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はじめてのnote 読書家

 自分をわかりやすく説明する、ということに24歳目前になっても慣れない、というか抵抗がある。しかし、つい最近までやっていた(そして失敗した)就活の面接では、その手のスキルは必須だった。わかりやすく自分をパッケージングする。それも企業側にウケるように。僕なんかは彼等の求める条件をほとんど満たしておらず、求める体験もせずに生きてきた。なので自然と嘘をつくしかなくなる。やれバイトリーダーを務めた、やれゼミでサブリーダーを務めた、などだ。(嘘をついてもつまらない、訴求力がなさすぎる!とあとになっては思うが、そのときには渾身だったはずだ。)当然、落ちてしまう。嘘をついて落ちたときの惨めさと言ったらありゃしない。鬱々とした僕は当時付き合っていた(そして、つい先日別れられた)彼女の家に入り浸るようになり、就活は面接はおろか書類選考すら通らなくなっていった。そしてずるずると生き、今仕事もなく1人の部屋でこれを書いている。
何の話だったろうか、脱線が過ぎた。
そう、自分をわかりやすく説明することについてだ。僕は一体なんなんだろう。これを読んでいる人がいたら、「こいつは、今時の若者にありがちな、自己の肥大化したツマラン奴だ。セカイ系の映画でも観て自慰してろ!」とブラウザバックをしようとしている所だろうが、ちょっと待ってほしい。わかりやすさに飛びつかない若者って結構貴重じゃない?大事にしてよ、と言いたい。僕は東京都に住んでいたとしても、石丸には投票しないんだよ、と。何の話だ。これこそ脱線である。
就活がうまくいかなかった僕は大学卒業後、普通の、ありふれた会社(お店?)たちでの面接で何と自己紹介していたのか?それがこの文章の題名にもなっている「読書家」的内容だった。つまり、「ワタクシは色んな本を年間100冊読んでおります!知的好奇心が云々」ということを言っていたのだ。アパレル店やラーメン店の軒先で、だ。痛々しすぎる。もう僕は出版社を目指す大学三年生のときの自分ではないのだ。しかし、嘘のない、縋るべき、そして誇るべき自分の特徴はもうそこにしかなかった。もちろん、面接をする側の彼等は内心ポカンとしただろう。より話を聞くと目の前のうだつの上がらなさそうな青年がたくさん読んでいるらしい本というのは、アパレルやラーメンに関する本ばかりでもないようである。それじゃ意味がないのでは?しかし、立派な経営者たちであるところの彼等は(そう、もはや僕の面接の相手は人事の人ではなく経営者になっていた)それを隠し「面白い人間だねえ」的なことを言ってくれ、採用してくれた。にも関わらず、どちらも長続きしなかった。尊大にも、自分のいるべき場所はここではないのでは?という気が沸々と沸き起こりある日突然投げ出したくなってしまうのだった。
ここまで読んだ人はあら、と思うだろう。ここまで読んでわかったことは、コイツが最近振られた(皆さんどんな人間に対しても恋愛について真っ先に興味を持つらしい)、読書をたくさんしている、仕事をすぐ辞める、そして石丸には投票しない人間であるということだけじゃないか、と。「仕事をすぐ辞める」はなかなか激ヤバ人間属性である。しかし、本当なので仕方がない。ちなみに、退職代行は使ってない。しかし、使ったほうが幾分マシだったのではないかという辞め方はしてきた。ますます激ヤバである。
あと今の僕に関して書くべきことは何だろう。ああ、卒業後一つ目の仕事をトんだ日に駆け込んだクリニックで受けた診断が「ASD傾向あり」ということだった、とかだろうか。これは最初には書きたくない自分の属性だった。(というか、ここまでの脱線だらけの駄文もある程度は意識的であるので許してほしい。)「ASDの人である」という定義は現代においてまあまあ強力で、暴力的なものだと思うからだ。実際、今の僕はそれに囚われている気がする。まあ、正確にいうと信頼に足る「ASD傾向」診断が下されるのはその次の日に行った別のクリニックでのことだが、流石に長くなるのでまた別の機会に詳述したい。
そう、僕はASD傾向らしい。それも近年強くなってしまっているらしい。他人と仲良くなるためにかかる時間がどんどん長くなっている実感があるからだ。実家にいる父からも先ほど「昔はそこまでじゃなかったはず」というメッセージが届いていた。だから、昔からではないのだろう。正直、小学校の頃はほとんど虐められたりもしていなかったのに、記憶がないのでわからないのだ。ただ、おそらく中学校何年生かのときの下校の下り坂(長く傾斜の大きい坂が、僕の学校にはあった)の途上で、ふと横にいる友人たち、仲が1番良かったわけではない友人たち、と何を話して帰ればいいか全くわからなくなってしまった瞬間を覚えている。そしてそのときからずっと続いてる気がしないでもない。
でも、さっきも書いたようにこれを読んでいる人は僕のことを「ASD傾向の人」だと真っ先に定義しないでほしい。せめて、「本をたくさん読んでいる人」とか「ナイーブな関西人」くらいを最初に出してほしい。本の世界に何時間も入り込んで毎日を過ごすということが、既にASD的である可能性もあるだろうが、それでも、あくまで「本をたくさん読んでいる人」と思ってほしい。これはプライドの話なんだろうか?でも僕は23年間、違和感を抱きつつも他人からその診断をされずに生きてきたひとりの人間なのだ。それは少し、配慮してほしいなと思わないでもない。
さて、2000字くらい書いただろうか。今日はこのくらいにしたい。僕についてのわかりやすい説明とは程遠くなったが、いいだろう。これからも当分暇だろうし、気が向けば色々書いていきたい。

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