ずっと怪談とか都市伝説の話ばっかりしてるんだよ。だから、ほかの人はどうなんだろう。信じてるのかなって思って」
「そう。正直に言って、ぜんぜん信じてないかな。見たこともないし、テレビとかでやってるのも、たぶん全部ヤラセなんじゃないかな。だいたい、人の怨念が死んだ後も残るっていうなら、世界中怨念だらけになってなきゃおかしいよ。だから、牧場さんみたいに好きな人には申し訳ないけど、普通に考えて有り得ない」
園田のその答えを聞くと、美名はなぜか少し寂しいような気持ちを覚えた。
なぜ自分がそんな気持ちになったか。おそらく、園田が信じる人ならば、今マンションで起こったことを相談しようと期待していたのだ、と美名は瞬時に自分の気持ちを分析した。
「城岡さんは、信じてるの?」
そう問われて美名は、
「いや、ぜんぜん信じてない」と即答した。
信号が青になったので、再び自転車のサドルに乗ってペダルを漕ぎ始める。
「でも、毎日こんな遅く帰ってて、ご両親には何も言われない? 城岡さんは部活やってるわけじゃないのに」
「えっと、ウチちょっと今、家族のなかでゴタゴタしててね……。だから、家に居るのが苦痛なんだ。でもまあ、大したことじゃないし、そのうち解決できそうなんだけど。ウチね、母親がバツイチで、今のお父さんはお母さんの再婚相手で、ちょっと事情が複雑だから……」
「そっか。何か、変なこと言わせちゃったみたいで、ごめん」園田はちょっと俯いた。
「ううんぜんぜん、構わない」
「ということは、今のお父さんは、義理の父親ってことになるんだね。どう? お父さんは、優しくしてくれる?」
「うん……」美名は消え入るような声で言った。
「そう。よかった」と園田は無邪気に笑った。
ふたりは角に小型の本屋がある交差点までやって来た。美名のマンションはここを右折、園田の家はここから真っ直ぐいってさらに3キロほど先にある。
あたりは徐々に暗くなっていて、信号の手前にあるオレンジ色の街灯が夕焼けの残光と混じっている。
「それじゃ、バイバイ」と美名が言って、右手を軽く挙げた。
「ちょっと待って」
園田はそういうと、その場に自転車を停めてサイドスタンドを立てた。
なんだろう、何かまだ言いたいことがあるのだろうか、などと思っていると、園田の顔が上から落ちてくるように迫ってきて、美名の唇に何かが触れた。
緊張した表情の園田の顔が離れて視界に入ってきたとき、ようやくキスされたということに気づいた。
「また、明日」そう言って彼は自転車にまたがると、信号が青になった横断歩道を走り去って行った。
美名はその後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
家に帰って玄関を通ると、リビングの雰囲気が少しだけ変わっていた。天井を見上げると、照明が大きな丸い円盤状のものに変わっていた。
美名の疑問に気づいたのか、
「蛍光灯が割れたついでだから、LEDの照明に交換したんだ。電気代も安くなるし、前のより明るいから」と唯介が言った。
テーブルの上には、夕食のアジフライが用意してある。真子も宏司もテーブルに着席していた。
先日の本棚が倒れたのがきっかけとなって、夕食だけは宏司も部屋から出てきて、一緒に摂るようになった。
「ほら、美名ちゃん。ごはん食べるから、はやく席に座って」と唯介がせかすように言った。
真子は先週の蛍光灯が割れた日以降、家のことが心配になったのか、外泊しなくなっていた。
マンション3階住人の話し合いは、まだまとまっていない。どこかにお祓いを頼もうということは、鷺宮家もなんとか理解してくれたのだが、303号室の多田と連絡が取れくなっていた。
莉乃が持って来たレイガーカウンターによれば、303号室も何かしら汚染されているのは間違いないのだが、多田がどこにいるのかもわからないので、303号室でもほかと同じようなポルターガイスト現象が発生しているのか、知る術もない。
最近は家にいるのかどうかも怪しいくらいに生活音が絶えて、廊下でも姿を見ない。居留守を使っているのか、インターホンを押しても出てこない。
管理会社には303号室の鍵もあるのだろうが、まさかこんな理由で開けてもらうことはなどできないだろう。
そもそも多田がどんな人物なのか、誰も詳しくは知らない。どういう経緯でこのマンションで暮らすようになったのかもわからない。3LDKの間取りは一人で暮らすにはかえって不便なはずだ。
マンション内のポルターガイスト現象は、収まらない。食器棚がカタカタと動いたり、夕方家に帰ると、物の配置が朝と変わっていたりと、ほぼ毎日何かしらの現象が起こっている。
ひょっとしたらそのうちにこの怪奇現象にも慣れて、やがては当たり前のように受け入れられるのではないか、などと最初は思っていたが、やはりいつ何があるかわからない部屋で暮らすのは、常に誰かに監視されているようで気味が悪かった。
土曜日の朝、美名は窓の外のベランダから聞こえる物音で目が醒めた。時間は午前7時になったところだった。となりの303号室から、軽くドンドンという音が聞こえてくる。
パジャマのまま、玄関を開けて外を覗いてみると、303号室の玄関ドアが開いていて、引っ越しの業者らしい緑色の作業服を着た人が出入りしていた。
とりあえず一回部屋に戻り、Tシャツとショートパンツに着替えてもう一度表に出てみると、中年の女が303号室の入り口の前に立って、引っ越しの業者に、
「それはいらない。そっちは運んでください」などと指示を出していた。
女は美名に気づいて、
「おはようございます。こちらにお住まいの方ですか?」と訊いてきた。
「はい、そうですけど……」
「わたし、303号室の住人だった多田克人の姉です。弟がお世話になりました」そう言って女は丁寧に頭を下げた。
「あの、引っ越しなさるんですか?」美名がそう聞くと、
「まあ、そうですね。弟、先週他界したんですよ」と事も無げに言った。
「え? お亡くなりになったんですか?」美名は驚いて言った。
最近は家にいる気配がないとは思っていたが、まさか死んでいるとは。
「はい。ここからちょっと離れたところにある公園で……。本当にバカな弟です。もともと、重度の鬱病を長く患ってまして、病状は一進一退ということだったんですが。どうしても一人暮らしをしたいというので、叔父夫婦はもう高齢者用サービス付き住居に住むのでこのマンションが余るから、ここに住むことを許可してもらったんですが……」
美名は303号室の多田が亡くなってから、多田の姉を通してようやく多田の詳細を知った。
ときおり廊下やエレベーターで見る、痩せ細っていてどこか常に怯えているような様子の多田の姿を思い出した。鬱病だったと聞いて、あの挙動不審も病気のせいだったのだろうか、といまさらながら思う。
「お悔み申し上げます」と美名は言った。
「ありがとうございます。最後まで定期的に通院はしていたようなんですが、数か月前からは別の精神の病を併発してまして」
多田の姉は明言はしなかったものの、どうやら死因が自殺らしいことは美名にも察することができた。多田の姉は、玄関のドアからマンションの中に視線をやって、大きなため息を吐いた。
「ここのところ、幻聴や幻視も見るようになっていたそうなんです。いくら薬を飲んでも一向に回復しなかったようで」
多田が聞いていた幻聴や見ていた幻視とは、もしかしてポルターガイスト現象では? と美名は思ったが、口には出さなかった。ただ、自分でも自覚できるくらいに、眉間に深くシワを寄せた。
「もしかして、弟はお宅にご迷惑をお掛けしていたかしら?」
「いえ、全然そんなことないです」美名は取り繕うように言う。
「弟はいわゆるブラック企業にずっと勤務してて、20代の後半に限界がきて退職した後、何度か未遂をやってましたから、姉としては弟はこうなるより仕方なかった、というより、こうなってむしろ良かったんじゃないかとも思うんですよ……。二回目に失敗して、何とか一命を取り留めて回復したとき、『なんで助けるんだよ』って力なく病院の先生に恨み言を言ってたくらいですから……」
303号室の引っ越し作業は昼過ぎには終了したようだった。多田の姉が3階のそれぞれの部屋を訪問して、「お世話になりました」と丁寧に頭を下げた。
303号室は今も多田の叔父の所有となっているので、しばらくは空き家のままになるらしい。
「ひょっとしたら売却することになるかもしれませんが、まったく未定です」多田の姉は玄関先で唯介にそう言った。
多田の死因がおそらく自殺ということで、3階の各住人はいろいろと複雑な思いを胸に抱いたが、同時にひとつの問題が解決した。
多田と連絡が取れないことが理由で3階の各部屋のお祓いを霊能者に依頼する件は先送りされていたのだが、亡くなった人から費用を徴収するわけにもいかないので、鷺宮家と吉田家と城岡家で負担することになる。
決めるべきは、どこの霊能力者に頼むか、というひとつに絞られた。
検索してホームページを見たり、美名が莉乃から借りてきた雑誌に載ってる情報を見たりして、この問題を解決してくれそうな霊能力者や拝み屋を何人かリストアップしたものの、いったい誰に頼むのがいいのか、見当も付けられなかった。高いお金を払うことになるであろうから、効果がなかったでは済まされない。
なかなか意見の一致を見なかったのだが、ある晩、とうとうためらう一同の背中を押すような出来事が発生した。
雨の降る夜の午前1時過ぎ、「キャア!」という大きな悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の発生源は301号室で、305号室の室内まで聞こえてきたから、かなり大きな声だった。
何事があったのかと、唯介も真子も美名も、宏司までも寝巻のまま共有部分の廊下に出た。
そこには、裸の姿にタオル一枚だけを抱くようにして身体に押し付けている理佐の姿があった。
「どうしたんですか、何かあったんですか?」と唯介が訊いた。
吉田夫妻も廊下に出てくる。
理佐はが全身をガクガクと震わせ、部屋の中を指さして、
「あれ……」と言った。
唯介はゆっくりした足取りで、301号室のなかに入った。
玄関を通り過ぎ、右手にあるバスルームの扉を開けた。出しっぱなしになってるシャワーが落ちる音が、玄関の外まで聞こえてくる。
間もなく中から「うわっ!」という叫び声が聞こえて、唯介がまるで吹き飛ばされたかように廊下に出てきて、床に尻もちをついた。
いったい何があったというのか。美名はサンダルを脱いで唯介のもとに駆け寄った。
唯介はバスルームのほうを見たままアゴを震わせ、上下の歯がガチガチとぶつかる音を立てている。
美名はバスルームのほうを向いた。
バスルームの壁に掛けられたシャワーヘッドの穴から、人間のものらしい長い黒髪が、赤い粘液とともに、生き物のようにうねりながら出てきて、落ちている。バスルームの床は、シャワーヘッドから出てきた髪の毛と粘液で一面、赤黒い何かで埋まっていた。
意識を取り戻すと、自宅のリビングにいた。灯りはついていないが、先日唯介が取り替えたばかりの照明が天井にあるのが目に入ってきた。
夢を見ていたのだろうか。なぜ自分はリビングのソファで寝ているのだろう。
上半身を起こして、壁掛け時計を見ると、すでに午前八時を過ぎている。
「あ、起きた? まだ寝てなさいね」ダイニングテーブルに座っていた真子が、美名に近寄ってきてそう言った。
「何が、あったの?」
「いいから、寝てなさい。学校には休みの連絡入れといたから」
「うん」
ソファに横になっていると、真子から昨晩の出来事を大まかに聞かされた。
昨日、理佐の配偶者である鷺宮英一郎は、いつものようにどこかに酒を飲みに行ったらしく、あの時301号室は理佐ひとりだったこと。美名は301号室のバスルームを覗いた後、叫び声を上げて気絶したこと。その後、305号室に運ばれて、ソファに寝かされたこと。理佐はその後、怯えて301号室には戻れず、302号室の吉田家へ宿泊させてもらったこと、など。
しかしどうにも腑に落ちないことがあった。
「あなたあのとき、大きな悲鳴を上げて倒れたんだけど、いったい何を見たの? ふつうにお湯が流れていただけじゃない。何がそんなに怖かったの?」と真子は言った。
真子は卒倒した美名を助けに行き、301号室のバスルームのなかを覗いたが、そこはただ単に湯気を発しながらお湯が出ているだけだったという。
さらに不可解なのは、理佐と唯介の見たものが、美名の見たものと違っていたことだった。
理佐が言うには、シャワーを浴びようとバスルームに入り、蛇口をひねった瞬間、後ろから誰かに抱き疲れるように首を絞められた感じがした。振り向くと男の人のような形の黒い影が背後に立っていた、という。
唯介が見たものは、バスルームの中を覗くとシャワーヘッドを掛けるプラスチック製の留め具にロープを括り付けて、首つり自殺をしていた男がいた、という。
どちらとも美名が目撃したものとは異なっていた。
しかし、ふたりから詳しく事情を聴きたいとは全く思わない。とにかく、この環境から早く脱したい。
「お父さん、吉田さんのご主人と一緒に、となりの県の拝み屋さんのところに、依頼に行ったから。とにかく、一日でも早くこのマンションに憑いてる何かを払ってもらおうということで意見が一致して、いちばん近いところにいる人に頼もうってことになったのよ」
そのまだ見ぬ霊能力者というのを、信頼しているわけではない。
ただ、今はもう鷺宮英一郎を除く三階の住人すべて、藁にでもすがりたい気分だった。
午後3時くらいになって、朝から霊能者に依頼しに行った唯介がようやくマンションに帰ってきた。
「ごく普通の、木造の古い一軒家だったんだけど、なんかいろいろ凄かった」帰ってくるなり、そんな感想を真子と美名に告げた。
「どう、すごいの?」真子が訊いた。
「まあ、とりあえずこれ、見て」
唯介は手に持っていた、小さい紙を真子に手渡した。まるで地方の観光案内書に置いてあるような、カラー印刷の三つ折りになっている冊子だった。
開くと、縦書きの赤い文字で「照蓮久遠院(しょうれんくおんいん)」と書いてあり、幅一メートル、高さ二メートルほどはありそうな大きな岩に注連縄しめなわが掛かっている写真が載ってある。
その隣のページは、「代表者 須磨義雲(すまぎうん)プロフィール」とあり、「一九七九年 県下の法華宗寺院に産まれる 幼少の頃より霊感が強く 三歳にして」うんぬんと書いてあった。まるで履歴書に貼るような写真も小さく印刷してあった。
霊能力者や拝み屋という、非常にアナログな雰囲気のする職業にはあまりふさわしくないとも感じる、立派な宣伝用の配布物のようだった。メールアドレスやホームページのURLも掲載してある。
美名の背後の扉が開いて、中から宏司が出てきた。物音で唯介が帰ってきたのを知り、やはり唯介が会いに行った霊能者のことが気になるらしく、部屋から出てきて、真子の手元にある紙を遠目で遠慮がちに見た。
「で、どうだったの?」真子が話の続きを促す。
「最初はさすがにちょっと胡散臭いと思ったんだけど、その霊能者の須磨さんが吉田さんを一目見るなり、昔お子さんを亡くしたことを見抜いてね」
「それって、聖羅ちゃんのこと?」美名が言った。
「そう。『もう娘さんのことは忘れて、奥さんとともに新しい生活に向かって歩み始めなさい。それが娘さんの望みですよ』と言ったら、吉田さん、その場で号泣し始めて……。あれは、たぶん本物だ。少なくとも、何かを見抜く強い力があるのは、間違いない」
唯介も、もうその須磨という霊能力者の熱心な支持者になっているようだった。
にわかに信じがたいが、唯介や吉田が嘘を吐く動機などないだろう。
「で、今回のことを詳しく話したら、とりあえず一度現場を見せてください、と言ってね。見ないと、いったい何が憑いてるのか、憑いていたとして祓えるのかどうか、わからないからって。最初の霊視だけは無料でやってくれて、その後に何か対処する必要があれば、別で料金をもらう、みたいなことを言ってた。でも、しばらく予定が詰まっているらしいから、具体的な日にちが決まったら連絡いただけるらしいけど、早くても一週間後になるって言ってた」
「一週間後……」真子がつぶやく。
美名はもう昨晩のような怖い思いはしたくない。思い出すだけでも、頭から血の気が引いて倒れそうになる。
「ねえ、それじゃ一週間、どこかに別のところに泊まらない? ホテルか旅館か。そこから学校に通うから。昼間はともかく、夜は怖いよ」と美名は言った。
「でも、最近はこのへんでも観光客が増えて、たぶん一週間も家族が泊まれるような部屋はきっと取れないわよ」真子が答える。
「それじゃ、どうするの?」
「耐えるしかないわね。とにかく先が見えたんだから、その須磨さんという人を信じて、待つしかないわ」
美名は不満だったが、受け入れるしかない。
「ねえ、ちょっといい」それまで黙っていた宏司が声を出した。
「どうした?」
「俺、ちょっと外出してきても、いい?」
宏司のその発言に、美名は驚いた。ずっと部屋から一歩も出なかった兄が、まさか自分からそんなことを言うとは。
「いいけど……、どうしたんだ?」唯介が言った。
「いや、この前の棚が落ちてきて以来、部屋のなかにいると全然、生きた心地がしないんだよ。不安っていうか……。それに加えて、昨日の騒ぎだろ。とにかく、可能な限り家に居たくないんだ。俺も美名と同じで、このマンションが怖い」そういいながら、宏司は青い顔をしていた。
唯介と真子が目を見合わせて、どういう意味かわからないが、互いにうなずき合った。
「それなら、別に好きにしていいけど、あんまり遅くなるようだったら、ちゃんと連絡してね」真子が言った。
「連絡って言っても、どうするんだよ。俺の携帯電話はもうだいぶ前に解約してしまってるし」
二年間引きこもり、世間とはすっかり隔絶された生活をしていた宏司は、部屋にはインターネットに接続したパソコンがあるものの、外部から誰かと気軽につながれるツールは何も持っていない。
「じゃ、これ」そう言いながら、唯介がポケットから財布を取り出して、小銭をいくらか宏司に渡した。
「あ、ありがとう」
「最近、すっかり公衆電話はなくなったけど、公民館とか役所とか、公的な建物の近所には必ず設置してあるはずだから、何かあったらそこから電話して」
唯介はさらに、財布から何枚か紙幣を取り出すと、押し付けるように宏司に渡した。
「外に出るんだったら、ついでに散髪でも行っておいで。無理にとは言わないけど」
宏司の髪の毛は引きこもっている間に伸びに伸びて、逆に違和感がないほどのロングヘアーになっている。
宏司が玄関の靴箱からほこりっぽいスニーカーを出すと、逃げるようにマンションから出て行った。
太った身体を揺すって玄関から出ていく宏司を見送って、美名はなぜだか少し安心した気持ちになった。
「ねえ、この人すごいじゃない!」いきなり真子が言った。
「何が?」
「ほら、この須磨って霊能者、プロフィール書いてあるけど、お医者さんなんだって。しかも超エリート。博士号持ってるのに、霊能者やってるんだ」
真子は少し興奮しながら、唯介が持って帰った霊能者の小冊子の一行を美名に示した。
そこには、
京都大学医学部卒 医学博士(放射線医学)
大学病院勤務後に、家業を継ぐ
と書いてあった。
ちょうど一週間後の朝、タクシーに乗って霊能者の須磨義雲がマンションにやって来た。本日、霊能力者が来ることは、三階以外の住人には報せてない。報せる必要も、おそらくない。
鷺宮英一郎以外の三階の住人が、学校や仕事を休んで、エレベーターの前で須磨を迎えた。
「みなさん、初めまして。 照蓮久遠院の須磨義雲と申します。本日はよろしくお願いします」やや甲高い声だった。
霊能力者ということで、美名は勝手に和服を着た威風堂々たる人物を想像していたが、まったく異なっていた。身長は160ほどと小柄。須磨は夏のビジネスパーソンのような、半袖の白いカッターシャツにグレーのスラックス、革靴を履いている。手には大きな黒いトートバッグのようなものを提げていた。
街ですれ違っても、この格好をした男を霊能者もしくは医者だと思う人は皆無だろう。
正直なところ、かなり頼りなさを感じたが、すでに一度会っている唯介と吉田は、深々と頭を下げて、
「先生、よろしくお願いします」と言った。
須磨も、膝がしらに手のひらを押し当てながら、丁寧に頭を下げる。それに合わせて、ほかの一同も、少しなおざりながらもお辞儀をした。
「それでは、早速ご案内いただけますか」
まず、理佐が301号室のなかに須磨を招き入れた。玄関は開けっ放しにしていたので、部屋のなかから理佐と須磨が何やら会話を交わしている声が聞こえてきた。
五分も経たず、二人は表に出てきた。須磨はまったくの無表情だった。
続いて302号室を吉田夫妻が案内した。さっきよりは少し時間がかかったようだったが、それでも10分も掛からず終えた。
303号室については吉田が、少し前まで中年の男性が一人で住んでいたが、数週間前に自殺を遂げたらしく今は空き家になっている、ということを告げた。
それを聞くと、
「それじゃ、今は誰もお住まいになっておられないんですね? それじゃ、問題ございません」と言った。
最後に305号室。
唯介が先導して、狭い廊下を渡りながら須磨をリビングに入った。それに続くように、真子と宏司と美名も部屋の中に入る。
須磨は部屋の天井から床までを見回して、「ほう」などという声を何度か上げた。そして、
「こちらに引っ越し始めたのは、いつですか?」と唯介に訊いた。
「マンション分譲の時からです。だから、だいたい10年です」
「ほーう。ということは、先ほどの吉田さんも同じことをおっしゃってましたから、吉田さんと城岡さんは新築のときからずっとこちらにお住まいなのですね」
「ええ、そういうことになります」
須磨が美名の部屋を指さして、
「こちらの部屋、拝見してもよろしいですか?」と言った。
「あ、はい。どうぞ」美名は前に進んで部屋の扉を開ける。
「あ、こちらお嬢様のお部屋でございましたか。失礼しました。けっこうです」
須磨は美名に扉を閉めるようなしぐさをして美名を促した。
「それでは、次は水場を拝見させていただきます」
「あ、どうぞ。こちらです」唯介が洗面所と風呂場に須磨を案内する。
須磨は扉の閉まったままのバスルームを見て、
「ああ、こちらのマンションはみんな、同じ間取りになってらっしゃるんですね。なるほど」と何かに納得したように言った。
「ええ、たぶん最上階以外はみんな同じだったはずです」
「こちらで、何か心霊現象のような、不思議の体験をした方は、いらっしゃいますか?」
「あ、はい」
美名が小さく挙手をすると、宏司と真子も手を挙げ、
「うちはみんな、経験してます。蛍光灯が割れるということがあったので……」
唯介が天井を指して、食事中にあったこと、今は照明は交換済みであることを説明した。続けて、宏司が倒れてきた本棚に挟まれたことを告げる。
美名も、夜中に録れた音声のことや、301号室のバスルームで目撃したことなどを、顔をしかめながら須磨に説明した。
「かしこまりました。とりあえず、ほかの方も表にいらっしゃることですし、一度お出になりましょうか」
廊下に出ると、理佐と吉田夫妻が立って真剣な表情でこちらを見ていた。
城岡一家も表に出て、吉田夫妻の横に一列になるように並んだ。
須磨は乾いた咳払いをすると、誰を見るともなく、
「特に、問題ございません」とあっさり言った。
一同の顔が、拍子抜けしたような、そして呆れたような表情になる。「問題ない」という日本語の意味が、なかなか理解できなかった。
「え?」と美名も声に出した。
「どういうことですか?」知子が言う。
須磨はもう一度咳ばらいをした。
「今のままで、お祓いやお浄めなど、する必要は特にございません。気のせいでございましょう」
三階の住人は首を左右に振りながら、互いに顔を見合わす。
須磨は続ける。
「たしかに、こちらのマンションのすべての部屋で、軽い障りを起こす原因となるものはございます。ただ、子供の軽い悪戯程度のもので、みなさまに大きな害を及ぼすほどのものではございません。せいぜい、少々びっくりするとか鬱陶しいとか、それくらいが関の山です。ようするに、ただちに悪影響を及ぼすものではない、ということでございます」
「そんな、俺なんか本棚の下敷きになったんですよ。影響、大有りじゃないですか」宏司が軽く怒鳴るように言った。
「それで、お怪我はなさいましたか?」須磨は落ち着いて言った。
「あ、いや……、ぶつけてちょっと痛かったくらいですけど……」宏司が口ごもりながら言った。
「そうでございましょう。ほかにも皆様、いろんなことを見たり聞いたりしたようでございますが、実際にはお怪我や、大きな財産的な被害などは被ってないのではございませんか? おそらく、壊れたモノなどもほとんどないはずでございます」
一同、ここ数日間の騒ぎをそれぞれ思い出した。たしかに、須磨の言う通り、物理的な損害はほぼゼロだった。モノが散らばったり怖い体験をしたことにとどまり、誰一人かすり傷ひとつ負っていない。唯一、目に見える被害らしい被害といえば、城岡家で古い蛍光灯が割れてすき焼きを食べられなかったことくらいだ。
「それじゃ、怪奇現象を起こしてる原因はなんなんですか、昔、この場所で亡くなった人の霊とかが悪さをしてるとかですか……?」美名が言った。
「いえ、そうではございません。たしかに、強い念が渦巻いており、それが先ほど申しました軽い悪戯程度の心霊現象を引き起こしてはおるのですが」
「それは、いったい……、その”強い念”って、いったい何ですか?」真子が尋ねる。
「ですから、気のせいでございます」
それを聞いた理佐が、須磨に詰め寄るように一歩前に出た。そして、よく通る大きな声で、
「さっきからアンタ、『気のせい、気のせい』って、何言ってるの! ぶざけるんじゃないわ、そんなんで納得できるわけないでしょう!」と叫んだ。
美名はそれを聞いて思わず肩を縮み上がらせた。
「ちょっと、落ち着いてください」と知子が理佐を止めようとした。
かまわず理佐は叫ぶように言い続けた。
「わたしたち、ローン組んでここを買って、毎月働いたお給料の中から借金返してるのよ。単なる借住まいってわけじゃないの。大事な虎の子の資産なのよ。わけのわからないモノにさんざん怯えさせられて、その理由が”気のせい”で納得できるわけないじゃない。もし仮に、このマンションを売るようなことになれば、大した影響はないって言っても、資産価値がガタ落ちよ。どうすればいいのよ」
しかし、須磨は微動だにしない。
「お鎮まりください。わたくしにも語弊がございました。たいへん失礼いたしました。きちんと説明して差し上げますので、どうぞ、お鎮まりください」
須磨は軽く頭を下げた後、自分の頬をまるで髭の剃り残しを確認するかのように撫でた。
理佐は罰が悪くなったのか、すみません、と言って一歩下がった。
「皆様、生霊というものをご存知でしょうか。『源氏物語』に出てくる六条御息所などが有名ですが」
それぞれ、曖昧にうなずいた。美名も、学校の古文の授業で源氏物語は少しだけ習ったが、生霊が出てくるところは授業には出て来なかった。しかし、そういうのが出てくる箇所が源氏物語のなかにあるということだけは、知っている。
「何も障りを起こすのはお亡くなりになった悪霊とは限りません。生きた人間の強い念が、ときに実体を伴って、現世に作用を及ぼすことがあるのでございます」
「生きた人間って……、誰ですか?」知子が言った。
「さあ、それはわたくしの力では見抜くことはできませんが……。でも、このようなケースですと、ひょっとしたら、皆様ご自身かもしれません」
「え? どういうことですか?」
「あまり具体的にお聞きするわけには参りませんが、こちらにいらっしゃる皆様、心に何か、表には出せないような不安や不満、強い苦しみを日々感じてらっしゃるのではございませんでしょうか」
美名は少し俯いた。学校に行くときに履いているいつもの革靴が、足元で鈍く光って朝の光を反射している。
「ということは、わたしたち自身の生霊が、わたしたちに悪さをしてるってことですか?」理佐が言った。
「はっきりとそう断言はできかねますが、わたくしの見立ては、おおむねその通りでございます」
誰が発したものかわからないが、どこかからため息が聞こえた。
須磨は続ける。
「ですので、先ほど『気のせい』と申し上げました。皆様がこれから、健全な気持ちで生活しておけば、いずれ障りは収まるものでございましょう」
「でも、おっしゃる通り肉体的に直接ダメージを負ってはませんが、精神的には限界です」と宏司が言った。
続けて唯介が言う。
「僕も有り得ないようなものを、見てしまったんですから、もう耐えられそうにありません。どうにかならないんですか?」
「もちろん、祓えないことはないんですが、あまりお勧めできません。なにせ、ただちに影響はないんですから」
「なんとかなりませんか」真子が言った。
「うーん……」須磨は目を閉じて苦り切った顔をしている。
「お願いします」と知子が言った。
須磨はしばらく無言で何かを考えるように俯いていたが、やがで顔を上げ、射抜くような鋭い視線で一人一人の目を見た。
「かしこまりました。しかし、3部屋をお祓いするとなると、丸一日を要する作業となりますし、今日すぐにというわけには参りません。また後日ということになります」
「ほかに頼れる人がいないんです。お願いします」先ほどの剣幕とは打って変わって、理佐が言った。
「一日でも早くお願いします」唯介が言った。
「皆様、そういうことでよろしいですか?」
須磨が一同を見渡すと、全員ほぼ同時に首を縦に振った。
「それではまた後日、具体的な日にちを改めてお知らせいたします。お急ぎのようですから、なるべく早くできるよう調整いたしましょう。しかし……」
そう言って須磨は再び黙ったが、やがて決まりが悪そうな表情で、
「本格的な浄霊の儀式となると、それなりのお気持ちはお納めいただきますが、宜しいでしょうか」
「おいくらですか?」唯介が遠慮せず尋ねる。
「150万円いただきます」
即座に頭のなかで三で割って、一部屋あたり50万円と計算した。高校生である美名にとっては、その金額は大金以外の何物でもない。しかし、このマンションから出て行って、別にアパートを借りて引っ越した場合に要する費用と比較すれば、決して高いものではないのかもしれない。もしくは、さっき理佐が言ったように、「気のせい」で下がる不動産価値のことを考えれば。
「わたし、支払います」と理佐が真っ先に言った。
「ウチも、お願いします」知子が遠慮がちながら言う。
唯介と真子は顔を見合わせて、何やら合図をしていたが、
「お願いします」と唯介が言った。
「承りました。とりあえず、本日はこれでいったんおいとまさせていただきます。先ほど申し上げました通り、また後日連絡いたしますので、お待ちください」
須磨はビジネスパーソンのように頭を下げると、エレベーターに乗って降りて行った。
その日の夜、美名は夕食を済ませた後、まだ午後8時にもなってないというのに、とりあえずこの混乱がどうにかなる見通しが立って少し安心したのか、ベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
そして、夜中の一時を過ぎたころにいったん目が醒めた。ひどく喉が渇いている。
台所に行ってお茶でも飲もうと、起き上がってドアノブを回そうとすると、ドアを隔ててリビングから話し声が聞こえて来た。唯介と真子の声だった。
「どうした? まだ寝ない?」と唯介。
「うん。なんか、目が冴えて」
「部屋でなんかあるの?」
「いや……そういうわけじゃないけど、ちょっとでも物音がすると、あのポルターガイストなんじゃないかと過剰に反応しちゃってね」
「コーンスープでも飲む? インスタントのだけど」
「ありがとう」
ここ何年か、母と継父である唯介が、夫婦らしい会話をしているところを美名はまったく聞いていなかった。なにせ、夫婦関係は完全に破綻し切っていたのだから。ドアの向こうから聞こえてくる二人のおだやかな声が、奇跡を告げる福音のようにも聞こえる。
「最近、仕事どうなの?」
「うん。特に変わりはないんだけど、頼りがいのある同僚が小児科のほうに移動になってね、ちょっとたいへんになったんだけど、まあ、なんとか」
「そう。君に頼りっぱなしで、本当にすまないと思ってる。僕は甲斐性なしだし、最低の人間だよ」
「そんなことないわよ。わたしが稼ぐから仕事やめて主夫やってくれって頼んだの、わたしなんだし。わたしこそ、家のこと全部あなたに投げっぱなしで、遊んでばっかりで、ごめんなさい」
「いいんだよ、気にしなくても」
「本当?」
ふたりの会話を聞きながら、美名は知らず知らずのうちに涙を流していた。嗚咽が漏れないように、ベッドに入って布団を頭からかぶった。
憎しみを通り越して、互いに無関心にすらなりつつあった夫婦が、マンションの怪奇現象を機会として修復されつつある。
ひきこもりだった兄も、伸びに伸びた髪の毛をばっさりと切って、毎日一度はどこかに外出するようになった。
あれほど切に望んでいた家庭の平和が、家族の絆が、こんな形ではあっても、とにかく取り戻せる。
城岡家に、変化が起きつつある。
4
「ねえ、お昼は園田と一緒に食べないの?」
昼休みの屋上で、莉乃が青い空を見上げながら言った。
「うん。1年のときからサッカー部の人たちと食べるのが、習慣になってるんだって」
「そっか。わたしに気を使ってくれてるなら、別に気にしなくてもいいのよ」
「ううん、ぜんぜんそんなんじゃないから」
莉乃は、美名と園田が付き合うことを歓迎してくれた。「自分の彼氏なんだから、遠慮しちゃダメよ。言いたいことをため込むと、いつか爆発して取返しのつかないことになるから」などと恋愛指南してくれたりもする。
学校からの帰途は園田とふたりで下校しているが、昼休みに莉乃と屋上で昼食を摂る習慣には変わりはなかった。
「で、どうなの? うまくいってる?」
「うーん、どうだろう。まだ付き合い始めたばかりだから、あんまり実感ないけど……。明後日の土曜、お昼からふたりでモールに行くことになってて」
「へえ。休みの日はいつも会ってるの?」
「ううん。いつもは土日でもほかの学校と練習試合があるから、ぜんぜん会えない。次の土曜は天気予報が朝から雨だから、きっと中止になるだろうって」
「そっか。それじゃ、雨降ってくれるの願わなきゃね。てるてるぼうずを逆さまに吊ったら雨が降るって、どっかのオカルト本で読んだことあるけど、試してみたら?」
美名は、苦笑して曖昧に返事をした。
「雨の日だけ会える恋人どうしって、なんかロマンチックね。うらやましいわ。むかし、そんな曲あったよね」
莉乃には、今年の春まで前まで付き合っていた同じ学校の二つ年上の彼氏がいた。しかし、その彼氏が進学すると同時に、遠距離恋愛はできそうにない、という理由でフラれたと言っていた。今も恋人はおらず、しばらく作る気もないらしい。
「この前言ってたお祓い、まだなんだよね。いつだっけ?」
「うん、週明けの月曜日ってことになったみたい。なんかわたしも同席してなきゃいけないみたいだから、その日は学校休むね」
「そう」
美名は莉乃に、レイガーカウンターを持って来た日以後のマンションでの顛末を、逐一知らせてある。近場の霊能力者に頼んだと聞いたときはあまり賛成していないようで、「それでうまくいかないようならば、多少遠くて時間かかっても、有名な人に頼んだほうがいいかも」などと言っていた。
「で、その須磨って霊能力者、頼りになりそう?」莉乃が言った。
「うーん……。うちのお父さんもお母さんも、理佐さんも信じ切ってる感じだけど、わたしは正直言って、ちょっと疑問に思ってるとこがあって」
「どういうとこが?」
「無理にお祓いを勧めてこなかったから、わたしたちを騙してお金儲けしようって感じじゃないのは伝わってくるんだけど、言ってたことは『ただちに影響はない』みたいなことを、政治家の答弁みたいに繰り返すだけで、本当かなって思っちゃった」
元医師という経歴はさすがにハッタリではないか、と疑問に思った美名が須磨の名前を検索エンジンでサーチしてみたところ、須磨義雲というのは本名で、放射線が人体とくに細胞の染色体に与える影響を測定した英語の論文が複数出てきた。悪意のある人や嘘を言ってる人でないことはたしかだが、それが霊能力者としての実力を示すとは限らない。
「ただちに影響はない……か。ただちに影響、ねぇ。たしかに、言われて気持ちいい言葉じゃないわね。はっきりしてほしいわね。放置したとして、どれくらい後にどんな影響が出てくるのか」
「うん、それ。そこが引っ掛かってる。今は大丈夫でも、いきなり悪化しだすかもしれないわけだし……。ほかに頼れそうな人はいないから、専門家のあの人に任せるしかないのはわかってるんだけど」
「わたしもそのお祓いする現場、見てみたいけど、さすがに部外者のわたしが学校休んでまで同席するわけにもいかないわよね。どんな様子だったか、あとで教えてよね。……そうだ、明日、レイガーカウンター持って来て貸してあげるから、お祓い終わったら数値下がったかどうか、測ってみてよ。それで、その霊能力者が本物かどうかわかるし」
「うん。わかった」
莉乃は美名に顔を近づけてきて、なぜか小声になり、
「ねえ、全部片付いたら、マンションで起こったことを体験談にまとめて、実話怪談アプリに投稿してみようよ」と言った。
「アプリって、この前の……? こんな話、信じてくれる人いないって」
「まあわたしが書いてあげるから、任せなさい。怖い思いしたら、そうやって物語の思い出にして供養しないとね」
土曜日、予報通りに朝から弱い雨が降り始めた。薄い雲が空に貼り付いているようで、雨の日にしてはずいぶん明るい。
午後、美名は待ち合わせ場所の郊外にあるショッピングモールまで路線バスで出掛けた。
ショッピングモールの2番出入口の前で、往来していく人を眺めているうちに、待ち合わせ時間の午後二時を過ぎた。天候のせいか、いつもは混むはずの土曜なのに人通りは少なめだった。スマホを取り出してみると、いつの間にか園田からメッセージが届いていて、開くと「ごめん、10分くらい遅れます」とあった。
園田は予告通り、ちょうど10分遅れてやってきた。
「ごめん。意外に時間かかっちゃって」そういう言いながら駆け寄ってきた。
園田のジーンズのスソが、雨に濡れて色が濃いくなっている。
「自転車で来たの? 大丈夫だった?」
「いやあ、意外に濡れちゃった。けっこう、難しいんだな。傘指して乗るの」
「傘指し運転、危ないよ。お巡りさんに見つかったら、怒られるよ」
ふたりでショッピングモールの、洋服屋や雑貨屋、外資系のスポーツ用品店などを一通り見て回り、午後三時からは二階の映画館で、スーパーマンみたいなヒーローが活躍するアクションものの洋画を見た。
その後は、園田が軽く空腹を訴えたため、映画館からすぐ外に出たとこにあるフードコートで、コーラと大盛りのフライドポテトを注文し、多少頼りない白い樹脂製の椅子に座って、ふたりで食べた。
ふたりの会話の内容は、さっき見た映画のことだったり、学校や部活やクラスの友人のことなど。
他愛もない普通のデートだが、互いに情報を交換しあいながら、美名は幸福を感じていた。よく考えないまま園田の交際申し込みを受けてしまったが、間違いではなかったと思うようになった。このまま時が止まればいいと思った。
「そういえば、家のことどうなったの? この前、ちょっとゴタゴタしてる、みたいなこと言ってたけど」園田が思い出したように尋ねた。
「あ、うん。もう解決しそうだから。心配かけてごめん」美名は笑顔で答えた。
夕方6時を過ぎ、ふたりは帰宅することにした。
外に出ると雨はすっかり止んでおり、赤い夕陽が湿度とまざって、蒸し暑い。
「もしよかったら、自転車で二人乗りして帰る?」
美名は園田のその提案を、少し迷いながら受け入れた。
帰宅すると、午後6時半を少し過ぎたところだった。台所から、たまねぎをバターで炒めるいい匂いが漂ってくる。
いったん洗面所に行き手を洗ってからリビングルームに行くと、真子と宏司がテーブルの上で何かの資料を出して話し合っていた。
「何見てるの?」
美名もテーブルについてふたりの間に頭を寄せた。
モノクロで文字が印刷されているA4サイズの紙が何枚かあり、宏司の手元には薄い冊子が二冊あった。
「ちょっと自動車の教習所、行って来たのよ」真子が答えた。
宏司の手元の冊子には「××中央自動車学校 入所の手引き」と書いてある。
「お兄ちゃん、免許取るの?」
「うん、まあいい機会だから」宏司は少し恥ずかしがりながら言った。
引きこもって病的に雰囲気を出していた宏司は、外出するようになったおかげかすっかりさっぱりした外見になり、まだかなり太ってはいるものの年相応の青年に見える。
美名は兄が自動車を運転しているところを想像すると、なんだか滑稽で、バレないように小さく噴き出した。
「美名ちゃんも、進路決まったら取りに行かなきゃね。どうせいつかは要るもんなんだから、早いほうがいいわよ。先延ばしににしたら、どんどんめんどくさくなっちゃうんだから」
「うわっ、免許取るのって、高いな。これマジかよ」紙を一枚めくって宏司が言った。
美名もその紙を覗き込むと、「MT 298,000円 AT 288,000円」とある。
「そのATとかMTって何?」美名が訊くと、
「ギアを自分で操作するマニュアル車か、自動で操作してくれるオートマ車か、の違いだよ。うちの車はオートマだけど」唯介が台所で料理をしながら振り向いて言った。
「MTを持ってれば、ATもMTも運転できるけど、AT免許だとMTは運転できないのよ。宏司はMTのほうを取りなさいね。最近は売ってる車もオートマばかりだけど、いつMTを運転する機会がやってくるかわからないから」
「お母さんは、どっちなの?」宏司が訊くと、
「わたしはATだけ。お父さんはMT持ってるのよ」と真子は答えた。
唯介が、おまたせ、と言いながら、テーブルの上にハンバーグの乗った皿を運んできたので、宏司は教習所の資料を重ねてテーブルの端に置いた。
唯介の特製ソースのハンバーグは、専門店のもののようにおいしい。ファミレスでパートをしているというのもあるが、唯介はもともと料理が得意で、和洋中どんなものでもセミプロ級に作ってみせる。
家族揃ってテーブルに着席し、「いただきます」と言って、夕食が始まった。
月曜の朝、お祓いの日。午前8時過ぎに霊能力者の須磨はマンションにやってきた。
前に来たときは打って変わって、まるで時代劇の武士が切腹するときのような白装束に身を包んでいる。手には、何が入っているのかわからないが、かなり膨らんだボストンバッグを持っていた。
前に来たときのスーツ姿では普通のサラリーマンのようだと思ったが、白装束を見ると印象が一気に変わった。まるで、超自然的な力を持っている異界からやってきた存在のように感じる。
「301号室から順番に、ひとつずつお浄めいたしますので、少々お待ちください。最後になる城岡様には、長くお待たせすることになるかもしれませんが、ご容赦ください」須磨は共有部分の廊下でそう言い、頭を下げた。
「だいたい、何時くらいになるでしょうか?」と唯介が尋ねると、
「おそらく早くても午後になると思います」と須磨は答えた。
須磨はもう一度深く頭を下げて、理佐とともに301号室に入って行った。
「ずいぶん、本格的だなあ」宏司が須磨のいで立ちを評して言った。
「午後からになるんだったら、午前中だけでも仕事に出ればよかったわ。無理に言って休みもらったのに」と真子が言う。
唯介が真子をなだめるように、
「まあ、待つしかないよ。こっちが須磨さんに頼んで早くしてもらったんだし」と言った。
「そうね……」
午後二時を過ぎ、日が少し傾き始めたころに、須磨はようやく305号室にやってきた。
301号室と302号室でのお祓いを済ませて、疲労が溜まっているのか、半日経たないうちに少しやつれたように見える。
「お待たせいたしました。それでは、始めさせていただきます」
須磨が深々と頭を下げると、唯介が、
「お願いします」と言ってお辞儀をした。
真子と宏司と美名も、続けて礼をする。
「こちらの、ソファ移動してもよろしいでしょうか。床に座った状態でお浄めの儀式をいたしますので」
「あ、はい。大丈夫です。宏司くん、そっち持って」
唯介と宏司がソファを担いで、窓の手前まで持って行った。リビングのテレビ台の前から台所のテーブルまでの空間が空いたので、ずいぶん広くなった。
「あ、美名ちゃん。わたしの部屋の押し入れにあるから、座布団持ってきて」
「うん」
真子の部屋に入り、美名は座布団を五枚持ってきた。それを一枚須磨に足元に敷いて、
「どうぞお座りください」と言った。
「あ、これは、ありがとうございます。失礼いたします」
須磨のすぐ背後に唯介と真子が座布団を敷いて正座し、その後ろに宏司と美名が並んで座った。
須磨はボストンバッグのファスナーを開けると、糸で綴じた古めかしい本と、ひとつの玉が二センチほどはありそうなゴツゴツした数珠を取り出した。
「それでは始めさせていただきます。お浄めというのは、形式ではございません。とにかく、お鎮まりいただくよう、祈る気持ちのみが大事でございます。わたくし、これから2時間あまりほど、お経のようなものを唱えさせていただきますので、皆様もご一緒にお祈りくださいませ」
両手で手に持った数珠をこすり合わせるように合掌して、じゃらじゃらと音を立たせる。
「ノウマウサンマンダバザラダンカン、ノウマクサンマンダバザラダンセンダンマカロシャダソハヤタヤウンタラタカンマン……」
喉を締め上げたような掠れた声で、須磨が何かを唱え始めた。
美名は思わず宏司の顔をちらと見た。兄は目を閉じて、微動だにしない。何かを祈っているようにも見えた。
須磨は時折り咳き込みながらも、ときに数珠を持った手を上に振り上げるしぐさをしながら、ひたらすお経を唱え続けている。
美名と宏司はしびれる足を何度か左右に動かしたりしながら、正座のままその様子を背後から眺めていた。唯介は開始30分後くらいには足を崩して胡坐になった。
1時間40分ほどが経過して、
「クシャティガルバ オンカカカビサンマエイソワカ オンカカカビサンマエイソウワカ オンカカカビサンマエイソワカ」
うなるようにそう唱えると、須磨はその場に崩れ落ちるように前のめりになったが、すぐに上体を起こしてこちらに振り向いた。
額からは汗が玉になって噴き出していて、頬を伝って汗の粒がひざの上に落ちている。
「以上で、終了となります。ありがとうございました」そういって床に手を着くと、きれいなお辞儀をした。
「ありがとうございました」唯介が頭を下げた。
須磨はバッグのなかから黄色いタオルを取り出すと、汗をぬぐい始めた。
「何か、お飲み物でも……」と唯介が言うと、
「いえいえ、けっこうです。お気持ちだけいただきます」さっきまでとは一変して、明るい声で言った。
真子が立ち上がり、台所の引き出しから封筒を持ってきて、それを須磨の前に差し出す。
「どうぞ、お納めください」
「ありがとうございます。頂戴します」
須磨は相撲取りが手刀を切るようなしぐさをしてその封筒を受け取り、バッグのなかに入れてファスナーを閉じた。
「前にも申し上げましたとおり、こちらの障りを起こしている原因となるものは、それほど強くはなく、ただちに影響があるようなものではございませんでしたが、皆様のご要望により、お浄め差し上げました。おそらく本日以降、これまで起こっていたような現象は止むでしょう。人が人を恨んだり憎んだりする念こそが、最も怖ろしい障りの原因となります。皆様がご先祖様への感謝の気持ちを持ち、ご家族が助け合って日々平和に仲良く生活していくことが、何よりでございます。それを肝にご銘じくださいませ」
須磨はずっと正座していたにも関わらず、その場にさっと立ち上がると、ボストンバッグを手に持った。
「それでは、失礼させていただきます。ありがとうございました。また気になることがございましたら、ご連絡ください」
見送る間もないまま、部屋からさっと退出した。
須磨が居なくなってから、四人はしばらく顔を見合わせていたが、
「どうしよう。吉田さんのとこにでも行って、あっちではどんな様子だったか聞いてみようか」唯介が言った。
「まあ、そこまでしなくても……。でも、鷺宮さんと吉田さんに、『終わりました』とだけ報告はしとくべきよね」
「じゃ、行ってくるよ」唯介が立ち上がって、玄関のほうへ歩いていく。
「あ、そうだ」
美名は自分の部屋に入ると、莉乃から預かったレイガーカウンターを学校のバッグから取り出し、リビングに持ってきた。
「それがもしかして、霊の強さを測る機械ってやつ?」
真子と宏司が興味深げにレイガーカウンターを見た。
「うん。お祓いが終わったら測ってみてって、莉乃が貸してくれたの。ちょっと、動かしてみる」
計測をガンマ波に合わせて、電源を押した。液晶は「0.00」を示したまま、一切動く様子がない。
「え? ウソ」
少しくらいは数値が小さくなっているだろうか、などと思っていた美名にとって、あまりにもあっけなくゼロとなったため、むしろ拍子抜けしてしまった。
宏司も真子も怪訝な顔をする。
「それ、本当に効果あるの?」と宏司が言った。
「本当だよ。前は999.99だったんだよ」
「ってことは、あの須磨さんの力で祓われたってことかしらね。……実際はどうかわからないけど、そう信じることにしましょう」真子が言った。
その日を境に、マンション内でポルターガイスト現象はピタリと止んだ。
マンションの外見は当然なんら変わることはない。しかし一変して心穏やかに生活できるようになった。
「やっぱり、本物の霊能力者だったのね。こんなの今まで信じてなかったけど、こうまで見せられたら信じる以外ないわ」真子がそう感想を漏らした。
6月が終わり7月に入ったが、梅雨はまだ明けない。6月中が例年よりも降水量が少なかったのを埋めるかのように、7月に入っても雨の日が続いた。
お祓いをした次の土曜は、朝方まで雨が降っていたが、午前7時には止んでしまった。
”今日やっぱり試合あるみたいだから。ごめん"
8時過ぎたときに、園田からそんなメッセージが届いたため、デートは中止になった。
「お昼ちょっと用意できなかったから、なんか好きな物これで食べて」
唯介はそう言って千円札を一枚ダイニングテーブルの上に置くと、ファミレスのパートに行ったので、美名は自宅のなかでひとりになった。
真子は朝早く仕事に行った。宏司は自動車教習所に行った。
宏司は教習所の帰りにときどきハローワークに行って求人案内を見てくるようになったらしく、ハローワークで配布している黄色い紙の求人一覧のビラを持って帰ることがあった。高校を中退して長く引きこもり生活をしていた宏司にとっては、職を求めるのは大きなハンデがあったが、本人は「なんとかなるだろう」と楽観的な見通しを持っていた。
何もすることがないので、リビングのソファに寝そべって、テレビを見ながらドライフルーツをつまんでいると、スマホがメッセージの着信の音を鳴らした。
”美名ちゃん、今家に居る? ちょっといい?”という理佐からのものだった。
”だいじょうぶですよ。どしたんですか?”
”もし迷惑じゃなかったら、ウチに来てくれない?”
”はい。今すぐ行ったんでいいですか?”
”うん。お願い”
いったい何の用だろう。そう思いながら、美名はテレビを消して301号室に向かった。
インターホンを押すと、閉じたままのドアを隔てた向こう側から、
「入ってきて。急にごめんね」と理佐の声が聞こえてきた。
「おじゃまします」
玄関でサンダルを脱ぎ、リビングに入った。
台所で理佐が、氷の入ったコップに緑茶を注いでいた。
「今日も、暑いわね。急に、ごめんね」理佐はもう一度言った。
理佐は赤いノースリーブのワンピースを着ている。
「あ、いえ。どうせ暇でしたから」
理佐がソファを指さして、美名に座るよう促した。
ガラステーブルの上に、緑茶のコップが置かれた。
「ありがとうございます」と言って美名は一口飲んだ。
美名の正面に座った理佐は、意味有り気なわざとらしい大きなため息を吐いた。いつも快活な理佐にとっては、あまり似合わないような振る舞いだ。
「どうかしたんですか?」
理佐は少しのあいだ、じっとテーブルの一角を見つめていたが、やがて開いた口からは、意外な言葉が出てきた。
「あのね、わたし近いうち、ここ出ていくかもしれない」
「え、それって、どういう……お引っ越しされるんですか?」
「いやあ……」
そう言ったきりまるで言葉を失ったかのように少しのあいだ黙っていたが、やがて顔に苦笑を浮かべながら、
「離婚するかも」とあっさり言った。
「え、いきなり……。なんで、ですか?」
歳の差のある夫婦だということは知っていたが、理佐とはよくしゃべるものの、その配偶者である鷺宮英一郎のことはほとんど知らない。たまに廊下やエレベーターですれ違うくらいで、会話を交わすこともなかった。出張や留守にしがちなのが多いようだが、どんな職業に就いているのかも知らないし、聞いたこともなかった。
「あのね、ついこないだのポルターガイスト騒動、あったでしょ? 直接の原因はそれだと思うんだけど」
理佐と英一郎が意見対立していることは美名も知っていたが、あれ以降も英一郎は理佐の訴えをまったく相手にせず、それどころかモラルハランスメントまがいに頭がおかしいやつ呼ばわりを繰り返し、ひどく罵られたことなどを、自虐的な嘲笑を浮かべながら美名に説明した。
「まあ、決定的だったのは、霊能力者の須磨さんに大金を支払ったのを、めちゃくちゃに否定されたことかな。実際、美名ちゃんとこもあれ以来、何も起こってないんでしょ? だから結果からみれば、効果があったってことになるんだけど、ウチの旦那はそもそもそういう怪奇現象は全く経験してなかったし……、というか仕事であんまり家に帰って来てなかったんだけどね。だから須磨さんにお祓いしてもらったのが完全に無駄な行為に思えたらしくて。わたしが独身時代に作った貯金から出したんだから、別にいいじゃない、と言ったんだけど、今度はカネの使い方を知らないバカな女だ、なんて言われてね」軽い口調でそう言いながら、理佐は涙ぐんでいた。
美名が黙っていると、理佐はさらに話を続ける。
「自分で言うのもおかしいけど、それまではずっと仲良かったのよ。だから、あれがきっかけね。……いや、今思うと最初から、こうなる気がしてたかもしれない。わたしは初婚だったけど、あの人はわたしとの結婚が三回目で、わたしより少し若いくらいの子供がふたりいるんだけど、結婚を決めた当初からその子供たちに、カネ目当てだのなんだの言われて。わたしの両親にも、そんな年上の男はやめろと強く反対されて、わたしも意固地になったからほとんど絶縁状態になっちゃったし……。やっぱり、たぶん最初から無理があったのよ、自分でも気づかないふりをしていただけで。あの怪奇現象がそれを気づかせてくれたのね」
「そう、ですか……」
コップの中に入っていた氷が解けて、カランという音を立てた。その音が静かな部屋のなかに、不自然なくらいに響いた。
「せっかくお祓いしたのに、出ていくんじゃ無駄になっちゃったなあ」虚空に向かって、理佐は言った。
「ご主人は、その後もここに住み続けるんですか? それともどこかに引っ越しされるんですか?」美名がそう訊くと、
「知らない」と理佐は短く答えた。
もうふたりの仲は修復できないくらいに決裂している、と美名は察した。
「ごめんなさい、へんな話して。でも誰かに聞いてもらいたくても、ほかにも誰もいないから。正式に決まったら、またお知らせするわね。もう少しはここに住んでると思うから、それまではよろしくね」
理佐はそう言うと、手を伸ばしてきて、美名に握手を求めた。美名はその手を軽く握った。
「あ、そういえば!」手を離すと、理佐が叫ぶように言った。
「なんですか?」
「美名ちゃん、彼氏できたでしょ」
理佐は打って変わってニヤついた表情になった。
急にそんなことを言われたので、なんと答えていいかわからず戸惑っていると、
「この前偶然だけど、彼氏と一緒にいるとこ、見ちゃったのよ。すっごいかっこいい男の子じゃない。美名ちゃんもなかなかやるわねぇ。でも、自転車の二人乗りはしちゃダメよ」
午後1時半を過ぎ、美名は唯介が置いていった千円札を持って近くのマクドナルドに徒歩で行った。
店に入ると、休日のためか幼い子供を連れた客で席は混雑していたので、テイクアウトでてりやきバーガーのアイスコーヒーセットを注文した。
美名は午後からも特に予定はなかった。
ポルターガイスト現象が原因となって理佐が離婚になるなど、想像もしていなかった。あれがきっかけとなって、破綻していた夫婦仲が奇跡的に改善した城岡家とは正反対だ。
生きていれば、何が起こるかわからない。雷に打たれる確率も決してゼロではないし、大地震に見舞われて住むところを失うこともあるかもしれない。心霊現象にだって遭う。そしてそれらの天変地異が、家族という利害関係を伴いならがも愛憎が複雑に絡み合う関係にどのような作用を及ぼすのか、あらかじめ予想することなど不可能なのだ。
マンションの出入口まで戻ってきた。テイクアウトの袋の口の隙間からは、フライドポテトの油とてりやきソースのにおいが漂ってくる。
マンションの前に、ふたりの男が立っていた。手前にいる男は身長が高く、手に高級そうなカメラを持っている。その向こうには、小柄で丸刈りの、白のポロシャツに紺色のパンツを履いた男が、手にタブレット端末のようなものを持って、マンションを見上げている。
何かの調査だろうか、と思ってそのふたりの横を通り過ぎようとすると、小柄な男が美名に近寄ってきた。
「あの、すみません。ちょっといいですか。このマンションにお住まいの方ですか?」
あまりにも男が不躾に近寄ってくるので、美名は一歩後ずさった。
「そうですけど……」
「わたし、週刊文潮の記者の渡辺と申します。このマンションのことで、ちょっと取材してまして。よろしいですか?」
これまで雑誌の取材など受けたことのなかった美名は、この渡辺という記者が立ちふさがるように目の前に移動してきたため、思わず立ち止まってしまった。
記者は美名にかまわず続ける。
「あの、インターネット上でこのマンションが違法建築だという内部告発があったということですが、ご存知でしょうか?」
「あ……」
いつか見た、匿名掲示板のあの書き込みを即座に思い出した。マンションの3階でいろいろとややこしいことがあったため、すっかり忘れていた。
「ご存知なんですね?」記者がもう一度聞いた。
「え……、ちょっとだけ、見たことは有りますけど……」
「マンションのほかの住人の方はどうでしょう。何か、マンションの所有者や住人のなかで、ウワサになってることはあるでしょうか?」
「……知りません」
「あなたの部屋の所有者は、あなたのお父さん?」
「え、いえ。たぶん名義は両親の共有名義になってると思いますけど……」
「購入を決めるとき、何かおかしなことはなかったですか? できれば、お父さんかお母さんにも取材の協力を願いたいんですが、今おうちにいらっしゃいますか?」
記者があまりに威圧的に質問をぶつけてくるので、美名は、
「すみません」と言って逃げるようにエレベーターのなかに駆け込んだ。エレベーターの中までは記者は追ってこなかった。
部屋に戻って、テーブルの上にマクドナルドの紙袋を置いたが、食欲は完全に消えてしまった。
週刊文潮と言えば、コンビニや駅でも必ず販売している有名な週刊誌だ。芸能人の不倫ニュースを頻繁にスクープするので、買ったことはないものの美名もその雑誌名は頻繁に目にする。
以前に図書館にこのマンションが建っていた地域を調べに行ったことを思い出した。このあたりは前は田んぼと古い戸建てが建っていて、その前は川だ。
マンションの購入は、新築の10年前。真子が唯介との再婚を決めて、新たな新居としてここに引っ越してきた。当然、もう新築とは呼べない。廊下のコンクリには老人のシミのような斑点がぽつぽつと生じ始めているし、外壁の色も経過年数を示すように微かにくすんで来ている。
美名にとっては10年前のマンション購入に関することなど、知る由もない。このマンションがどのように建築されたのかなど、ただの購入者である真子も唯介も一切知らないだろう。
しかし週刊誌が何かを嗅ぎ付けたとなると、遠くない将来、何かスキャンダルが出るに違いない。
冷めたてりやきバーガーと、しなびて放物線状に曲がっているポテトを無理に食べながら、スマホでずいぶん前に見た内部告発の書き込みを、ブラウザの履歴を辿って再び表示させた。
レス番号190
>>189
それじゃ、ヒントだけ。
テ○○○○○スY
Yは地名ね。
もうほとんどバラしちゃったみたいなもんだな。
これで書き込みは最後にする。それじゃ。
ワンフロア4部屋で5階建て。X県R市のテンレジデンス山之井。
ポルターガイスト騒動があったため、努めて忘れようとしていたが、これに該当する物件が果たして日本中でほかにあるだろうか。やはり、このマンションには何か問題あるのだろうか。
午後5時前に、唯介がスーパーの買い物袋を両手に持ってファミレスのパートから帰ってきた。
唯介は「ただいま」と言った後、美名の姿をリビングに見つけると、すぐに続けて、
「なんかね、表に変な人いたの、知ってる? 週刊誌の記者らしいんだけど、違法建築のマンションの調査をしてるとかなんとか……。何を調べてるのか知らないけど、迷惑な話だなあ」と言った。
「ここ、違法の建物なの?」
「そんなわけないでしょ。ちゃんと行政がチェックしてるはずだし。デベロッパーも、当時やり手の社長として有名になってた『テンリアルエステート』ってベンチャー企業で、今は業態を金融のほうにも広げて営業してるはず。心配ないよ」
「そう?」
玄関が開いて、「ただいま」という声が聞こえてきた。
教習所から宏司が帰ってきた。宏司は唯介に、
「何か飲み物ある?」と聞いて、教習所の学科の教科書が入ったバッグをダイニングテーブルの椅子の上に置いた。
「麦茶でいい?」
「うん」
宏司は唯介が用意した麦茶を一気に飲み干した。
「どうだった?」と唯介が問う。
「ダメっぽい。やっぱり高校中退だと、どこも門前払いみたい」と恨み言のように言った。
もう間もなく、宏司は教習所通いは終わる。教習所での学科試験も一回でパスして、路上教習をあと5回残すのみだった。
その後に働く先を探して、何度か求人の面接にも行ったらしいのだが、たとえバイトの短時間労働でも、高校中退の引きこもりだった宏司を労働者として欲しがる事業者は一社も見つからなかった。
先日街の中心部に近いところにあるガソリンスタンドに面接に行ったときなどは、一見人が良さそうな店長から面接という名の糾弾を受けることになり、ひたすら宏司の人格を攻撃する言葉を2時間近くに渡って投げつけられたらしい。
「採用されない理由が、これまでどこにも採用されず働いたことがないっていうんじゃ、永久に無理だよなあ」怒りと悲しみが混ざったように、宏司は言った。
「残念だったけど、気楽に探せばいいよ。何なら、大検を受けて大学受験してもいいんだから」唯介が言った。
「うん」
宏司はダイニングテーブルの上に空になったコップを置くと、逃げるかのように自室に入って行った。
水曜日発売の週刊文潮に、次のような記事が掲載された。
”スクープ 新興デベロッパー建設のマンション 違法建築の疑い ベンチャー企業の雄 濡れてで粟のインチキ商法”
今を時めく「テンホールディングス」に重大な疑惑が持ち上がった。
テンホールディングスの名前を聞いたことがある人も多いだろう。非上場ながら、金融をはじめ不動産や遊戯場など手広く営業している、ベンチャー企業だ。代表取締役社長を務める山下龍彦氏は若干36歳ながら、やり手の経営者として頻繁にメディアに出演している。東京の高級住宅地に一軒家を構え、フェラーリをはじめ高級スポーツカーを乗り回す派手な生活は有名で、近年は自動車レースのスポンサーにも名乗りを上げている。
今現在はデベロッパー業は縮小し、ネット証券や投資ファンドの運用などの金融業がメインとなっているが、テンホールディングスは創業時は「テンリアルエステート」という企業名で、その名のとおり不動産を取り扱う会社だった。会社設立当初は不動産仲介業、宅建業だったが、しだいに自ら用地を仕入れて販売するようになり、創業3年でマンションデベロッパーとしての活動を始めた。
ベッドタウンとなってる地方都市で、総戸数20~50戸ほどのファミリー向けマンションを開発・分譲することが多く、そのおしゃれな小振りで外観のマンションは子育て世帯に大人気で、申込者多数のため抽選による購入者決定が行われるのが常だった。
しかしそのころに開発して販売したマンションの少なくない数が、欠陥があるのではないかという疑惑が持ち上がっている。
きっかけとなったのは、匿名掲示板に寄せられた内部告発で、「何を偽装してるかっていうよりも、偽装してないところがないってレベル」「基礎から杭打ち、鉄筋も建材卸に根回しして一回り細いものを使ってる」などという内容だった。
テンホールディングスに取材を申し込むと、ファックスで以下のような解答があった。
「当該書き込みについては承知しておりますが、完全に事実と異なります。弊社に対する重大な名誉棄損であるため、現在顧問弁護士と対応を検討中であります」
弊誌記者はこの書き込みを行った人物を探し出し、接触を試みたところ匿名を条件にメールを通じて取材することに成功した。
―― まず、掲示板に書いたことですが、事実でしょうか?
A氏 ええ。事実です。
―― Aさんが関わったのは、具体的にどのマンションでしょうか?
A氏 掲示板に書いたとおり、X県のR市です。
―― 「偽装してないところがないレベル」と書いてありましたが、これは本当でしょうか?
A氏 そうですね。多少大げさに書いてしまったかな、とは思いますけど、私が見た限りでは重大な欠陥がないところはないと言っても過言ではありません。
―― 偽装は誰の支持で行われたのでしょうか?
A氏 社長の山下です。
―― 仮にたとえば、今震度7クラスの地震があった場合、該当するマンションは大丈夫なんでしょうか?
A氏 さあ。そのへんは僕は専門ではないので……。国の基準は満たしていないとしか言えません。でもまあ、基準を満たしているマンションに比べたら、当然リスクは高くなりますよね。
―― マンションのような鉄筋コンクリート造の建物の場合、建設に着手するまでは設計から建築確認という手順を踏むはずですが、偽装は不可能のように思われます。
A氏 実際、役所が建築確認を出していたころなら難しかったと思うんですが、実は最近は民間企業が建築確認をしてる場合が多いんです。
―― 民間企業が?
A氏 はい。政府がずっと進めてきた規制緩和の一環で、15年ほど前から「指定確認検査機関」というのに指定された会社は、役所の代わりに建築確認ができるとになったんです。
―― ということは、デベロッパーが設計したものをその検査機関が確認してると。検査機関の確認は信用が置けないということでしょうか?
A氏 信用が置けないというか、正直に言ってザルです。ほとんど何にもしていないところばかりじゃないでしょうか。
―― なぜそんなことに?
A氏 だって、仕事を依頼するのがデベロッパーなわけでしょう。カネをもらう立場の検査機関は、デベロッパーの言われるがままに判を押すしかないですよ。
―― なるほど。マンション建設の現場のことを聞きたいんですが、実際に工事をする建設会社は当然、マンションの設計がおかしなことには気づいてますよね? そこで止められないんですか?
A氏 もちろん、建設現場で働く人はみんなおかしいことに気づいてます。でも、先ほどの検査機関の構図と同じ話と同じですが、建設会社はカネをもらう側なんで、おかしいと思っててもなかなか異議を差し挟みにくいんです。当時は不況の真っ最中で、建設会社も厳しかったですから。あと、積極的に偽装に協力して、幾ばくかの金銭を要求する建設会社もなかにはありました。
―― Aさんは良心が咎めることはありませんでしたか?
A氏 ありました。しかし当時は転職するにもたいへん厳しい環境でしたので……。私にできることは、せいぜい匿名掲示板に書くことで、できれば役所の人や政治家など、立場のある人の目に留まって事態が改善されることを、祈るような気持ちで書きました。
―― 偽装が行われたとき、社内の人はどういう雰囲気だったんでしょう。同僚の皆様は気づいてなかったのでしょうか?
A氏 気づいてない人なんて、いませんでしたよ。末端の営業から専務までみんな知っていました。
―― 偽装を止めるよう、指摘する人は社内にはいなかったのでしょうか?
A氏 いました。私も上司に、こういうことは良くないと言ったことはあるんですが、みんな口を揃えて、「どうせバレるのは10年後とか20年後とか、大地震が来たときなんだから問題ないんだよ。少々しょぼいマンションに住んでてても、ただちに影響があるわけじゃない。でも、偽装を止めて真面目に営業したら、会社の業績にはただちに影響がある。どっちが大事か、言うまでもない」と言っていました。
―― 偽装はそんなに儲かるものなんでしょうか?
A氏 もう、原価がぜんぜん異なります。工期が二割くらいは短縮できて、原価は三割以上は軽く圧縮できてたはずです。
―― 最後に、テンホールディングスはネット上の書き込みに対して法的措置を取るとFAXで通告してきましたが、Aさんはそれについてはどう思ってらっしゃいますか?
A氏 望むところです。正式に訴えてきた場合は、司法の場で私の言っていることのほうが正しいと証明してみせます。
―― ありがとうございました。
記者は実際、A氏が確実に偽装があったマンションと指摘したX県の物件を訪れ住人へ取材を試みたが、住人は偽装について知っている人は皆無で、マンションについては満足しているという人ばかりだった。
革新的なビジネスモデルで財を成したベンチャー企業の雄は、果たして時代の寵児か稀代の詐欺師か。引き続き取材を試みる。
美名はいつもと同じように園田と下校し、マンションの前まで帰ってくると、エントランス前に出入口に人が群がっている姿が目に入ってきた。何か事故でもあったんだろうかと、その人の群れを遠巻きに見ていた。
やがてその人の群れの中のひとりが、美名のもとに駆け寄ってきて、
「このマンションの方ですか?」と訊いてきた。
個人宅で使うようなビデオカメラとは明らかに異なる、大きなカメラのレンズが美名のほうを向いた。
「△△テレビの者です。ちょっとマンションの偽装について、一言願えませんか」マイクを向けられた。
美名は、「すみません」と言ってマスコミの群れの中を縫うようにして通り、エレベーターの中に駆け込んだ。
305号室に入ると、リビングの窓から宏司と唯介が表の様子を見降ろしていた。続いてマンション住人が帰ってきたらしく、取材を試みるマスコミのやかましい歓声が3階まで聞こえてくる。
「なんなの、これ?」ふたりに向かって美名が言うと、
「テレビでもやってるよ。なんかこのマンションに問題があったって週刊誌報道があったらしい」宏司が電源の入ったまま、テレビの画面を指さした。
「七時から、デベロッパーの社長が緊急記者会見するんだって。たぶん八時のニュースでやるんじゃないかな。今日、昼前からずっとこんな調子だったから、買い物行けなかったんだよ。困ったな」と唯介が言った。
「こないだ週刊誌の記者が来てたけど、このマンションやっぱりおかしいの?」
美名が唯介にそう尋ねたが、唯介は苦り切った表情のまま何も言わない。
音を小さくしたテレビから、アナウンサーの声が聞こえてくる。
「それでは、耐震偽装疑惑の出ているX県R市のマンション前から、伝えていただきます」
「……はい。こちらマンション前です」
テレビ画面に、よく見慣れた建物が映っていた。
午後八時からの公共放送のニュースでは、マンションデベロッパーの会社社長の山下龍彦の記者会見の模様を放送した。
黒いカーテンを背景に、白いクロスが掛けられた長机に座ったままマイクを持って、ベンチャー企業の有名社長が記者の質問に答えている。
「つまり、偽装はないということでよろしいですか?」
「その通りでございます」
「マンション住民の皆様には何か説明はあったのでしょうか?」
「管理会社を通じて、書面で今回の騒動のお詫びと、マンションに一切瑕疵がないことを説明する予定でございます」
「インターネットの内部告発者に対して法的措置を取るということですが、週刊誌の記事によると告発者は発言内容に自信を持っているようですが?」
「司法の場で弊社の正しさを主張していくつもりです」
「つまり、裁判には勝てると?」
「百パーセント勝てます」
「マンションの設計では問題なかったが、建設の段階で何らかの不備があったという可能性はありませんか?」
「有り得ません」
次の記者が指名されると、記者は立ち上がって、
「週刊文潮の渡辺と申します」と言った。
山下龍彦の顔色が瞬時に変わった。
「我々が調査したところ、当該偽装が疑われているマンションの土地は、造成される前は河川だった地域で、非常に地盤が緩い場所になっております。基礎を作るときの杭打ちですが、地盤の下の支持層にまで到達するには長い杭が必要のはずで、15メートルを超える杭の場合は、大型トラックでも運べないため、現場での溶接作業を要するはずですが、御社の下請けでそういう工事をした実績はございますでしょうか?」
山下はすぐ隣に座っている弁護士らしい人物に小声で何かを話した。弁護士短く答えると、山下は再びマイクを手に持った。
「すみませんが、今は確認できません。不正確なことを答えるわけにも参りませんので、その質問への回答は控えさせていただきます」
「マンションの建設を請け負った数社にも同じ問い合わせをしたんですが、そういう工事はしていないという回答でした。もう一度お尋ねしますが、現場での溶接作業はあったと認識していますか、それともなかったんですか?」
山下は鋭い視線で記者をにらんで、
「控えさせていただきます。次の方どうぞ」と言った。
翌日の夕方、テンホールディングスとその子会社、および代表取締役の山下龍彦、そして建築確認の検査機関であった株式会社が一斉に裁判所に破産申請をしたというニュースが流れた。同時に、山下龍彦は行方をくらませたとも報じられた。
住人はマンションデベロッパーの責任者に放置されたことになる。
マンションの前には、前日よりも多くのメディアがスクラムを組んで詰め掛けていた。
管理会社はテンホールディングス系の会社だったため、親会社の倒産と同時に事業停止となり、管理も放棄された。
緊急に近所の公民館の大部屋を借りて、マンション管理組合理事長が主催する話し合いが持たれ、全戸の住人が参加した。
理事長は、元市役所勤務ですでに定年退職している田中という70代の男性が長く務めている。
「マンションの偽装は事実なんでしょうか?」話し合いの場で、最上階の住人の中年男性かがそんなことを田中に訊いた。
「詳しく検査してみるまでわかりませんが、この状況から見るに、偽装はあると推定するしかない」と田中は苦り切った表情で言った。
住人のあいだで議論は紛糾したが、とりあえず現状はどういう判断を下すにしても情報不足がはなはだしく、断定的なことは何も言えない。今後の調査や情報収集については理事長に一任され、修繕積立金のなかから費用を出して、早急にマンションの耐震偽装があるかないかの検査を業者に依頼する必要があることは、出席者全会一致で合意を得た。
さっそく業者が選定されて、二週間後の7月半ばには早くも非破壊検査の中間報告書が各戸に書面で配布された。
結果は内部告発の通り、基礎の杭打ちは全く深さが足りておらず支持層に届いていない、コンクリの内部の鉄筋も、そもそも鉄筋の太さが基準を満たすものにはなっていないばかりか、排水パイプを通すためにコア抜きして穴を開けた際に複数個所が寸断されていて、耐震性能は国の基準を全く満たしていないというものだった。
”震度6の地震が発生した場合、倒壊のおそれがあります“
美名は配布された資料に書いてあったその文字が、まるで死の宣告のような呪いの言葉のように感じた。
この資料が配布されてから、修復しかかっていた唯介と真子の関係はまた険悪なものとなり、ついに過激な夫婦喧嘩が、美名の目の前で繰り広げられた。
「どうなるの、このマンション?」と真子が言った。
「どうしようもないよ。僕たちは騙されたんだ」唯介が答える。
「騙されたって、どうするのよ。まだローンが20年も残ってるのよ」
「だから、どうしようもないって」
「誰か、国か自治体が弁償してくれないの? こんなの理不尽よ」
「理事長の田中さんも、いちおう国か自治体に働き掛けるって言ってたけど、可能性はたぶんゼロだね」
「保険でどうにかならないの?」
「保険って言っても入ってるのは火災保険だけだし、これは詐欺事件だから保険ではどうにもならない」
「どうにかしてよ!」真子が怒鳴った。
「どうにもないないって言ってるだろ!」唯介も真子に負けないほどの大声で怒鳴る。
「ふざけないで、このマンションにしようって言ったの、あなたでしょう!」
「君だって反対しなかったじゃないか!」
「どうにかしなさいよ。あなた男でしょう」
「こんなことに男も女も関係あるか」
「男ならちゃんと家族に責任負いなさいよ。しっかりしてよ」
「都合のいいときだけそんなこと言いだして、不倫してる分際でよくもそんなこと言えたな」
「…………」
「まさか、気づかれてないとでも思ってたのか。相手は製薬会社のMRで、妻子持ちの歳下の男だろう。名前も知ってる。ムラカミヒロノリっていうやつだ」
「それがどうしたのよ。あなたに甲斐性がないから、不倫されるんでしょう!」
「うるさい。淫乱女が。だいたいお前が一回目の離婚をしたときも、理由は性格の不一致だとかなんとか言ってたけど、どうせお前が相手を裏切ったんだろう」
「そんなこと、あなたには関係ないわ。文句があるんなら、出て行きなさいよ。たとえ詐欺で騙されて買ったマンションでも、ローン払ってきたのはわたしなのよ」
「不倫に忙しくてろくに家に寄り付かなかったくせに、今度は家主気取りか」
「あなたが出て行かないなら、わたしが出て行くわよ。いらないわよ、こんな資産価値ゼロのマンションなんか。甲斐性なしのあなたにお似合いよ」
それまでソファに座って唯介は立ち上がり、真子の前に詰め寄ると、腕を大きく振り上げた。真子の頬を叩く音が響いた。
「なにするのよ、DV男! 病院に行って診断書とってきて、慰謝料とってやる!」
美名はあまりにも醜いその光景に耐えられず、玄関に走ってサンダルを履いて廊下に出た。
廊下でひとりで泣いていると、302号室から吉田知子が出てきて、美名の近くに寄ってきた。
「だいじょうぶ?」と知子が言った。
「いえ、すみません。マンションのことで、喧嘩が始まって……」美名は頬を伝う涙を袖でぬぐった。
301号室には、もう理佐はいない。偽装の疑惑が報道された数日後、早々と配偶者との離婚が成立して引っ越して行った。
「あのね、美名ちゃん。そのうちお知らせしようと思ってたんだけど、ウチもそろそろ引っ越ししようと思ってるのよ」知子が言った。
3階以外の住人も、耐震偽装がわかってから、逃げるように引っ越しする人が後を絶たない。マンションのエントランス前には、毎日引越センターのトラックがやって来て荷物を搬入してる。
「やっぱり……、このマンションの偽装のことが原因ですか?」
「それもあるんだけど……、実はわたしね、ちょっと恥ずかしいんだけど、この歳になって妊娠しちゃったのよ。来年出産になる予定だから、38歳の高齢妊婦になっちゃうのよ」
城岡家の地獄のような状況とはまったくことなる吉田家の事情を聞かされ、美名は驚いて何も反応できなかった。
「聖羅がいなくなってから、旦那もわたしも生きていく気力がずっとなくなってたんだけどね、ちょっと前の心霊現象があったでしょう? あれが原因で、ふたりでおびえているうちに、"幽霊はいるのか"とか"人は死んだらどうなるのか、天国や地獄はあるのか"みたいなことを夫婦で話し合ってるうちに、聖羅が亡くなったということにちゃんと夫婦で向き合うようになって、強く生きなきゃいけないという気持ちになってね。それと、須磨さんって言ったかな、あの霊能者さんが主人に『前を向いて生きろ、亡くなった娘さんもそれを望んでいる』みたいなことを言ったのも、大きな励みになったらしくて。でもまさかこの歳になってから妊娠するとは思わなかったけど……。きっと聖羅が産まれ変わってきてくれたのね」
そう言いながら、すでに知子は幼い子供を慈しむ母親のような表情になっていた。
305号室の中からは、夫婦喧嘩が続いているらしく茶碗やコップが割れる音が、唯介の怒鳴り声とともに響いてくる。
「主人の実家が、田舎の山のなかでけっこう大きな林檎農園をやってるんだけど、両親が歳を取ってそろそろしんどくなってきたから、帰ってきて手伝わないかって言われてね。子供を育てるなら、田舎のほうがいいかもしれないなんて話し合ってたんだけど……、いまいち決めかねてると、そこに降って湧いたようにこのマンションのことが発覚したでしょう? だから、ちょうどいい機会だから、そういうことに決めたのよ」
理佐もいなくなった。302号室も空き室になる。303号室には当然、次の住人は入っていない。城岡家だけが、このマンションの三階に取り残されることになった。
「美名ちゃんも、元気出してね。今はたいへんだけど、前を向いていれば必ずいいことあるわ。……子供のころ、聖羅と仲良くしてくれて、本当にありがとう。わたし、美名ちゃんのこと、聖羅と同じくらい大事に思ってたから、離れ離れになるのは寂しいけど、また連絡するね」
そう言って知子は302号室に帰っていった。
いきなり305号室のドアが乱暴に開いて、ハンドバッグを持った真子が飛び出してきた。
「お母さん……」
美名がそう声を掛けると、真子はちらりとこちらを見たが、やがでエレベーターとは反対側にある非常階段のほうへ行った。
真子のサンダルと非常階段の材質の金属とがぶつかる音が響いてくる。
美名は制服の白いブラウスを着ると、棒タイを首に結んでリビングに出た。
「おはようございます」美名が言うと、
「おはようございます」と唯介が台所で俯いたまま返事をした。
夏休みが始まるまで、あと数日。梅雨が明けて夏になったはずなのに、曇り空の日が続いていた。今年は冷夏になる見通しで、気象庁の梅雨明け宣言は時期尚早ではなかったか、ということがしきりに言われている。
ダイニングテーブルに出された白飯と味噌汁を、「いただきます」と言って食べ始めた。
「今日、午後から降水確率40%で、夜は60%になってたけど、バスにする?」唯介が言った。
40%から60%なら、もし雨が降っても小降り程度だろう。
「自転車で行く」
「そう。じゃ、なるべく早く帰ってきてね。いちおう、合羽は持って」
マンションは自治体の市長から危険建築物と指定され、60日以内に退去するよう命令が出されている。
しかし、どこに行くところがあるというのか。
真子はあれから、一度も家に帰って来ていない。
三限目の生物の授業が始まって10分くらいが過ぎたころ、ふだんはあまり見ることのない教頭が、いきなり美名の教室のドアを開けて、
「すみません、授業中失礼いたします。城岡美名さん、いらっしゃいますか?」と言った。
「わたしですけど……」美名は遠慮がちに挙手をした。
「保護者の方から、お電話が入ってます。至急、職員室まで来てください」
「あ、はい」
机の中に置いてあったスマホを見てみると、サイレントモードにしていたために気づかなかったが、自宅からの着信が7件あった。
教頭に先導され廊下を歩きながら、スマホで自宅に電話を掛けてみるが、話し中になっている。おそらく唯介が学校の電話に掛けたままになっているからだろう。
しかし、わざわざ学校に、しかも授業中に電話をしてくるなんて、いったい何の用なのだろう。母が帰ってきたのだろうか。
授業で出払ってほとんど教員のいない職員室に入り、デスクの上に置いてあった受話器を取るよう、教頭に促された。
「あの、もしもし……」唯介の口調がふだんと違う。
兄の宏司が、ビルの屋上から飛び降りて自殺未遂を図ったと知らされた。
美名はすぐに学校を飛び出すと、自転車に乗って救急病院に向かった。
手術室の前の安っぽい合成皮革のベンチに、唯介は先に到着して座っていた。唯介は青い顔をしたまま俯いていた。
唯介のそばに駆け寄って、
「どうなの? だいじょうぶなの?」と美名は訊いた。
唯介はうつろになった目を上げて、美名の顔を見る。
「今、手術してるから……。まだ、よくわからない」
「お母さんには、連絡つかないの?」
「勤務先に電話したけど、少し前から無断欠勤してるって」
母は、こんなときにどこに行ったのだろうか。不倫相手のところだろうか。
「ここに運ばれて来たときはまだ、宏司くん、意識があったようで、ずっとうわ言のように、『殺してくれ、殺してくれ』って言ってたんだって。よっぽど辛かったんだろうね。何もしてあげられなかった」唯介が、感情の抜けた抑揚のない口調で言った。
「宏司くん、今日は10時から駅前のウェブデザインの会社に、アルバイトの面接に行ってたんだけど、面接が終わった後にそのビルの屋上から飛び降りたらしいんだ……。また、面接で嫌なこと言われたのかな。辛いなら、無理することなかったのに……」
2時間近くが経過したのち、手術室の赤い光が消えて、全身に包帯を巻かれた宏司が出て来て、運ばれていく。
続けて、執刀医の医者が出てきた。唯介は医者のもとに駆け付ける。
「非常に厳しい状態です。仮に助かっても、骨盤を強く打って骨折してましたので、何らかの後遺症が残る可能性はあります。とにかく息子さんの力を信じて、引き続き様子を見ましょう」
唯介は医者に深く頭を下げて、「ありがとうございました」と言い、涙を流した。
夕方まで唯介とふたりで、全身包帯を巻かれて人工呼吸器につながれている宏司の姿を見守っていたが、意識を取り戻すことはなかった。
「一度、家に帰ろうか。入院の手続きするにも、いろいろ必要だから」
唯介がそう言うと、美名は黙って頷いた。
美名は自転車で直接病院まで来ていたので、車で来ていた唯介とは別で帰ることになる。
救急病院から30分以上かかって、マンションの駐輪場に到着した。途中から雨が降り始め、雨足はバケツをひっくり返したように一気に強くなり、美名は全身ずぶ濡れになってしまった。
駐輪場を出てエントランスに向かうと、エレベーター正面の壁には赤いスプレーの文字で大きく、「インチキマンション」という落書きがされていた。エレベーターの扉には、「倒壊のおそれ有りすぐに取り壊せ 近隣住民より」という同じ内容の貼り紙が何枚も貼ってある。
髪の毛から雫を垂らしながら305号室に入ると、リビングの照明は点いていなかった。車の唯介のほうが早く着くはずなのにおかしいと思っていると、唯介は暗い部屋の中で、ダイニングテーブルの椅子に座って俯いていた。
様子がおかしい。
唯介に近寄ろうとリビングに入ると、二人掛けのソファに人が横たわっているのに気づいた。
真子だった。
寝ているようすではない。真子は目を大きく見開いて天井を見上げたまま、微動だにしない。首には、暗い部屋の中でもはっきりと認識できるほどの、紫色の圧迫痕がついている。
雨でびしょ濡れになったまま、真子の姿を呆然と眺めていると、
「これ……、家に帰ったらお母さんがいて、出してきてね」唯介がテーブルの上にある、一枚の緑の紙を美名に示した。
美名はそれを、わずかな明かりを頼りにして見た。
真子の名前のみが記入済みになっている離婚届だった。
「まったく、勝手な女だよな。好き放題して、自分の息子が自殺未遂したことも知らず、やっと家に帰ってきたと思ったら、そんなもの持ってきて『慰謝料はいらないから離婚してくれ』だって。慰謝料って何か、知らないのかな」
それを聞いて、美名は自分が帰ってくるまで、この部屋で唯介と真子のあいだにどんなやり取りがあったのかを想像した。
いやなことしか考えられず、しかし美名はなぜか自分が冷静であることを自覚する。
「お母さん、死んだの……?」
唯介はそれに答えず、
「本当、バカだよ。俺の人生って、何だったんだろうな」そうつぶやいた。
俯いていた唯介は、泣いているのかと思ったら、笑っていた。満面の笑みとも言っていいほどの笑顔になっている。
もしかして唯介は、精神心的に崩壊したのだろうか。そんなことを疑っていると、ダイニングテーブルの上に、まだ半分ほど液体が残っている使用直後らしい注射器と、白い粉が入ったビニルの袋が置いてあるのを見つけた。
「もう、何もかも、どうでもいいや。ねえ、美名ちゃん」
唯介はクスリが回っているのか、ニタニタ笑った不気味な顔を美名に向けた。そして立ち上がって、美名のほうに迫ってくる。
唯介がいきなり美名の手首をつかんで、身体をリビングの壁に押し付けてきた。
暗い部屋のなかで、瞳だけはギラギラと輝いているが、目の焦点はあっておらず、どこか遠くを見ているようだ。
「ヒッ!」思わず美名は悲鳴を上げた。
唯介は左手に注射器を持っている。
「ねえ、美名ちゃん。一緒に、気持ち良くなろうよ。これさえあれば、どんなに辛い状態でも、最高な気分になれるんだよ。ほら、ねえ、お父さんのこと、好きでしょ?」
骨が砕けてしまうのではないかという強い力で、唯介は美名の手首を握る。
注射器の針の先端から、ひとしずくの水滴が這うように落ちた。
「そうだ、お父さんとセックスしようか。どうせ血はつながってないんだし、死ぬ前に一度くらいはいいでしょ。美名ちゃん、まだ処女でしょ? 一度やってみたかったんだよね、キメセクってやつを」
唯介は左手に持った注射器を美名の腕に刺そうとする。
「やめて!」美名は力の限り唯介の身体を押した。
思わず伸ばした手の親指が、唯介の目に入ったらしく唯介は顔を手で抑えて呻いている。
美名は台所にある牛刀包丁を手に取って、両手で持った。
唯介が、目が充血している顔を上げる。
「もう、いいじゃない。僕と一緒に死のうよ。もう無理だよ」
「やめて!」
目の前まで迫って来た唯介の胸に、美名は包丁を突き刺さした。暗い部屋のなかに、生臭い血が天井まで噴き出す。
続けて、何度も何度も、唯介の腹を刺し続けた。その度に返り血が顔に飛び散る。
唯介は美名の足元に崩れ落ちるように倒れた。唯介は、クスリが回った半笑いの表情のまま、絶命していた。
なぜこんなことになったのだろう。
雨に濡れていた白いブラウスは、返り血で赤黒く染まった。美名はリビングの壁を背にして、息を切らして激しく呼吸を繰り返しながら、呆然と座っていた。むせかえるような血のにおいがリビングに充満している。
もともと、破綻していた家族だったのだ。いずれ、終わることは目に見えていた。
誤魔化していただけだった。マンションで起こった心霊現象が、家族の関係に作用して一時的に修復したかのように見えたのは、幻想だった。
思い掛けぬ困難に直面した人間どうしが、互いに利用しあう。その極めて利己的で汚らしい行為を「絆」などと称して美化していたにすぎない。本質は何も変わっていなかったのだ。
あんな幻想を見せられて、変な期待を持たされるくらいならば、破綻した状態のまま世間体だけを頼りに関係を維持していた、心霊現象が発生する以前の家族のほうが、まだマシだった。あのころのままなら、宏司は自分を殺すほど自分の未来に期待も持たなかっただろうし、マンションの欠陥が発覚しても唯介が真子と怒鳴り合い、そしてその果てに殺してしまうような情熱も持ち得なかっただろう。
これから、どうすればいいのか。母も父も、死んだ。自殺未遂をした兄も、助かるかどうかわからない。
急に、台所の食器棚がガタガタと細かく揺れ始めた。収まったはずのポルターガイストが、また起こった。
いや、少し違う。揺れてるのは食器棚だけじゃない。部屋のなかの、テーブルもソファも揺れている。テレビがテレビ台の上から大きく左右に震えながら床に倒れた。
どうやら、地震のようだ。
かなり大きい。
(了)
最後までお読みいただきありがとうございます。