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遊びの教育心理学的分析について、

こんにちは。本日も素敵な一日になりますように願っております

ロジェ・カイヨワ著の『遊びと人間』について独自の解説を記述しておりますが、今回は補論の”教育学から数学まで”内の教育心理学的分析に関して述べさせていただきたいと存じます。

遊びの世界が多様で複雑なため、その研究は心理学、社会学、世相史、教育学、数学の領域と多義に亘る上、それぞれの研究領域で異なったアプローチ方法がとられ、内容も非常に不均質になっています。

『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (262-285頁)によれば、

『偶然』の遊びに関しては、一部の研究領域では全く取り上げられていないのが事実です。
ジャン・シャトーは、「遊びが訓練であるより試練である」ことを証明し、ビジョン・ヴォルは、「遊びに相当するものは人生にはないが、すばやい、かつ統制のきいた反射神経を身につけるのに役立つ」と主張しているように、遊びは仕事のやり方を教えるものではなく、素質を伸ばすものだとの考え方が一般的です。ところが、純粋の偶然の遊びは遊具者のいかなる能力 ー 肉体的あるいは知的の ー をも発達させはしません。賭博は本質的に突如として大金を手にしたり、失ったりと受動的行為であるので、大きな幸せを手に入れられる欲求や希望に目がくらみ、労働と努力から人々の目をそらさせるため、教育現場においては、偶然の遊びはモラル的に受け入れられるモノではありません。だからと言って、研究の分類からは外される理由にもなりません。

しかしながら、子どもにとって、遊ぶ行為は訓練でもなければ、試練あるいは獲得した成績でさえもありません。これらは、遊びを通じて付加的に生じるものであって本質にはなりえないからです。遊びという訓練は自由で、強烈で、楽しく、創意に富み、保護されていますが、決して能力を発達させることを固有の機能としておらず、彼らが遊ぶ目的は遊びそれ自身にあるからです。但し、遊びが鍛える素質は、勉強や大人のまじめな活動にも役立つ同じ素質です。遊びの活動にも、持続的に精魂込めて、専心しえないことが明らかにされています。子どもたちにとって、遊びとは肉体の動きを偶々激しくしただけのものであって、統制も、節度も、知性もない純粋の衝動にすぎません。教育者が子どもたちに規則を尊重することを教える。つまり、子どもたちに遊びの中で規則を作り出す興味を与えることに成功することが重要で、子どもの社会的な自己形成又は人格形成に役立ち、彼らが社会に適合することができるようになるからです。

遊びでは、定まった規則を自発的に尊重する気持ちが大切であります。そして遊びは規則立てられたものと規則のないものに分割させることができます。前出のジャン・シャトーにおいては遊びを具象的遊び(模倣と空想)、対物的遊び(組立てと労働)、抽象的遊び(恣意的な規則をもつ、技倆の、特に競争の遊び)に区別してますが、それらは現実社会の中で一致しております。具象的遊びは芸術に帰着していますし、対物的遊びは、労働の先取りであり、競争の遊びはスポーツの前触れであります。競争の遊びは、規則立てられた遊びとして、具象的遊びを規則のない遊びとして競争の遊びと相反する位置づけでありますが、本書では競争の遊びはアゴンとして、具象的遊びはミミクリとして分類されています。

その他の偶然の遊び:アレアと眩暈の遊び:イリンクスについては、アレアが全く触れられていないのは上記で説明した通りです。イリンクスはその眩暈の遊びの固有の目的が、知覚と平衡感覚の軽い、一時的に快い混乱を引き起こす事であり、回転滑り台、ブランコなどでの遊びなどがその一例となります。恐怖を克服する訓練ともとらえられますが、むしろ、恐怖や身震い、一時的に自己統制を失わせる自失状態を官能的に味わう事ことに惹き付けられるのです。

心理学においても、眩暈の遊びについては、偶然の遊びとほとんど変わらず不十分にしか扱われておりません。理由としては、これらの遊びが良俗を見なされているからで、むしろその誘惑から自衛するところに文化というものが存在すると一般的には考えられているためです。