『稲盛和夫一日一言』 2月24日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 2月24日(土)は、「志に拠(よ)って立つ」です。
ポイント:固い志に拠って立つ人は、目標へと続く道筋が眼前(がんぜん)から消え去ることは決してない。たとえ途中でつまずいても、くじけても、また立ち上がって前へ前へと進むことができる。
2007年発刊の『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫著 日経BP社)第十章 立志 「すべては『思う』ことから始まる」の項で、志を失わないことの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
西郷が最も厳しく戒めたことは、人が自分自身を高めていこうという「志」を捨て、努力をする前に諦めてしまう心の弱さでした。楽なほう、安易なほうに流されるままに生きようとする人間の甘えを、「卑怯(ひきょう)」という言葉を使って叱りました。
【遺訓三六条】
聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事績(じせき)を見、迚(とて)も企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦に臨みて逃ぐるより猶(なお)卑怯なり。朱子も白刃(はくじん)を見て逃ぐる者はどうもならぬと云われたり。誠意を以て聖賢の書を読み、その処分せられたる心を身に体し心に験する修行致さず、唯か様の言か様の事と云うのみを知りたるとも、何の詮(せん)なきもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤(もっと)もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌(くぜつ)の上のみならば、少しも感ずる心これなし。真にその処分ある人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空しく読むのみならば、譬(たと)えば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合えと申されし時逃ぐるより外(ほか)ある間敷(まじき)也。
【訳】
聖人賢士(知徳の優れた人、賢明な人)になろうとする志がなく、昔の人の行われた史実をみて、自分などとうてい企て及ぶことはできないというような心であったら、戦いに臨んで逃げるよりなお卑怯なことだ。朱子は刀の抜き身を見て逃げる者はどうしようもないといわれた。真心をもって聖人賢士の書を読み、その一生をかけて行い通された精神を、心身に体験するような修行をしないで、ただこのような言葉をいわれ、このような事業をされたということを知るばかりでは何の役にも立たぬ。自分は今、人のいうことを聞くに、何程もっともらしく議論しようとも、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであったら少しも感心しない。本当にその行いのできた人を見れば、実に立派だと感じ入るのである。聖人賢士の書をただうわべだけ読むのであったら、ちょうど他人の剣術をそばから見るのと同じで、少しも自分に納得のいくはずがない。自分に納得ができなければ、万一試合をしようと人からいわれたとき、逃げるよりほかないであろう。
目標までの長い道のりを前にして呆然と立ち尽くし、「自分にはとても無理だ」と諦めて前進を止めてしまうのは、甘えであり、逃げであり、卑怯者のすることだと西郷はいっているわけです。
どんなことでも、まず強く「思う」ことからすべてが始まります。「そうありたい」「こうありたい」という目標を高く掲げて強く思う。それも、潜在意識に浸透するほど強く持続した願望でなければなりません。
寝ても覚めても途切れることのないくらい、強いものであってはじめて、先人の教えを実践の場で生かすことができるのです。
その道は、茨(いばら)の道かもしれません。苦しいことの連続かもしれません。こんなに辛い目に遭ってまで、どうして「高み」を目指さなければいけないのかと迷い悩むかもしれません。
しかし、固い志に拠って立つ人は、目標へと続く道筋が眼前から消え去ることは決してありません。たとえ途中でつまずいてもくじけても、また立ち上がって前へ前へと進むことができます。逆に、志なき人の前には、いかなる道も開かれることはありません。
志を立てて、道を踏む。それは容易なことではありません。けれども、その困難さえ楽しめと西郷は教えているのです。(要約)
「正道を貫き通す」という京セラフィロソフィの項で、名誉会長は次のように説かれています。
正道、つまり正しいことを行おうとすると、どうしても困難で苦しいことに遭遇するものです。
自分が正しいと思う道を踏み行っているなら、いくら逆境に立たされようとも、そのことを楽しむくらいの境地になれるよう、自分自身に言い聞かせるのです。必ず報われることを信じ、正道を貫き通すことが大切です。(要約)
簡単に志を捨て、「長いものには巻かれろ」で自己主張することもなく、とにかく痛い目をみないように要領よく生きていこうとする。
自分の人生をそうした「卑怯」なものにだけはしたくないと思っています。
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