花組『ポーの一族』はどこから見るか

 ともかく原作を大事にしている舞台化であった。現代の感覚や、三次元でみると伝わりにくいシーンもきちんと原作漫画に沿った形で作られていた。

 一族のダンスが見せる不思議な雰囲気は、宝塚という統一感ある劇団ならではだと感じる。さすが大きな舞台の扱いを熟知している小池先生だけあって、二階席の満足度が高い。こんなに近くまで来てくれるシーンの多い舞台あっただろうか。それも大切な場面が多い。
 特にラスト近くのエドガーとアランのシーンでは、一階前方で見ると機械感が隠しきれない。ギシギシと音がしそうだった。それが二階から見ると、飛んでいるのである。まるでふわふわと漂っているようで、時間が止まった気さえした。
 この感覚は『うたかたの恋』でのルドルフがマリーを撃とうとするシーンでも感じたが、そこでは初観劇時に感じた。今回は一度目の一階席ではむしろ長いと感じ、二階席初見で体感したのである。ここまで二階席も見てやっと満喫したといえる舞台は珍しい。

 エドガーは、相手によって態度を変える。表情の変化と共に雰囲気、纏う空気まで変わっていくようだった。
 メインはやはりバンパネラとしての人外っぷりだろう。この世のものではないオーラを放っていた。まるでガラス玉のような目が全てを映し、でも取り込まない印象を受けた。少年時代の無邪気さと人外の残酷さは、トップになるとあまり出来ない役かもしれない。宝塚ファンを圧倒させる「新しい存在」でもあった。

 特にシーラに対しての『金色の砂漠』や若手時代別箱で見せた「面倒くさいヒーロー」は独特だった。複雑な気持ちを割り切れず、感情に振り回されてしまう。可愛さ余って悪態をつく姿に対応できるのはシーラならではである。
 一方メリーベルにするスパダリならぬスパ兄っぷりは見ているだけで心が満たされる。背中をさする仕草など甘々過ぎて、メリーベルは成長しても「お兄ちゃま」呼びしてもおかしくなかった。

 アランの人間味は、ちょっと遠い二階席からの方がよく見えた。近いとエドガーの人外っぷりに呑み込まれるというのもあるが、一歩引くと人間味ある苦しみや葛藤に惹きつけれた。回を増す毎に少年らしく人生をもがく様が魅力的であった。その分、バンパネラになるのは永遠を得るだけでなく、大きなものを失うことを実感した。

 シーラは瑞々しい歌声がずっと聴いていたかった人間時から、モンスターっぷりのギャップがすごい。クリフォードを襲おうとする姿なんて手足があらぬ方向に曲がりそうであった。その後も一目で分かる瀕死状態に別格の表現力を感じていた。『エリザベート』のヴィンディッシュ嬢が印象的だったので、そういった難役の経験が娘役トップとしても生かせるのはラッキーとも言える。

 一方で圧倒的な素質を魅せたのはメリーベル。シャンシャンを振るだけでもうかわいい。存在がガラスか飴玉のよう。正に「みんなが好きになる」メリーベルであった。下手をすると「添え物」や「お人形」になりそうな役柄を、幼少期の生き生きとしたシーンもあってかとても魅力的かつ繊細に仕上げていた。この繊細さがアランとの相性も上げていたように思う。

 一巻のみの知識でいうと原作超えはマーゴットである。漫画では典型的なヒールキャラだが、複雑さや繊細のある人物に仕上げていた。意外と人間のまま成長すればアランとも良い関係になれそうであった。

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