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【小説】銀座と灯火

 水面で光が揺れている。それが何を反射したものなのか、その光源は見えない。細かく震える光の粒は、初めて飛行機に乗ったあの日、小さな窓から見下ろした東京の街に似ている。
 濡れたアスファルトをヘッドライトが照らしている。黒いセダンの光沢は街の灯りが照らしているからだった。赤信号の中を歩く女の後姿に焦りはない。通りは広くて真っすぐだったけれど、黒塗りのセダンはすぐにネオンの中へと見えなくなった。
「おい、まだかよ」アイフォンの画面にレイからの通知がある。五分前のLINEだ。もうつくよ、橋を渡ったところ、と返す。すぐに既読がついてそのあとは何も返ってこない。通りの両側にはビルが並んで、父親の書斎のガタガタの本棚みたいに詰まっている。ビルの手前で等間隔に置かれたアーク灯が光の骨組みを作っている。奥に行くほどに窄まって、黒塗りのセダンがどこかで両側の灯りを繋げている。ビルと街灯とテールランプの放つ光で造られた谷間は、昨日の女がしていた白いレース付きの下着みたいに見えた。
 ブルー、おっせえよ、レイは僕に気付くとすぐに声を掛けた。
「お前、橋から歩いてきたのか? 馬鹿だなあ、銀座集合だって言ったんだからおとなしくここまで乗り継いで来いよ」
 僕と彼がまだビル半分離れている状態から、大声で話すレイの口からは薄っすらとアルコールの匂いがしていた。
「レイ、飲んでるのか?」
「少しね、サークルの追いコンみたいなやつでさ。変な時期にやるよなあ。大学の前のサイゼだって、それもよくわかんないんだけどさ、まあ、それくらいなら顔出してやるかと思ってさ。そしたらうちの二年が店からスト缶かっぱらって、あ、もちろん注文したやつな。なんでか俺が直缶させられることになったんだよ。夕方の駅前でだぜ? 意味わかんないだろ」
 笑いながらレイはゆっくりと窪みの方へと歩き出す。昼頃まで雨の降っていた平日、人通りは少ない。歩道脇の公衆電話の中で受話器を取る男の姿を、連れの女がボックスの外からカメラに収めている。男はスキニーのジーンズにBurberryのプリントされた白いTシャツを着ている。女は同じような服装で腹を出している。
 あいつらきっとベトナム人なんだよ、ベトナムには公衆電話がないんだ、僕の一歩前を歩くレイの乾いた笑いと腰についたキーリングのジャラつきが重なった。
 どこも外国人が増えてんだよ、僕はなだめるように言った。
「それで、どこ行くんだ?」
「別に決めてねえよ、さっき言った通り、思わぬ事情で飯食っちまったからさあ、あんま腹は減ってないんだ、ブルーは飯食ったか?」
「食ってないよ」
 そりゃそうだよな、レイはさっきとは違う湿り気のある声で笑っている。こちらを振り返りながら歩くレイは前が見えていない。僕と話している間、中年のサラリーマンと、若いOLに腕を絡められているおじさんが女を押し出すようにしてレイを避け、道を譲った。僕の隣を小さな舌打ちが掠めていったのがわかる。でもいいんだ、今日は昼めし食ったからさ。
 僕はレイの隣に並んだ。視線を前に向けるレイの眼は街の灯りで白く光っている。それは、あるいは酒で目の周りを紅潮させているからそう見えるのかもしれない。
 ショーウィンドウの中で薄いピンクと白い花が隙間なく咲いている。花束の中にガラスの小瓶がちょんと置かれている。大きな器に控えめに盛られた高級なイタリアンみたいに。なんとかっていう香水のブランド、レイは足を止めずに歩いたので、僕も足を止めることはなかった。
「とりあえずどっかで路地に入ろうぜ、この辺はダメだよ、飯屋は通りにはないし、歩いてるやつもタヌキみたいな顔した女とタヌキしかいないんだからさ」
 僕もどこかで折れたいよ、この辺は明かりがきつくてさ。奥に見える高層ビル群の灯りは夜の空を照らして雲の輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。青っぽい空だ。
 「お前ほんとに言ってんのか? このピカピカは大したことないよ。歌舞伎町タワーっていったことあるか。ちょっと前にできたやつ。あそこは俺でもきつかったなあ、ネオンサインがそこかしこに吊るされててさあ、『ゲームと酒』なんて書いてあるんだよ、笑っちゃうだろ。さすがに目が痛くなったよ。
 あ、でもみんなでYMCA歌ってた、あれは楽しかったなあ、俺、クラブとか行かないからさ」
 レイは頭上でAのポーズをとって見せる。腕の隙間から映る街灯は相変わらず僕の目に鈍く響き、また一人サラリーマンがレイを避けて通り過ぎた。
 大通りから逸れると少し落ち着いた。鼻の奥に甘ったるい匂いが残っていて、通りに蔓延していた匂いの存在に初めて気付く。隣の通りまでをつなぐ道程には雑居ビルが並んで、自動販売機の隣ではスーツ姿の男がタバコを吸っている。脇道に入るとレイも青紫のメビウスに火をつけた。
 雑居ビルの手前に立ちんぼの女が一人立っている。頭のいい女だな、とレイは呟き、下向きに咥えたタバコの先端から零れた灰が、レイのチロルシャツの裾に落ちて割れた。
「お兄さんたちガルバどうですかー?」女が僕とレイを誘う声が路地によく響いた。
 立ちんぼかと思ったよ、まだアルコールの残るレイが寄って行き、女に声を掛ける。女はむっとした顔を作って、
「そんなわけないでしょ、こう見えてもわたしはケンゼンでやってるんだから」と言った。
「こんなとこで流行るのか?」僕は黒いサテン生地のワンピースを着た女に聞いた。
「知らないよ、オーナーに聞いて。私ココ来たばっかりなの、前はアキバでやってたんだけどね。店がなくなっちゃってさ」
 目の上をラメでキラキラさせた女は、カラリとした表情で笑ってみせる。口元はベージュのマスクで見えない。ただ、女の選んだつるりとしたベージュの不織布と赤っぽいゴムのバイカラーマスクが、女が自らに課したものとして在った。
 空白は想像で埋められる。きっと、そう考えたレイは、ここなら静かに飲めるだろ、といって女に店を案内させた。店は雑居ビルの六階にあった。狭いエレベーターの中はタバコとごみの匂いが漂っている。

 改めまして、モモです、女は僕とレイを真ん中のカウンターに案内して言った。薄暗い店内には、僕たち以外には思った通り客はいない。店には他に二人キャストがいたが、一人は店の端でヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読みながらタバコを吸っていて、もう一人は僕たちが入店すると店の奥へと引っ込んでいった。
「あ、音楽かけるね。客いないから切ってたんだ」
 いいよ、とレイが断った。換気扇の音がうるさくてもう十分。
 僕とモモは換気扇の音を意識して少しの間黙って、そして三人で笑った。「モモって、桃色のモモか? なんだよ、ブルー、お前と同じじゃん」
「ブル? お兄さん、犬みたいなあだ名付けられてんの?」
 違う違う、レイはさっきから笑ったままで話し続ける。
「ブルーだよ、ブルウ。こいつ名前がアオっていうんだ。そんでずっとこんなテンションだろ? 俺が付けたんだけどさ、なかなかセンスあると思うんだけどなあ」
 雑居ビルの陰の中では目の上のラメだけが目立っていたモモは目の丸い女だった。くりっとした瞳が僕を捉える。
「改めまして、ブルです」僕はモモに向けておどけて見せる。
 また、三人で笑った。カウンターの隅では相変わらず顔のよく見えない女が本を読んでいる。
「何飲む?」あ、と我に返ったようにモモは聞く。ファジーネーブルにでもしようか、せっかくだし、と僕は言った。
「ごめんなモモちゃん、俺、甘ったるいの嫌いなんだよ、ジントニックにして」
 僕とレイがそれぞれに言った「せっかくだし」と「ごめんな」の意味にモモはしばらく気づいていなかったが、やがて「ああ、桃か」と小さな声で呟いた。
 モモは背を向けて棚からリキュールを選びとっている。まだ場所がよくわかっていないようだった。動く度にサテンのワンピースに光沢がはしり、濃淡がつく。うなじが開いたワンピースから覗く白い肌にはいくつか赤くて小さなニキビが浮かび上がっていて、子供のように見える。レイの吐く煙の隙間から、僕はその背中を見ていた。
「モモちゃんも何か飲むかい」
 ジントニックを一口飲んだレイが言った。
「いいんですかあ? じゃあいただきまーす」
 右足を軸にくるりと翻った彼女の髪が浮かび上がり、鉄錆びみたいな色の髪の中から金色のスタッドピアスが覗いた。ピアスを見たときに僕の頭にあったのは橋から水面を見たときのあの輝きだった。川面に散らばった光はどこから来て、どこへ消えていったのだろう。あとに残されたのはモモのソープの香水と雨上がりの蒸すような汗の匂いだった。モモは冷蔵庫からライムを取り出して、果物ナイフで両端を落とし、とても綺麗な八つ切りにした。いつの間にカバーカウンターにはテキーラの入ったショットグラスが置かれている。モモは、乾杯すると、バイカラーのマスクを顎にかけ、テキーラを一気にあけて、ライムを二切れ噛んだ。ライムの果汁が弾けてエンジ色のテーブルまで飛んだ。モモは飲み終えるとすぐにマスクで再び口元を覆った。マスクに滴ったライムの雫を僕は想像した。
「また、きてよ」
 しばらく時間を潰した僕たちの様子を見てモモは言った。
「ああ、いいよ。三田から簡単に来れっからなあ、なあブルー。モモちゃんいついる? 結局この子以外よくわかんなかったしな、今度来た時はまたテキーラ一気みせてくれよ、びっくりしたなあ、ハハハ」
「わたし、テキーラ好きなの、モモなんかよりずっとね。ツイッターにシフト載せてるから教えとく?」
 モモはサテンのワンピースのポケットから名札を取り出すと、名前の右下にある@から始まるユーザー名を指した。レイは隣のQRコードを写真にとって、三杯目のジントニックを啜った。僕はその場で彼女のアカウントを検索、フォローした。十五人程度の始めたばかりの小さなアカウントだった。  (19)銀座××勤務
 僕が顔を上げた時には、準備していたようにモモがこちらを見て柔らかい笑みを浮かべている。
「秋葉原でやってたんだろ? もっと客がついてるもんだと思ったよ」
「前の店の方針でさ、移籍したら垢も消さないといけないのよ。客がとられるってことだと思うけど」
 モモはカウンターに手をついて退屈そうにしている。まあ、アキバの客なんて想像つくでしょ。繋がっててもこんなとこまで来ないし、ウザいDMばっかだったし、消して困ることなかったわ。僕とレイは、確かにそうかもな、と笑った。換気扇の稼働音が笑い声を打ち消したころ、僕とレイは席を立った。店の端で本を読んでいた女は、今は携帯を触っている。

 ねえアオ、聞いてるの? 女の声がする。
「ああ、聞いてるよ」
「昨日の客がさあ、飲むとき以外はマスクしてくれないか、なんて言ってきてさあ、あたし腹立って泣きそうになっちゃって」
 なんか風邪だかインフルだかコロナだかまた流行ってるしな。テラス席のテーブルに小さなカメムシが止まったのを見ながら僕は相槌を打った。結露したアイスコーヒーのカップから滴る水滴をカメムシの背中に落とすと、脚を震わせて体を後ろへ捩った。背中が濡れたカメムシは飛ぶことが出来ないでいる。
「違うから、あいつ、あたしの顔のこと言ってんの。だって向こうだってマスクしてなかったもん。大体、本当に気にしてるやつが店なんて来るわけないでしょ」
 女の言葉は徐々に熱を帯びている。怒りに震えて机上の虫にも気づいていない。
「最終的には、ハイこれとか言ってカバンからマスク渡してくんのよ。仕事場では付けてんでしょうね。なんかプレゼントしたみたいな気になってんのよ」
 僕はテーブルの上で進路を彼女の方へを向けたカメムシを中指の爪で弾いた。カメムシは隣のテーブルの下辺りにとんで、影の中へと見えなくなった。目の前に座る、女の声が遠い。あの日から暫くして、二、三週間後くらいに、モモの事を思い出した。調べても、彼女のアカウントは見つからなかった。QRコードを保存していたレイに連絡して、写真を送ってもらった。どうやら彼女のアカウントはもう存在していないようだ。


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