私の4歳頃までの幼少期
わたしは「るこ」
この子の中にずっといる
生まれた時から居る
誰か
初めて文字に現れる
私の手記を
誰よりも私自身は
未来で
読むことができるのだろうか
書きながら現れる不快感を超えて
私は今の自分まで
追いついてみせるんだ
この記録を
いつまで消さずに
いられるのだろうか
少しづつ
私と私が
対話をしようとしている
今までにない
怖さ
でも
その時は
近づいている
ーーーー
ーー
ー
今日は
私の話をします
4歳くらいまでの話
わたしは「るこ」として
あえて名前のある人格として
私は今日お話します
私は幼少期を担当していました
私は今で言うところの
性自認やそれらに関連する事柄に
戸惑っていました
幼少期の私にとって
それは悩みではなく
戸惑いでした
それは女の子であるとかいう以前に
女の子と男の子の区別が難しい
というところからはじまりました
当時の私は
男の子と女の子の見分けが
上手にできませんでした
生物学的な違いも
知りませんでしたし
未だに性別というものが
良く分からない時もあります
わたしは生まれつき弱い臓器があって
大きな手術をしたせいで
少し大きな病院で育ちました
周りには看護師さんたちと
子供たち
生と死が近い場所にいたからか
ミッション系のキリスト教教育の影響からか
私にとっての死生観は少しスピリチュアルです
当時のわたしの自認は妙で
人は生まれた時は両性具有の存在で
男の子か女の子かは
いつか選べると思っていました
それは人は神の子という観念を
内在化したからかもしれませんし
その行動が女の子であれば女の子になり
男の子であれば男の子になる
まるで道が二股に分かれていて
それのどちらに行くかは
自分で選べるような
そんな感覚がありました
なぜそのような
認知になったのかは
確かめようもなく
いまではもう
分かりません
でも私の世界の
認識は
物心が着いたところから
そのようになっていて
思い出すと
私は子どもの頃よく
そんな事を言っていた気がします
「男の子は俺とか僕とか言うから
男の子なんじゃなくて」
「男の子が好きな物を好きだから
男の子になるのだと」
今考えれば割と支離滅裂です
真理のように語るのが好きな子でした
私は形而上、形而下の繋がりを探すことが好きです
皆さんにもわかるように言うならば
以下の青色と赤色の区別が私は違いました
以下の図を見た時
無意識的に左を男性
右を女性と認識したと思います
🟦👤トイレ 🟥👤トイレ
別に赤色が好きだから
右に行くという話ではなく
私の場合は子どもという生き物は両性具有であって
青色が好きな生き物は男の子になり
赤色が好きな生き物は女の子になるのだと
というような逆説的あるいは
帰納法的な認知を持っていました
私の幼少期の性別の自認は
両性具有にあり
何が好きかで自認や性別は変わるという
前提がどこかにあったのかもしれません
このことを
誰かに話すと
「変なことを言うんじゃない」
とか
「社会の話」
とか
「単にあなたは生き物として男の子」
であるという
男の子であることを
当然に期待されました
それは社会を維持するために
当然のことだとも思っています
でも私は、あ、私は男の子なんだと
日に日に理解させられていく感覚が
とてつもなく嫌でした
それを言うと変な目で見られることも嫌だったし
喧嘩したりワーワー言いたかった訳じゃないです
その頃の私はお話し相手を求めていました
でも肝心のお話をするのは怖かったです
結局出来ずしまいでした
その役割を上手に演じることが
私は大人になることだと思っていました
みんなが何かしら我慢したりして
生きている
だから私も我慢しよう
きっとそれがいい事だと
いい事をしていれば
きっと誰かが褒めてくれるし
大人になれるし
大人になったら
いつか好きな人生と
お話し相手ができると
それを期待して
信じて生きてきました
「我慢すれば、大人になれて、
いつかいいことがある」
この矛盾した期待が
出来事によって
空回りしていく
でもその道の途中で
大きく転んじゃいました
いいことなんて
なかった
上手に
できなかったなあ
ごめんね
よくわからないから
ごめんねしてる
加害意識と罪の意識が私を纏うむり
今日はここまで
ありがとう
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