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まぼろし(3話)

(創作)

「幸福を追い求めること自体、資本主義から生まれたまやかし」という分厚い本を読んでいたらピーという電子音が聴こえた。106ページからだった。外は雨だったのであまり気にしないようにした。しばらくすると「かくっ」という音がした。これは自分の舌と顎が離れる音らしい。どうやら夢中になっていたようで、舌と顎がいつの間にか離れたことに気づかなかった。歯医者に行く予約をしなくてはいけない。最先端の医療技術(ピンク色の薬を歯列に塗布するだけで口腔の病が治る)を受けるためには、ひとつ山を越えて行く必要がある。ひどく億劫に感じた。「本当にあなたがその商品を欲しているのかを見極める必要があります」398ページ。メモを取ろうとするが、手が動かない。肘の神経と手の神経がだらりと糸のように繋がっているからだろうか。指先に神経が集まるように集中する。そうこうしているうちに「幸福」の定義を忘れてしまった。また電子音が鳴る箇所から読み直さなければいけない。



少女、中学受験のための塾の友達と遊んでいるとD君から嫉妬される。嫉妬されるのは気分が良い。胸がいっぱいになるのを楽しんでいる。D君は「水曜日は絶対に掃除をしろよな」と言って居残りを強いる。最初はうっとりした気分で命令を聴いていたが、徐々に猛烈な怒りが腹の底から湧いてきた。「◯◯ちゃん」という一人称が「わたし」となって、膨らんでいく。そうすると今まで気づきもしなかったどす黒い感情があることに気づく。ひどく汚いと思い詰める。ただ、友達のWに話すと不思議と気持ちが楽になる。Wがケケケと笑い声を出す度に、もしかしたら何もかも放っておけば、いずれ鎮火するような錯覚に陥る。
少女、大人になってから早速薄暗い気持ちの名前を探しに行く。承認欲求という便利な言葉を住宅街で見つけた。山の斜面を切り崩してできた新興住宅街は、やたら階段が多い。溜め息が止まらない。承認欲求はとても軽くてビラのように撒かれた後、そのままにされていたので、路地は紙やインクで汚れていた。足元でかさりと音がしたので紙片を拾おうとしたが、「欲求」の文字が目に入ったので、嫌になり手を止めた。ネーミングセンス皆無。じっと見つめてくる野良猫を横目に階段を上り切ると、国道に出る。行き交う車と排気ガス。故郷の匂いだ!次第に頭が冴えてくる。住宅街を覆う空には飛行機雲がかかっている。なんて優しい空だろう。
少女、「航空券を買います」と大きな声で繰り返し喚きながら国道を走る。黄砂注意報が現れるずっと前のおはなし。

「きっとろくでもない大人になる」
担任との二者面談で言われた言葉を思い出す。ろくでもないことには段階がある。ろくでもないことを極めることだって誰にでもできる芸当じゃない。適当な木に登って、すっかり味のしない板ガムを吐き出すと1.5秒かかって枯葉の中に消えていった。結構ひどいことを言われたような気もするが、口を開けたまま何の反応も示さなかった。それよりも下駄箱の上に燕が巣を作っていた。あとでこっそり取り出してスープにしなくてはいけない。

(おわり)

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