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「らしさって何?」自問自答し続けた少女の答えとは・・・ 『角を曲がる』 歌詞分析


卒論以来に歌詞分析をしてみました!卒論で扱ったシングル表題8曲ではMVやコード進行、メロディーラインなども合わせて考察していましたが今回は歌詞だけで考えてみました。

卒論では教授と一緒にMVを見ながら「あーでもないこーでもない」と討論し、助けていただきながら考察しましたが、今回は自分の力だけ・・・どうか温かい目で見守ってください>-<


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楽曲概要

今回分析したのは『角を曲がる』平手友梨奈(欅坂46)[作詞:秋元康/作曲:ナスカ]。

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本楽曲は彼女の映画初出演にして主演を務め、日本アカデミー賞新人俳優賞受賞で話題にもなった、映画「響-HIBIKI-」(柳本光晴原作コミック「響〜小説家になる方法〜」/2018年)の主題歌であり、音源化されていない幻の楽曲。
この曲が披露されたのは当時在籍していた欅坂46初の東京ドーム公演最終日(2日目)のWアンコールと2019年の年末に放送されたミュージックステーション「ウルトラSUPERLIVE2019」の2回だけである。
そして、本楽曲のMVがYouTubeの欅坂46公式チャンネルで公開されたのが、初めて披露された東京ドーム公演最終日の2019年9月19日である。(ちなみに、このMVの監督を務めたのは映画「響-HIBIKI-」の監督でもある月川翔氏である。)

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Aメロ

みんながおかしいんじゃないのか
自分は普通だと思ってた
でも何が普通なのか?
その根拠なんかあるわけもなくて

ここで出てくる人は「みんな」(不特定多数)と「自分」である。そこから「みんな」と「自分」が対の関係であり、本楽曲の対象であることが伺える。(だが、この時点で主体である「自分」が男性なのか女性なのかはわからない。)
4行目に出てくる「根拠」とはもとになる理由・よりどころの意で、
このAメロで取り沙汰される疑問①「普通」とは何か?に対して、その「普通」の解釈の個人差を示す言葉として使用されているとみられる。


Bメロ

もう誰もいないだろうと思った真夜中
こんな路地ですれ違う人がなぜいるの?
独り占めしてたはずの不眠症が
私だけのものじゃなくて落胆した

ここで新たに出てくる人は「誰もいない」の「誰も」(不特定多数)と「すれ違う人」(おそらく面識はないであろう)の2つだ。そして「私」という単語からAメロで登場した主体である「自分」=「私」であり一人称から女性の可能性が高いことを想像させる。
Bメロの冒頭では「真夜中」という時間帯と「こんな路地」という場所の2つの情報がわかる。このBメロでは主体である『「私」が「真夜中」に「路地」を歩いている。』という状況が伺える。「こんな路地」と表記されているということは、おそらく人通りが少ない路地だと推測ができる。そんな「路地」で「真夜中」というさらに人が少ない時間帯に「すれ違う人」がいる。=独り占めしていたもの(ここでは「不眠症」が出てくる)・・・人通りが少ない路地で誰かとすれ違ってしまったー普段誰かが利用している道・場所を独り占めできていると思っていたのに他人とすれ違ってしまった=私だけのものじゃなくて「落胆」(・・・がっかりすること)した。

・・・???

なんですれ違うことで落胆してしまった?路地は公共の場であるから、真夜中でも誰かとすれ違う可能性は0ではないはずだ・・・
少なくとも筆者はここの解釈に執筆している今でも戸惑っている・・・。


サビ

らしさって一体何?
あなたらしく生きればいいなんて
人生がわかったかのように
上から何を教えてくれるの?
周りの人に決めつけられた
思い通りのイメージになりたくない
そんなこと
考えてたら眠れなくなった
だからまたそこの角を曲がる

1サビがやってきました〜!
ここではまず、「らしさって一体何?」と主体である「私」のストレートな疑問②から歌われている。そして、「あなたらしく」の「あなた」=「私」(主体)・「周りの人」が登場する。ただ!!忘れてはいけない!もう一つ出てくる!!「人生がわかったかのように 上から何を教えてくれるの?」と歌われている・・・おや?どこかで似たような言い回しを聞いたことが・・・??欅坂46のデビューシングル「サイレントマジョリティー」に出てきた「先行く人」たちが唱えている状況になんだか似ている気が・・・??(気になる方はこちらの歌詞分析をご覧ください♪ https://note.com/rrrrrnrn27/n/n65c20341cda3?magazine_key=m6110457d9be8)   「あなたらしく生きればいいなんて〜教えてくれるの?」で「上から何を教えてくれる」人が出てきます!(88888888)「あなた」=「私」(主体)とここでは捉えられるため、「私」に対して上からものを言ってくる人・・・MVでは主体を表現していると思われる平手友梨奈。彼女が着用しているのは学生服。「人生がわかったかのように 上から」何かを言ってくる・・・ということは「サイレントマジョリティー」でいう「先行く人」。つまり主体の周りにいる「大人」を示しているのではないだろうか?ここでも「私」は大人に対して反抗心を持っていると考えらる。
次の歌詞では「周りの人に決めつけられた 思い通りのイメージになりたくない」と言っている。ここでは冒頭に述べた「らしさって何?」という主体が追い求めている疑問に対するが故に起きる反発が書かれているのではないだろうか。
「そんなこと 考えてたら眠れなくなった だからまたそこの角を曲がる」とあるが、Bメロに出てきた「不眠症」がここの「眠れなくなった」と重なる。1どや2度ではなく、何度も悩み眠れなくなったから「だからまた」とこれが繰り返している行動であることが伺える。


ここまで見てきた1番の歌詞を一度整理してみる。

主体 ー 私(自分) :  敵対ーみんな・周り・
    (悩んだ末不眠症である  上から何か教えてくる(=大人)
                 =自分以外の人全員

主体の持つ疑問①「普通」って何?
       ②「らしさ」って何?

以上のような構図が見えてくる。

これを踏まえて、以降の歌詞みていく。


2Aメロ

星空さえも中途半端だ
街の灯りが明るすぎて
明日が晴れようと雨だろうと
変わらない今日がやって来るだけ

1行目と2行目では倒置法が用いられている。言い換えると「街の灯りが明るすぎて 星空さえも中途半端だ」となる。今までの情報とここの部分から、常に電灯が点いている住宅街のような場所なのではないかと推測ができる。また、「星空」という言葉から、1番と変わらず時間帯が夜であることがわかる。
「明日が晴れようと雨だろうと 変わらない今日がやってくるだけ」という歌詞からは、時間が経てば”明日”は”今日”になっていく・・・代わり映えのない日が再びやって来るだけであることを言いたいのではないかと推測する。


2Bメロ

本当の自分はそうじゃない
こうなんだと
否定したところで
みんな他人のことに興味ないし
えっ  なんで泣いてんだろ?

ここでは主体である「私」の周りに伝えたいことと同時に、どうせ見向きもされないと諦めている、相反する感情の様子が最後、涙となって描かれている。
主体=私=自分は「本当は(みんなが思っている)そうじゃなくて、こうなんだ!」と否定・主張したい。だが、否定したところでみんなは他人=自身以外の人に興味がない=自分(=主体)には興味を持ってくれない。 という一連の流れができる。
「えっ  なんで泣いてんだろ?」は主体が、自分自身が涙していることに気付き、ふと言葉にしたのではないだろうか。
ここでまた一つの疑問。なぜ、主体=私は泣いていたのだろうか
筆者が考えたのは、誰からもわかってもらえないことの「かなしさ」「虚しさ」そして「孤独」に気づいてしまったからではないだろうか。
欅坂46の曲で『キミガイナイ』(デビューシングル「サイレントマジョリティー」c/w)の歌詞にこんな言葉がある。

本当の
孤独は
誰もいひないことじゃなく
誰かがいるはずなの
一人にされてる
この状況

「本当の孤独とは一人にされてるこの状況」であるという言葉だ。「孤独」とは物理的に1人でいる「孤独」と、精神的に孤立状態でいる「孤独」の2つあると筆者は考える。
「えっ  なんで泣いてんだろ?」で表現されている涙は、誰からも理解してもらえない・興味すら示してもらえない状況であり、そのことから後者にある精神的な「孤独」を示しているのではないだろうか。


Cメロ

だって近くにいたって誰もちゃんと
見てはくれず
まるで何かの景色みたいに映っているんだろうな
フォーカスの合ってない被写体が
泣いてようと睨みつけようと

音楽的(メロディーライン的)には中途半端だが、引用している歌詞サイトを見るとここで一度改行されているため、分析でも一度区切ろうと思う。
まず最初に印象的なのは、冒頭の「だって」だ。「だって〇〇なんだもん!」などというようなときに使う可愛らしくも取れる言葉だが・・・ 
「本当の自分はこうなんだ!」と否定したところで・・・と否定のような、諦めのような意味を持っているように思える。
そして、「近くに至って誰もちゃんと見てはくれず」は2Bメロの「みんな他人のことに興味ないし」と同じ意味合いで持ってきている。
「フォーカスの合ってない被写体(フォーカス・・・焦点、ピント)(被写体・・・撮影の対象となる人、ものや景色)」は、つまりボケて見えているということになる。ボケて見えている=ちゃんと見えていない=前に述べた「近くに至って誰もちゃんと見てはくれず」に通じているのではないだろうか。


C'メロ

どうだっていいんだ
わかってもらおうとすればギクシャクするよ
与えられた場所で求められる私で
いれば嫌われないんだよね?
問題起こさなければ
しあわせをくれるんでしょ?

ここはCメロでも述べたとおり、引用サイトで改行が施されていること・繋げると長くなってしまうことから「’」を使い区切っているが、意味合いとしてはCメロの最後と繋がっている。
「フォーカスの合ってない被写体が 泣いてようと睨みつけようと どうだっていいんだ」=(主体以外の人に主体は)ボケて見えているから(きちんと見えていないから)どうだっていいんだ という意味になる。
ここで「ギクシャク」というカタカナ語が登場する。「ギクシャク」とは挙動や人間関係が円滑ではないさまのことを指す言葉で、ここでは後者の人間関係の方を表していると考えられる。
主体の本心としては「わかってもらいたい!」。だけど、わかってもらおうとするとギクシャクしてしまう=関係性が悪化する。それならば、求められる「本当の自分」ではない自分でいればうまくいくのかな?問題を起こさなければ、「本当の自分」を押し殺して、他人が思い・求める「(本当ではない=偽りの)自分」でいれば「しあわせをくれるんでしょ?」という解釈ができる。
「与えられた場所で求められる私でいれば」というフレーズを聞いて真っ先に思い浮かんだのが『与えられた場所で咲きなさい』という渡辺和子氏の著書だ。そこが今のあなたの居場所なんだというメッセージが込められている著書である。
この曲の主体=私はそれを望んでいるのだろうか?自分を押し殺してまで、偽ってまで、その場所で求められる姿でいなければいけないのだろうか?そこまでして、好かれる必要はあるのだろうか?そうでもしないと得られない「しあわせ」とは一体どんなものなのだろうか。
そして、ここの最後にも大きな疑問を残している。疑問③「しあわせ」とは一体なんなのだろうか。それはこの曲の主体=私にしかわからないと筆者は思った。なぜなら、人それぞれ「しあわせ」を感じることや時・・・「しあわせ」の度合いが」違うと思うからだ。冒頭Aメロにあった疑問①「普通」とは何か?と同じで、人それぞれ、ものさしが違うためわからないのではないだろうか。また、ここで出てくる「求められる私」と「本当の自分」との差とは一体何なのか(疑問④)。1曲を通して主体は「本当の自分」と「求められる私」の間で揺れ動き、どう立ち振る舞うべきか悩んでいるが、一体そこ差とはなんなのだろうか。


落ちサビ

らしさって一体何?
あなたらしく微笑んでなんて
微笑みたくないそんな一瞬も
自分をどうやれば殺せるだろう?
みんなが期待するような人に
絶対になれなくてごめんなさい
ここにいるのに気付いてもらえないから
一人きりで角を曲がる
Ah,ah,ah,ah

落ちサビでは再び疑問②「らしさって一体何?」から始まっている。そこに「あなたらしく微笑んでなんて 微笑みたくないそんな一瞬も 自分をどうやれば殺せるだろう?」と続いていく。前に「被写体」という言葉が出てきたからか、「微笑んで」「微笑みたくない」「どうすれば自分を殺せる?」と言った言葉に違和感が感じられない流れになっている。今まで周りからはぼやけて見えていた主体が、ようやく誰かにわかってもらえるとなった。がしかし、「微笑んで」という「求められる私」に対して「本当の自分」は「微笑みたくない」と反発している。こんな時、「どうすれば本当の自分を押し殺せるのだろう」と揺れ動き悩む主体の心情が伺える。「みんなが期待するような人」=「求められる私」であり、「絶対になれなくてごめんなさい」=「本当の私」でいたい、押し殺したくないと最終的には「自分らしさ」を手放すことなく、自分に嘘をつかない選択をする。「ここにいるのに気付いてもらえない」=「フォーカスの合ってない被写体」であり、「求められる私」でいることをやめたが故に生じてしまった代償なのではないだろうか。
そして、「らしさ」を探し求めて、他人がいる方とは別の方へ、違う道へと「角を曲がる」主体。



最後までみてきたので整理してみる。

疑問①「普通」って何?
  ②「らしさ」って何?
  ③「しあわせ」って何?
  ④「求められる私」と「本当の自分」の違いって何?

歌詞をみてきた中で、この4つの疑問が浮かび上がった。

「普通」も「しあわせ」も、人それぞれが持っているものさして見たものであって、全く同じものさしを持った人はいないのではないだろうか。だからこそ、「普通」とは都合よく使える言葉であり、本来は存在しないものなのではないだろうか。「しあわせ」も同じように、それぞれが違った考えを持っているわけであるから、一概にこれが「しあわせ」と決めつけることはできないのではないだろうか。
「らしさ」とは・・・。他人との違いであり、自分にしかない「ものさし」で見たときに生まれる価値観や考え方なのではないだろうか。そこをわかりあった上で共存することが大切なのではないだろうか。
そして、主体が悩んでいた「求められる私」と「周りの人に決めつけられた思い通りのイメージ」とは。「本当の自分」とは。
わかってもらおうとすれば関係性が崩れる→問題起こさなければ=わかってもらおうとしなければ(「本当の自分」を殺せば)、「しあわせ」をくれる・・・。

・・・?

「本当の自分」を殺してまで手に入れたい「しあわせ」とは一体なんなのだろうか。

「らしさ」を探し求めるために、「本当の自分」を殺さないために、
他人とは違う道へ一歩歩み出す・・・「一人きりで角を曲がる」



揺れ動いた結果、私が選んだのは「求められる私」でいることではなく、「本当の自分」でいることであり、「らしさ」を明確にすべく「一人きりで角を曲がり」、他人とは違う道へ歩みを進めたのではないだろうか。


他人と違う道を歩むことは決して簡単なことではない。とても勇気がいることだし、自分自身を押し殺さなければならない場面も出てくる。けど、「自分らしさ」を捨てる必要はない。「声をあげない」なんてことはしなくていい。「自分らしく」、「自分を離さないで」。周りに求められることはとてもしあわせなことだけど、「自分」を見失ってしまったらそこで歩みは止まってしまう。他人を受容すること、そして、自分らしくいること。この2つが成立して初めて「共存」することができるのではないだろうか。「コミュニケーション」が生まれるのではないだろうか。



きっとこの曲は、今生きづらい人を支えてくれる
そんな曲なのではないだろうか。

少なくとも私はそう感じている。