雑記。インスタグラムとプラトンの洞窟の比喩

哲学の授業ではたくさんの本を読み、それはいつも私の新しい視点から物事を見させてくれる機会を与えてくれる。哲学では鉄板のプラトンの「国家」もその一つである。


「国家」では途中、かの有名な洞窟の比喩が出てくる。簡単に説明すると、洞窟の中には何人かの囚人が生まれてから閉じ込められており、彼らは洞窟の壁に映し出される影を見ながら生きている。彼らの背後には塀があり、その後ろには火が灯されている。その塀の上で人が人形を動かすことによってその人形の影が囚人たちが見ている壁にうつる。囚人たちは人形の影を見せられているが、人形として認識する。体が縛られている囚人は身動きが取れないため、背後にある塀と火の存在に気づくことができず人形の正体を知らぬまま、今まで見せられていた人形の影が本物であると思い込みながら生きていく。一人の囚人が解放され、洞窟の外に出て本物を目の当たりにした後洞窟に戻り他の囚人たちに今まで見ていたものは本物ではないと言うものの笑われて信じてもらえなかったと言う、まあそんな感じの話である。

生まれてきてから囚人でずっと影を見せられているなんてあり得ないだろう!とかそんなところは論点ではないし、あくまでも洞窟の”比喩”なのでそこはここでは触れないでおく。

この話を読んだときにふと、私はインスタグラムを思い出した。私があのアプリで見ているのは「おしゃれ」や「楽しさ」、そして「幸せ」といった抽象的概念そのものではなく、その影なのである。私たちは日々の日常の切り取られた瞬間(もしくは意図的に作り出された瞬間)をインスタグラムで見ている。その写真には捉えられていないコンテクストを考えたら、その写真に”いいね!”をする価値を見出すのか?疑問である。

さらに疑問なのは、インスタグラムなど視覚的に訴えかけるSNSが増えた今、人は「幸せとは何か」「自分らしさとは何か」「生きるとは何なのか」などの問いを自分の頭で自分なりの答えを導き出せるのかということだ。インスタグラムは何となく見ているということが多いためあまり頭を使わない。そして、今は調べたらすぐに出てくる、時間短縮、合理的などが良しとされ、時間をかけて自分で考えるということを習慣としている人はだんだんと少なくなるのではないかと思う。しかし、世の中には深く考えるべきことがある。分かりやすい例で言えば、コロナ流行後、私たちが良いと思ってきたことやそれまでの価値観と言うものを考え直す機会が多い。こう言う時代だからこそ、「考える」ということ、そして、考え方、を学び直したい。

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