『破局』について考察。

芥川龍之介賞受賞作品、遠野遙『破局』についての個人的な考察。

『破局』は作品の節々に、主人公が固定概念や社会常識に常に囚われた考え方の人間だということがよくわかるように綿密に書かれている。

そして、法を遵守するべき警察官の逮捕の報道が作品の中に何度も出てきて、主人公の行く末を暗示している。まるで、主人公と逮捕される警察官を重ねているように。主人公は公務員試験に向けて日々懸命に勉強して、自ら筋トレなどの体づくりのためのトレーニングを自分に課し、父からの言いつけを守りながら社会規範を自分の中に据えながら、四角四面に生きている。

最後、彼が受けた公務員試験にも合格を匂わせるような読み方ができる。彼はいい大学に通う頭のいいエリートで、規則正しく毎日を送ることに気をつけながら生きてきたはずなのに、はずなのに、あの最終的な破局…。

一方、膝は主人公とは対照的に書かれた人物と読める。非常識なことをして人を笑わせるコメディアンを志す人物。公務員と相反する位置に存在しているお笑い芸人、それになりたい膝は、彼と違って自分なりの考えを持っている。独創的な考えを。

彼が最後全てを失うのは、結局、「自分」がなかったからではないだろうか。ただ、彼は他人や社会の概念にだけ合わせて生きている。真面目にきちんと生きてしっかりしていそうなのに、中身がありそうなのに、実は何もない。ただ、他人や社会の標準に合わせて生きているだけ。

現代でもこういう人物、結構いるんじゃないだろうか。他人や社会に合わせるあまり、いつか自分を失っている人。

だからかしら、真面目にしっかりしてそうな人が逮捕されたなんて話をよく聞くのは。社会的な規律を守って生活するが余り、他人や規律に囚われて、いつしか爆発してしまうのだろうか。



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