『稲盛和夫一日一言』 3月9日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 3月9日(土)は、「大善は非情に似たり ①」です。
ポイント:人間関係の基本は、愛情を持って接することにある。しかし、それは盲目の愛であったり、溺愛であってはならない。表面的な愛情はかえって相手を不幸にする。
2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)の中で、「大善と小善」について、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
「大善と小善」という話をしたいと思います。
例えば、自分の子供を可愛がるあまり、甘やかし放題に育てる。その一瞬一瞬は子供も喜んでくれるのですが、結果として、わがまま勝手に育って、とんでもない人間になってしまう。結局、その子供も不幸な運命を辿るはめになる。
このように、目先のことしか考えずに相手に施そうとする善行を「小善」と言います。そのときはいいように見えても、後々悪い結果を招くことになる。「小善は大悪に似たり」と言いますが、つまらない善をなすことは、かえって悪をなすことになるのです。
親にとって、子供が可愛いのは当然です。しかし可愛いからといって、ただ甘やかせればいいというものではありません。親ならば、子供が苦しんでいようとも、それを温かく見守りながらも、時には鬼かと思われるような厳しい対応をしなければならない場面も出てくるはずです。
しかし、そのおかげで子供は一人の人間として立派に成長していく。つまり、それが「大善」です。
「大善は非情に似たり」とも言います。まだ年端もいかない子供に、血も涙もないと思われるような厳しい対応をしなければならないとしても、その行為の中には、我が子を素晴らしい人間に育てていこうとする大善があることが必要です。
ここで大切なのは、相手にとって何が本当にいいことなのかを考える必要がある、ということです。(要約)
今日の一言では、会社における上司と部下の関係を例に、「信念もなく部下に迎合する上司は、一見愛情深いように見えますが、結果として部下をダメにしていきます。これを『小善』といいます」と解説されています。
また、1996年発刊の『成功への情熱 ーPASSIONー 』(稲盛和夫著 PHP研究所)「大きな愛にめざめる」の項では、経営者・リーダーの持つべき信念について、次のように説かれています。
「あなたは、日曜日や祭日まで毎日遅くまで仕事をしていて、家庭サービスの時間もない。それでは、奥さんやお子さんが可哀想じゃないですか」
私はよくこう言われますが、自分では家庭を犠牲にしているとは思っていません。それは小さな愛であって、家庭、あるいは自分個人を守るだけではなく、大きな愛で多くの従業員を幸せにすることが私の使命だと思っているからです。
しかし、この愛を他の人に義務づけることを、私は躊躇(ちゅうちょ)します。それは、人間は自分自身でこの大きな愛にめざめなければならないからです。そう思わない人にこの愛を強制すれば、「会社に忠ならんとすれば、家庭に孝ならず」というジレンマに陥ってしまいます。
また、このジレンマを抱えながら、家庭を放り出して仕事をすることは、自分自身に対して正直なことではありませんし、仕事の成果も上がらないでしょう。
それでも私は、大きな愛にめざめ、他の人たちのために喜んで働くことを厭(いと)わない人が現れることを願っています。それは、このような大きな愛にめざめたリーダーのみが、従業員を幸せにできると信じているからです。大きな愛は、多くの人たちに幸せをもたらすのです。(要約)
「会社に忠ならんとすれば、家庭に孝ならず」という言葉は、「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」という言葉が元になっています。
かつて平重盛が父の清盛と朝廷との間で苦悩した際に発した言葉とされていて、人が忠義と孝行の間で深い葛藤を抱える状態を示したものです。
この場合「忠」とは、主君や上司、国家などであり、外に対する忠義や忠誠のことです。一方、「孝」とは親や家族に対する敬愛や尊敬、孝行のことを指しています。
人が二つの大切な義務の間で板挟みとなり、どちらかを選ばざるを得ないとき、その道徳的なジレンマや内面的な葛藤、苦悩を象徴した言葉として使われるようです。
私も結婚して子供が生まれてからは、このジレンマに陥りました。今ほど就業管理が厳しくないころでしたから、平日は夜遅くまで、また休日もかなりの頻度で出勤して仕事に没頭するという生活を続けました。
それが果たして、家族にとってよいことだったかのは今でも定かではありませんが、少なくとも家族はもちろん、一緒に頑張っている仲間や組織のために懸命に働いたことは決して間違いではなかったと信じています。
常に周囲の人たちに愛情を持って接しつつ、より大きな愛にめざめることで、さらに多くの人たちに幸せをもたらすように生きる。それこそが「大善」の意味するところなのではないでしょうか。