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『稲盛和夫一日一言』11/30(水)

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 11/30(水)は、「極楽と地獄」です。

ポイント:自分のことのみを考えるのか、それともお互いに思いやりの心を持って接するかによって、その人の人生は極楽にも地獄にもなり得る。

 2004年発刊の『生き方』(稲盛和夫著 サンマーク出版)では、「心の持ち方ひとつで地獄は極楽にもなる」という項にまとめられていますが、1997年、稲盛名誉会長が在家得度された京都の臨済宗妙心寺派円福寺のご老師から教えていただいたという「極楽と地獄」のたとえ話は非常に象徴的です。
 先に『稲盛和夫一日一言』10月29日の項でも紹介した内容ですが、以下改めて示します。

 お寺の修行僧である雲水が老師に尋ねます。「あの世には本当に地獄も極楽もあるのでしょうか」 老師はこう答えます。「もちろんあるが、お前が思っているほどの違いはない。違っているのは、そこに住んでいる人の心だけ。地獄には自分のことしか考えない利己的な人が、極楽には思いやりにあふれた利他の心を持った人が住んでいる」

 雲水はさらに尋ねます。「心が違うというだけで、なぜ地獄と極楽に分かれるのでしょうか」老師は次のような例え話を語り始めます。

 厳しい修行に明け暮れる雲水にとって一番のごちそうともいえるうどんが部屋の真ん中の大きな釜で煮えていて、そばにはつけ汁も置かれている。食べ方のルールは、1メートルほどの長い箸の端っこを持って食べることで、それは地獄も極楽も同じ。つまり、釜の大きさも釜を囲む人数も一緒で、そこにいる人の心だけが違っている状況です。

 老師は雲水に問いかけます。「そこでどういうことが起こるか、想像してみなさい」

 地獄では、各自長い箸でうどんをつかむが早いか、自分の側にあるつけ汁につけて口に運ぼうとするが、箸が長すぎて自分の口には入らない。反対側からは人に食われてたまるかと横取りするために、前の人がつかんだうどんを取ろうと箸をのばす。その場は阿鼻叫喚の図となり、せっかくのうどんは飛び散って、結局誰も一口も食べることができずに、人は餓鬼道に走ってしまう。

 一方極楽では、長い箸でうどんをつかんでつけ汁をつけると、「はい、あなたからどうぞ」といって釜の向こう側の人に食べさせてあげる。向こう側の人も「おいしゅうございました。今度はあなたがどうぞ」と言って、先に食べさせてくれた人に取ってあげる。うどんはこぼれることもなく、誰もが穏やかに手を合わせて感謝しながら食べ終える。

 老師は雲水に「地獄と極楽の外見は何も変わらないが、これこそが極楽なんだよ」と教えるのです。(要約)

 同じ世界に住んでいるつもりでも、お互いが思いやりの心を持てるかどうかでそこは極楽にも地獄にもなる。
 これは前期高齢者と呼ばれる年代の自分にとっては、いささか耳の痛い話です。とっくの昔に「してもらう側」側から「してあげる側」になっていなければならない年代なのに、現実には「まだ・・・してもらっていない」などとあちこちに不満をぶつけたりしています。反省!、反省!!

 少しでも「誰かのために」と思う心の中の比率を増やしていこうとすれば、心身ともに健康であることが大前提となります。今後、フレイル(虚弱)に突入せずにいつまで健常な心と体をキープしていけるのか?
 心も体も一朝一夕に出来上がるものではありません。「日々是鍛錬」に尽きるのではないでしょうか。


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