見出し画像

『稲盛和夫一日一言』 4月13日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 4月13日(土)は、「単純な規範を守る」です。

ポイント:誰もが子どものころ、親や先生から教わったにもかかわらず、大人になるにつれて忘れてしまう単純な規範こそ、人生において守るべき判断基準とすべきもの。

 2016年発刊の『稲盛和夫経営講演選集 第5巻 リーダーのあるべき姿』(稲盛和夫著 ダイヤモンド社)の中で、心の中に判断のものさしとなる明確な基準が必要として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 トップに求められるのは、明確な判断基準を企業内に確立することです。なぜなら、経営とは日々の判断の集積であり、その判断の是非によって業績が左右され、ときには企業の命運さえ決めてしまうからです。

 そうであるならば、心の中に判断のものさしとなる明確な基準が必要で、それがどのようなものであるかが問われるはずです。正しい判断をするためには、その基準が立派で揺るぎないものでなければなりません。

 私は、その判断基準とは、「人間として何が正しいのか」という問いに集約されると考えています。「人間として何が正しいのか」と問い、自ずから導かれる答えを、ただひたすらに貫いていくこと。
 それが私の判断基準であり、京セラではそれを「フィロソフィ」として、全従業員で共有するべく努めてきました。

 このような判断基準を確立したことにより、経営者である私自身が経営に迷うことはなくなり、組織が拡大していったときも、それぞれの部門の長に就いた幹部が判断を誤ることなく、経営の舵取りの一端を担ってくれたのだと思います。
 そのようなことを可能としたのは、「人間として正しいことを貫く」という判断基準が普遍的なものであったからだと、私は考えています。そのために、従業員が心から共鳴し、共有してくれたのです。

 「人間として正しいこと」とは、正義、公正、公平、努力、謙虚、正直、そして博愛など、両親や学校の先生から幼いときに教わった、いわばプリミティブな倫理観であり、人間として貫くべき高邁な「徳」でもあります。
 そのような人間として最もベーシックな倫理観、高邁な道徳律をベースにして経営を進めてきたことで、従業員も頭で理解するのみならず、心から共鳴し、さらには自分自身の心を高めることにも努めてくれたのです。

 またそれは、海外に事業展開したときも、さらには異業種に進出したときも、そして企業を買収したときにも同様でした。
 普遍的な正しい判断基準を、企業哲学として掲げることで、全世界の京セラの工場や事業所で働く社員に、何の違和感もなく、その考え方が受け入れられ、実践されていったのです。

 多くの人が、京セラの成功は、先進的な技術力があったからだとか、時流に乗ったからだと言うのですが、決してそうではありません。
 経営の判断基準を、京セラにとってではなく、経営者である私自身にとってでもなく、人間にとってまた人類にとって正しいものとしたがために、国境や民族を越え、さらには経営者のみならず従業員までもが、心を高める努力を続け、その行動がぶれることがなかったからなのです。
(要約)

 また2011年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅡ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究部編/非売品)の中で、「原理原則を判断基準にする」として、名誉会長は次のように説かれています。

 リーダーであるべき人が正しい判断基準を持たなければ、組織はめちゃくちゃになってしまいます。
 自分の心というものをよく見つめ、手入れをし、反省をしながら、一生懸命人格を高めるような努力を繰り返している人とそうではない人とでは、判断基準ががらっと変わってきます。


 たいへん残念なことですが、日本の大企業の経営者の大半は、損得を基準に置いてものごとを判断しておられるようです。よしんば自分の会社にとって不利益、また損となるようなことであったとしても、勇気を持って正しいことを実行するという人がたいへん少ないのです。

 勇気を持って正しい道を踏み行えば、他人から謗(そし)られたり、バカにされたりすることもあるでしょう。「そんな融通の利かないことを」と言われるかもしれません。
 しかし、謗られようと何を言われようと、自分の会社に不利益になろうとも、正道を貫き通す。決して策を弄してはならないのです。

 そのためにも、かねてから自分の心を手入れし、正しいことを踏み行っていけるようにする。美しい心が自分の心の中の多くを占めるようにしていかなければなりません。(要約)

 京セラ在籍40年の間、京セラフィロソフィを通じて、正道を貫き通すことの大切さと同時に、そうすることの難しさも実感する毎日だったと思っています。
 経営者に限らず、リーダーがあるべき姿を貫き通そうとする姿勢を持っているかどうかで、その組織が生み出す成果も士気もまったく違ったものになってしまいます。

 人生においても、自分の心を手入れし、正道を貫き通そうとする姿勢を持ち続けること自体が尊い行為なのではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?