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きみが書いたものを読みたい人がいるんじゃないかなと言われた途方に暮れた40歳男の話

テンポの速いジャズが、大きな音で流れていた。都市の隙間にある老舗喫茶店。わたしは、少し小さめのカップに入れられた珈琲を啜りながら、思いもよらないお誘いを受けた。

堀さんも、今度は「書く側」に回ってみてもいんじゃないかな?

こんなお話をくださったのは、わたしが尊敬する編集者の先輩(「若い友人」という言い方をする人なので、自分も「お年を召した友人」と言うのが正しいのかもしれないが、ここはやはり「先輩」と書くことにする、長いし)だ。

本を書いてみたらいいよ。そんなことをいろんな人に言ってきたくせに、自分が本を書くなんて想像だにしたことがなかった。

わたしにとっての本とは、出版するもの。自分の書いたものを、自分で編集するなんてできないよ。よって、本を書く選択肢はなくなる。しかし、先輩が編集をしてくださるとしたら、今までなかった道が開けてくるのだ。

久しぶりに、心が踊った。

不惑の40歳とは、よく言ったものだ。ワクワクすることに、惑わされなくなっちまった。何を見ても心が動かないし、可能性を語る言説に期待しなくなった。

何が足るを知るだよ。こっちは悲しいよ、こんなもんだって知ってしまって。どんなに努力したって、人は空を翔べないって知ってしまって。どっちだって、大した変わらねえんだから。どっちだって変わらねえのに、あっちだとかこっちだとか言ってる。そういう世の中にも、途方に暮れちゃったよ。惑惑に不惑なのに、人生には迷っている。最悪じゃねえか。

そんなクソつまんない40歳男が、久しぶりに、心踊った。



価値がある存在だと言われるから、人は生きてゆける

店内を流れるピアノとドラムの音が、ますます大きくなってるような気がした。しかし、そんなはずはない。ここは現実であって、東芝日曜劇場じゃない。だから、登場人物の心の高鳴りに合わせて、BGMの音が大きくなったりはしない。

いわば、それほどまでに、心が踊った。もっと正確に言うとしたら、ハートがダンスしているんだ。

……何故か?

思うに、ここしばらく「頼む/誘う」ことばかりしていた。言うなれば、ホストだ。わたしが企画し、誰かをお招きし、かたちにしていくという作業だ。このことに飽きていたというところが、秘かにあるかもしれない。しかし、今回は「頼まれる/誘われる」立場。自分じゃない誰かが企画した旅に、ゲストとして参加して誘われるのは久しぶりなので、ときめいているというのが、まずある。

しかし、何より大きいのが「あなたは価値がある存在」だと言われたような気がしたから。これには、正直なところ驚いた。自分は承認欲求が低いと思っていたから、意外な心の動きにびっくりした。生まれてこの方、親の愛情を充分すぎるほど受けてきた。

もういないけど、酒乱であっても父は自分のことを愛していたし、知ってる人はご存知のように、母はあの通りだ。そのことが、自分に必要な承認を自分で供給できて、他人から認定されなくても生きて来れた源泉に思う。だけど、どうしたんだろうか。

まあね、ちょいと落ち込み気味だったしな。選挙には負けるし、やることなすこと上手くできないし、なんなら体重は90kg目前だし、ダメダメ尽くしのアラフォーなわけですよ。鈍感なわたしも、さすがにいかがなものかになっていたのかもしれない。

しかも、コロナ→ロシアと社会が不安的になってきて、剥き出しになった「世論」に対しても途方に暮れている。そして、世間の空気と自分の感じるところに、のっぴきならないズレを感じてきているんだ。だから、社会にとって、自分は価値がないな〜〜と思うところがあったんだろうな😰


今日も今日とて途方に暮れる

社会の潮流に付いていけないし、自分に価値はないしで、日々是途方に暮れ放題のアタシですが、大きく2つのことに途方みを感じている。

1つ目は、40年という人生の折り返し地点で感じた絶望「悪者なんていない」という絶望に関わる。この世も、ドラクエの世と同じように、魔王を倒せば平和になればいいのに、魔王とかそういう存在はいないんだ。あーあ、これじゃ、世界平和とか無理じゃん!

……という絶望ね。

でも近頃、誰かを魔王のように扱って「アイツさえ倒せば解決だ!」みたいな発想をよく見かける。まあまあ、落ち着きなよ。児童相談所で働いている人を悪者にしたって、何も解決しないのさ。どうしてそういうことが起きるのか、そのメカニズムを注目しなきゃだよ。

もしかしたら、本気で「プーチンを倒せば平和!」と思っている人もいるかもしれないね。前後関係を把握して、文脈を読み解いてから判断するというプロセスが、すっぽり抜けている。おじさん、とほほ…だよ。

極めつきは、Twitterで流れてきた #秋元の壁 というハッシュタグ。秋元康SUGEEEみたいな意味かと思ったら、どうやら札幌市の排雪されない雪の山を指すらしい。わたしも、排雪されない雪山は速やかに処理すべきだし、その雪山によってバスが運休になることはあってはならないと思うし、オリンピック(観光振興)より生活だと思う。

だがしかし、ツイッタラーは、弾糾派と擁護派で争ったりもする。「3日間もバスが運休してるんだぞ!」「いや、仕方ない」って。「いやいや、江別市のバス運休なんて、3日どころじゃないぞ」と思ったけど、この話は今日はよそう。秋元市長を倒せば除雪が良くなるほど、世の中は単純な構造じゃないのにな…

2つ目は、前述の話ともつながるんだが、SNSね。もう、やれやれだよ。自分と同じだと思いたい人たちの内輪話と、自分と違うと思うものを共有したい人たちの標的探しばかり。ここは小中学校かな?内輪話と標的探しが、村八分と私刑という狂気につながるって知らんのかな。極端だよ。社会の不安定も相まって、意見がひとつになっていくのが、わたしは恐ろしい。

インターネットが生まれたとき、そしてSNSが生まれたとき、物質空間にはない自由や多様性があるという期待を持って迎えられた。しかし、それからインターネットがあたりまえの時代になって、どうだろうか。だれもが、たくさん/遠くと/早く「つながれる」ようになって、どうなっただろうか。自由かもしれないが、そこに多様性があるのか。

社会不安定とSNSが、実はわたしたちの世界は「小学生並みの感想と中学2年生の病気」で出来ていることを暴いてしまった。少なくてもSNS村は、そう成り果てている。

いまになって、インターネットの「つながり」より、あんなにも忌避していた物質空間の不自由だが、個々の考えを丁寧に知りうる密なつながり。もっと言えば、少しの/近くの/遅い「しがらみ」がありがたいものに思えてくる。わたしは、すぐ「わかる〜〜〜っ」になってしまう歪んだ共感社会に贖いたいという思いだ。


「気づいた者負け」の時代

岡本さんが、自ら企画する動画教材の打ち合わせがあった。それを「世の中しんどいこともあるけど、前に進んでいこう」と思えるものにしたいと言うので、自分は「前向きじゃないし、なんなら悲観しているし」なんて前述の話をしたら彼が、それ「気づいた者負け」ですねと言った。

……気づいた者負けか。

確かに『スピリットサークル』の主人公も、気づいた生では不幸になり、気づかないフリして酒ばっか飲んでた生では、みっともないけど、幸せそうだったもんな。でもなあ、とはいえ、見ちゃったものをなしにはできんし…



まあ、岡本さんもわたしも、いろいろあったよね。それは、一歩を踏み出してしまったから。そして、学んでしまった。それが負けになるのは、ちょっと嫌だな。

この動画を見た人が「自分も何かやってみよう、見方を変えたらできそう」と思ってほしいと、彼は言う。後ろ向きに社会に立ち向かっていく無様な姿は、少しお役に立てるんじゃないかと思って、ありがたくお受けすることにした。


前向きじゃなくても、前に進んでゆく

最近、よく想像するんだ。東京の下町なんかに住んでさ、定時の仕事をして、淡々と暮らすんだ。

たとえば、仕事は、そうだなあ、豊洲市場なんかで働きたいかな。自分にはない、市場とか、港湾とか、荒々しい世界の男気に憧れを感じる。でも、事務職しかできないの。曲者オヤジに「おれ、エクセルなんてわかんねーからよ!」とか言われて、わたし「やっておきますねー」とか言って「おぅ、すまんな!」とか言われるんだ。

住むのは、うちの母方が「葛西」だから葛西(葛飾西部)地域がいいな。墨田区の東側とか、最高だね。あと、立石(カバー写真はここの酒場街で、途方に暮れた40男みがすごい!)とかさ、葛西地域の中心だった青砥なんかもいいかもしれないね。ともかく、匿名となりて生活したい。

人生いろいろ。「豊洲市場の事務職」という世界線もあるかもしれない。

それと同じように、わたしに「著者」という世界線もあるかもしれない。言いたいことがあるなら、SNSに書けばいいじゃないと言うかもしれない。でもね、お客さん。確かに、SNSは手軽でいいかもしれないよ。だけど、味わいってものがねえ。本ってえのは、指が紙に触れて、インクの匂いがして、ページをめくる自分の手の動きに合わせて心も動いていくんだ。

(ついつい、葛飾の人みたいになっちまった)

どんな人生があるかなんて、わからない。だから、途方に暮れても、絶望したとしても生きていく。

苦しいときに助けていただいて、いろんな人にお世話になって、ここまで生きてこられた恩を返せるまで、死ねない。どんなかたちかもわからない、少しずつかもしれないけど、返していく。そのためなら、どんな手段なのかとか、どんな立場なのかとか、どうでもいい。

自分のやりたいこととか、自分の保身とかもどうでもよくなってしまって、やけに荒んだ場所まで来てしまったナと思うけど、それでも求められることがあるならば、そのありがたい要請に懸命となって応えていきたい。

***

これで、4017文字かあ。本を書くには、これの約25倍。案外、イケそうじゃない?(SNSに投稿するのをやめたら、書けること間違いなし笑)

むかしながらの若者の街。古いビルの狭い階段を登り、一筋縄ではいかなそうな本とレコードが所狭しと並ぶ喫茶店。この薄暗く秘かな場所では、今までいろんな人生が語られてきたのだろう。

70歳は過ぎるであろうマスターが、サービスと言ってプルーンを出してくれた。この意味を、自分にはまだわからない。わからないことがある、知らないことがあるって、素晴らしいね。ハートがダンスするよ。

青山通りを走って、帰路につく。ふと、「ああ、この駅の近くの本屋さんへ営業に行ったな」などと思うと、いろんなことに心が動き、まだ「人は空も翔べるはず」と思っていたころの自分を思い出して、泣けてくる。10年前の自分が、初期衝動という懐かしい感情を少し分けて贈ってくれた気がした。

果たして、何も成し遂げてない自分の書いたものに、値打ちなんかあるんだろうか。とはいえ、天の邪鬼な自分は、成功者の書いたものなんて見たくねえやとも思いそうだ。「自分には、社会の要請がない」と思っていたことは、狭いところだけ見ていたのかもしれない。いまなら、そう思える。

先輩は「執筆依頼ね」と言って、コーヒーをおごってくれた。

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