見出し画像

『稲盛和夫一日一言』 8月16日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 8月16日(水)は、「知識、見識、胆識」です。

ポイント:持っている「知識」を「見識」に高めるだけではまだ不十分。さらに、強い決意に裏打ちされた、何事にも動じない「胆識」にまで高めることが必要。

 2011年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅡ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究部編/非売品)の中で、「知識を見識にまで高め、見識を胆識にまで高める」として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 人間はさまざまな知恵を身に付けています。しかし、知識を持っているだけでは役に立ちません。知識を見識にまで高めていかなければなりません。
 見識とは、知識が信念にまで高まったものであり、自分が本当に信じているということです。

 さらには、その見識を担識にまで高めなければなりません。担識とは、見識に胆力、つまり勇気が加わったものです。いわば、魂のレベルで固く信じているがために、何ものも恐れないという状態です。
 このような胆識というものが備わって初めて、いかなる障害が現れようと、正しい判断を下し、敢然と目指す方向に進んでいくことができるのです。

 私は稲盛経営十二ヶ条の七条で、「経営は強い意志で決まる  経営には岩をもうがつ強い意志が必要」と言っています。さらに八条で、「燃える闘魂  経営にはいかなる格闘技にもまさる激しい闘争心が必要」と言っていますが、ここの強い意志、燃える闘魂が、まさに胆識のことです。

 物知りだ、知識が豊富だ、博学だということだけでは何にもなりません。博学と言われるくらい豊かな知識を、こうでなければならないという信念を伴った見識にまで高める。
 そして、こうでなければならないと決めたなら、岩をもうがつような強い意志でそれを実行していく。つまり、知識を見識に、見識を胆識にまで高めていかなければ、実業社会で仕事をしていくものにとっては何の意味もないのです。
(要約)

 名誉会長が胆識について話をされるようになったのは、思想家 安岡正篤(やすおかまさひろ)さんの影響です。

 2006年発刊の『安岡正篤一日一言』(安岡正篤著 安岡正泰監修 致知出版社)8月11日には、「知識・見識・胆識」について、次のように記されています。

 いつも申しますように、識にもいろいろあって、単なる大脳皮質の作用に過ぎぬ薄っぺらな識は「知識」と言って、これは本を読むだけでも、学校へのらりくらり行っておるだけでも、出来る。
 
 しかし、この人生、人間生活とはどういうものであるか、或いはどういう風に生くべきであるか、というような思慮・分別・判断というようなものは、単なる知識では出て来ない。そういう識を「見識」という。しかし如何に見識があっても、実行力、断行力がなければ何にもならない。

 その見識を具体化させる識のことを「胆識」と申します。けれども、見識というものは、本当に学問、先哲・先賢の学問をしないと、出て来ない。更に於いて練らなければ、胆識になりません。

 今、名士と言われる人達は、みな知識人なのだけれども、どうも見識を持った人が少ない。また見識を持った人は時折りあるが、胆識の士に至ってはまことに寥々(りょうりょう)たるものです。これが現代日本の大きな悩みの一つであります。

 人物を表現する際に、「腹が据わっている」とか「肝が据わっている」という言葉が使われることがありますが、まさにこのような人物が胆識を持った人なのではないでしょうか。ちなみに、私の住んでいる鹿児島では、すぐに西郷隆盛のイメージが湧いてきます。

 人は歳を重ねるにつれて、その人がどのような人生を辿ってきたのか、またどれくらいの修羅場を潜ってきたのか、その歴史のようなものが蓄積されて、顔つきや風貌に現れてくるといわれます。
 腹や肝の据わった人間には、まだまだ修行が足らないなと反省しきりの今日この頃です。精進!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?