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人生において重要な、ターニングポイントとは?

人生には重要なターニングポイントがあると思う。
「この苦悩をどう乗り越えたらいいのか?」
「もう、折れてしまいそう…。」というときは、
その苦悩も、ターニングポイントと捉えるのはどうだろうか。

私のターニングポイントを時系列で、語ってみよう。

20代、化粧品店店員

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カネボウ化粧品店に勤務。
主任として、地域トップセールスレディとして売り上げに貢献。
会員500名を管理し、当時のマーケティングのノウハウを学ぶ。

私がトップの売り上げを作れたのは、単純に
「お客様とのコミュニケーションが上手く取れているから」
とずっと思ってきた。

しかし、メンターとして『ベネフィット』について添削していて、ふと思い出したときがあった。
「そう言えば、私は化粧品のメリットではなく、ベネフィットばかり言っていた!」と。

他の美容部員は「徹夜で配合成分や皮下組織の名称を暗記してきた」
という中、私は「この化粧品を使用すると、皆の視線が変わりますよ」
「男性から誘いがかかりますよ!」「いい出会いがありますよ!」
こんなことばかり言って、バンバン売った記憶が蘇る。

何か物を売るときや、おすすめ商品記事を書く場合は、メリットよりもベネフィット重視と、昔の自分に教えられた気がする。

30代、『宝飾店』開店

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義兄が東京で『宝石店』に勤務。その義兄を姉が婿養子に迎え、姉夫婦に私が加わり、3人で『宝飾店』を開店することに。
義兄が社長、姉が経理、私は店長というポジションで始まる。
当然ながら私の前職の会員500名を引き連れて、宮城県気仙沼での開店だった。

このときの目標は、「この大好きな仕事を、30年はやりたい!」
できれば私は「この仕事を70歳までやれたらいいな」と思っていた。

私の接客スタイルは、とにかくお客様の滞在時間を長く取り、ほとんど仕事に関係ない話題を振り話させる。1時間のうち50分は雑談、10分で仕事をするというスタンスを貫き通したのだ。

しかもその10分で
『ベネフィット』を並べ、高額商品もわりと簡単に売れた気がする。
結果、固定客が定着し長いお付き合いが続いた。時にはお客様に愚痴や悩みを打ち明けられ、「私はカウンセラー?」と思うようになっていった。

40代、介護の始まり

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それから40代にさしかかった時に、母が脳卒中で倒れ入院。
姉夫婦と暮らしていた両親だが、姉たちの帰りが遅く取り残された父が肺炎で入院。ほどなくして父は認知症になった。

次の年、両親に疲れきったのか、姉が乳癌を患い手術することに。
乳癌の進行を抑えるために右乳房の他に卵巣を全摘と、他にも胆石が見つかり大手術だった。

親のことはある程度覚悟はしていたが、姉の乳癌はショックが大きく目の前が真っ暗に。義兄も、東京のお客様のために出張が多かったがずっと付きっ切りに。じゃあ店はどうなる…。

手術に送り出し泣き出す義兄に「一番しっかりしなければいけない人が、そんなでどうする!」と言いながら、私も「手術中に亡くなるかもしれない」と思うと涙が止まらなかった。

手術前に姉と話したことは「もしものことがあったら両親は私が看る。そして義兄は婿養子から外して自由になってもらう。」だった。

姉夫婦には子供がおらず私が仕事をしながら、姉の看病と両親の介護が始まった。父の入院先からは、認知症の父に夜は付き添うように言われ泊まり込むことに。当時、長男は高校2年、次男は中学1年だった。

仕事を終え帰宅後は、一通り家事を済ませてから父の入院先に向かい、父に付き添う。早朝に自宅に戻り息子たちと夫の弁当を作り、母と姉の病院を回り出勤。

ただひたすら無我夢中で、今自分はどこにいるのか、わからなくなるほどで、あのときが人生で一番忙しかったと思う。変わりゆく次男にも気づけなかった。この次男のことは、いずれnoteに書こう。

姉は手術が成功し半年後にお店に復帰するも、介護は両親に舅と姑も加わり、それから18年も続いた。このことも、後からnoteに書きたいと思う。

50代、東日本大震災でお店は大規模半壊!

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50代、お店も23周年を迎え、姉も見事に乳癌に打ち勝ち、細々ながらお店を続けていた。

この頃、義兄が「背中が苦しい」と訴え、体調不良が顕著になる。
結局、冠動脈が細くなっていることが判明し、心臓バイパス手術をしたが、退院3日目に急死!享年55歳!

姉は東京出張中で、お店はクリスマスセールの広告を出す寸前だった。
クリスマス広告が訃報休店の知らせ…。お店は姉と2人でやっていくことに。

この頃から姉は、両親を施設に入れ自分は乳癌になり、今度は夫を亡くしたことに自暴自棄に。とても店頭に立つことができなくなっていた。
義兄の分の仕事を含め、しばらく1人でお店をやることに。

それから1年が過ぎ、忘れもしない2011年3月11日東日本大震災!
お店は大規模半壊に!大きな地震が続いてもまさか津波が押し寄せるとは。
というのも、お店はそれだけ海岸から離れていたのだ。
ただ近くに川があるのを忘れていた。逆流してきたのだ。

お店の物すべてが水に浸かり、流された。
前の月に過去最大の仕入れをして、その在庫に津波が押し寄せてきても、自分たちが逃げるのが精一杯だった。下半身水に浸かりながら外階段から2階のベランダへ。

あのときは春の装いで、ハイヒールに薄手のプリーツスカート。雪も降ってきた。ただひたすら寒く、濡れた下半身は感覚がなくなり、遠のく意識の中、姉が「寝ちゃダメ、死んでしまう!寝ちゃダメ!」と声をかけてくれていた。おそらく一人だったら死んでいただろう。
東日本大震災の詳細については、あとでnoteに書くことにする。

悪夢の翌日は、まるで映画のワンシーン。町中が泥まみれでガレキが散乱していた。幸い、お店のウィンドウと壁と天井は残ったが、お店の中も泥まみれでグジャグジャだった。売り物や使い物になる物は、何もなかった。

店内を片付け途中で腰を下ろしたとき、こみ上げるものがあり、
「23年間積み上げてきたものが流された…。」涙が止まらなかった。

そんな売り物になるものが何も無くなっても、翌月からは仕入れた分の支払いが回ってくる…。
何もないところに大きなテーブルと東京の問屋から借りた商品、今まで扱ったことはなかった洋服を置いて、100日後にお店を再開した。

その後のことは、次のnoteに書いてあるのでご参照を。

まとめ

人生には、さまざまな苦難が付きもので、それをターニングポイントと捉えると、そこから這い上がれる勇気が湧いてくるだろう。

苦難があればあるほど学びは多く、そのすべてがターニングポイントと捉えると、決して人生に無駄なものはないとさえ思ってしまう。



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